慶應義塾図書館史

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 慶應義塾図書館が三田山上に建設されてから、今年で既に六十年の歳月を経た。図書館が義塾における学問研究と教育に果した役割は極めて大きなものがあり、図書館の歩んできた道はまた義塾の発展のあとを示すものでもある。昭和二十年代の半ばまでは、図書館は三田における学問研究の中枢ともなっていたが、その後における研究室の急速な整備に伴なって、研究室と相補なって研究者や学生に種々の便宜を提供してきた。昭和四十五年以降は、義塾の総力をあげて作成した研究教育情報センター計画に基いて、新しい三田情報センターの組織の中で、図書館は研究室と一体となり、また、日吉、医学及び理工学情報センターと協力して、義塾の学問研究に貢献することとなった。

 昭和四十四年六月に図書館長に選任されてから、私は図書館のこれまでの歩みを想い起し、歴代館長の事績やこれに協力した館員の努力を尋ねようとした。けれども、慶應義塾百年史にも図書館に関する記事は意外に少なかった。図書館の貴重な蔵書のうちには塾内外の多くの人の厚意によって収められたものがあり、また、それらが館員の地味な長い努力によって維持されてきたにもかかわらず、この図書館の歴史が書き残されていないのは残念なことである。

 塾にも定年制が施行され、先輩の教職員が次第に去っていくのを見ると、今のうちに図書館を中心とした義塾の姿を書き残すことが必要ではないかと思った。幸い、この企画について高村象平、前原光雄、佐藤朔の最近三代の館長の賛同をえたので、その執筆を館員としての経歴の歴も長い伊東弥之助君に依嘱した。それは昭和四十五年五月頃だったと思う。同君は現在の三田情報センターでは、テクニカルサービス部長の要職にあるが、その業務の余暇に史料を探索し、古老の記憶を書き留めながら、比較的短期間にこの図書館史をまとめた。伊東君の学殖と経験によって初めて本書が刊行できたわけで、深くその労を謝すものである。

 大学図書館史としては、京都大学附属図書館六十年史があると聞いているが、私立大学図書館でその歴史を公刊したのはこれが最初のようである。慶應義塾は今から百十年前、福沢諭吉の私塾から出発したという私立大学でも特異な成立過程を辿っているだけに、その図書館史は各方面に好個の資料を提供するものと信じている。

   昭和四十七年一月

慶應義塾図書館長 高鳥正夫


凡例

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「慶應義塾図書館史」は昭和四十五年四月慶應義塾大学研究教育情報センターの設立によって、慶應義塾図書館もその中に組み込まれた段階に、企劃されたものである。
造本の体裁は大体「慶應義塾百年史」に拠ったが、内容は「百年史」が学制や施設の変遷に重点が置かれたのに対し、本書は図書館の成立、建設、発展に貢献あった人々の努力を中心に、やや読物風に記述した。
頁数の関係から引用文の典拠は省いたところが多い。これらは「百年史」「福沢諭吉全集」などを参照されたい。
本書は三田の慶應義塾図書館の歴史であって、第二次大戦以後中央図書館制度をとって、四谷、日吉、小金井地区にも分館を持つようになったが、それら分館の記述は本館に関係する限りの記述であって、詳述しなかった。
巻末の年表は図書館の主項目のほかに、慶應義塾関係と参照事項の二項目を加えた。大学図書館は大学内の一施設であることは当然であるが、同時に社会事象に直接・間接の影響の下にある。ここにあげられた記述は本図書館に何らかの影響があったと考えられるもののみ記入した。
附録に慶應義塾大学研究教育情報センター規程、三田情報センター規程及び慶應義塾図書館規則を加えた。四十五年四月以降はこの規程の下で運営されるので、参考のため掲げた。
最後に本図書館は戦災で事務室を焼いたため多くの史料をなくしている。従って懐旧談や個人所蔵の史料にたよるところが多かった。協力された多くの方々に厚き謝意を表したい。

第一章 ヅーフ部屋の流れ

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一 鉄砲洲時代

 慶應義塾図書館史はまだ纒ったものはないが、現在の図書館が出来たときに祝詞やら演説やらで回顧しているものがいくつかある。それによると時の塾長鎌田栄吉は明治二十三年慶應義塾が大学部を開設したとき、今迄の蔵書に加えて、新たに文学、法律、政治経済の書籍を外国に求めて基礎を定めたと、これは明治四十二年十一月二十三日の建物の安礎式の式辞として述べている。これは大学図書館としての起源であろう。式辞にもあるように、是迄の図書に加えてとある図書は、では図書館の蔵書とはいえないのか。明治二十三年、小泉信吉を迎えて新塾長とし、文学・理財、法律の三科を設けて私立最初の大学として発足した以前の慶應義塾は、安政四年福沢諭吉が私塾を創設して以来、洋学中心の学校であった。そしてその洋学塾には図書館室は欠かせないものであった。明治四十五年五月一日新図書館の開館式当日、福沢諭吉の長男一太郎は亡父の回想をして緒方塾のヅーフ部屋のことを語っている。「私の父が能く生前に話したことがある。父がずつと古い時分には緒方先生の塾に書生をして居った。其時の有様は蘭書の印刷したものは余りない。偶々其印刷した本が一冊あればそれを皆んなで引写しをして、それを会読の時に使って居ると云うことであった。それからなおヅーフという字引が緒方の塾に一つしかない。それで皆んなヅーフのある部屋に行って其字引の周囲に集って首っぴきで字引を見て勉強する。そこの部屋のことをヅーフ部屋といったそうで、それは自伝にも出て居りますが、其時の父が今なお若しも存生であって、此図書館を見たならば、大なる相違であると思って驚くことであろう。」と述べ、次で新銭座から三田への変遷を語っている。大学図書館という字に拘泥するならば鎌田塾長のいう明治二十三年を創始とせねばならないが、慶應義塾の歴史からいえば創立当初からの図書室を考えなければならない。

 緒方塾のヅーフ部屋の有様については、福沢諭吉や長与専斎らが詳しく語っている。それ程、蘭学塾には必要かくべからざる部屋であった。何故ならヅーフという字書は自伝にもいわれているように、蘭学社会唯一の宝書とあがめられてるものであり、誰しもが持てるものではなかった。江戸幕府の開成所などには数部も取揃えてあったことであろうが、民間人ではその名も高い緒方洪庵でさえ、一部しか持てない。学生各々が持てる道理がない高価なものであったから、この部屋の存在は蘭学塾のそれこそ心臓の部屋であったといえる。

 さて安政五年十月、福沢は江戸へ出て、鉄砲洲の奥平中屋敷の中で蘭学を教えた。そこにはヅーフが備えられていたであろうか。ヅーフの字書も安政四年に幕府の奥医桂川甫周の翻刻するところとなった。桂川版は全十六冊、積んで高さ二尺に余る大部のものである。従って以前の写本時代に比べれば安価であったろうが、まだ貧乏であった福沢塾に備えられたかどうか、おぼつかない。創始の頃の福沢塾は「慶應義塾百年史」によれば、藩の紐つきの学校であったという。その典拠を福沢自身が書いた明治十六年版「慶應義塾紀事」に「僅かに一小家塾」と記したことに基いている。編者は家塾を江戸時代の通念にしたがうと、私塾と藩学との中間に位し、「家塾」は幕藩に仕えている学者が、幕藩の意をうけて自宅に設けた塾であると説明している。若し藩命により藩の保護が多少なりと得られたならば、当然そこには蘭学塾必須のヅーフは備えられていたことであろうが、しかし当初の福沢塾の様子は誠に見すぼらしい。安政六年入門して、後に陸軍軍医総監となった足立寛の懐旧談によると「私が十八の年に福沢先生が其前年大阪の緒方塾より江戸に出て参られたという評判を聞いて、鉄砲洲の住宅に先生を訪いました。先生は私よりも八つ年長でありますから二十六の年かと思います。奥平の長屋で一軒の空屋を借りて居られましたが、下は六畳一室で二階には十五畳ばかりの間がありました。(中略)下の六畳の間には畳が三畳敷いてあって、二畳の所に先生が坐って片隅の一畳に私が居りました。それで私が参りました時に「今、飯炊きも居ないから、お前は此処に来て飯でも炊いて書生をしてたらよかろう」と先生がいわれるので、私は飯炊きをしながら彼の一畳の上で蘭学を研究したのであります」六畳の間に三畳しか畳がなかったという。それは宛然足軽長屋と同様である。藩の保護があったとしたなら、もっと優遇されて然るべきであろう。奥平の中屋敷に塾を持つなどというといかにも好待遇であるように思うかも知れないが、封建時代の空気を吸った者から見ればおかしな話であったと見え、慶應義塾創立五十年祭の式典で、福沢と親交の厚かった大隈重信はその頃を想像して「先刻奥平侯の藩邸などという、鎌田校長のお話であったが、話で聴くと余程立派に聞えるが、なァに勤番長屋である。借家長屋である(拍手)実に貧乏なる状態で、そんな立派なものでない。諸君が夢にも見ることは出来ぬ。之を見ようとすれば、どこか此辺の貧民窟へ行って見ると直ぐ分る。殆ど貧民窟の状態である。其の時分の状態なんと云うものは―。」福沢と足立がいた部屋でさえ、六畳間に三畳しか畳がなかった。岡本周吉や山口良蔵らがとまったという二階に畳があったかどうか疑わしい位である。したがって百年史の「家塾」の解釈はいささか、考えすぎの感がある。第一、福沢の書いた「慶應義塾紀事」は「日本教育史資料」作成のため文部省に差出されたものの付録である。文部省は明治五年、既に家塾を定義した。「唯一家或いは二家迄の子弟を教候者は家塾に属し候間、私学之数に算入せず」と私塾よりも小さいものと言い、それに基いて福沢は「私学明細表」を提出した。「教育史資料」のときも、注意書に「家塾寺子屋を開設するものは奉行郡宰里正等の許可を受けしや」などの項があって、百年史の編者のように当然藩命によるものであるとしたなら、この注意はおかしなものといわざるを得ない。明治初年、文部省は竹橋にあれど、文部卿は三田にありといわれた位の福沢が、文部省の定義を知らず、質問に見当違いの答をするとは考えられない。

 こうした塾へ「藩中の子弟が三人五人づつ学びに来るようになり、又他から五、六人も来るものが出来」たというが、おそらく極く初歩の者で、和蘭の文典を箕作阮甫が江戸で翻刻したガランマチカやセインタキスを素読したり、講釈するくらいで済んだのであろう。ところが、それから一歩進むには原書を持たねばならない。緒方塾には蘭書が十部たらず備付けてあったというが、福沢はどうであったろう。福沢が江戸へ出て来たときは公用の勤番であるから、道中ならびに在勤中の家来をひとりくれる定則から、家来一人分の金が渡されるが、その金で家来を雇わず、江戸へ行きたがっていた岡本周吉にあたえたので、荷物は何もない。僅かにペルの築城書の原書の写しと自身の翻訳原稿を懐中に入れて来ただけである。福沢と岡本が江戸へ来て、汐留の奥平上屋敷の門を叩いて来意をつげると、門番は着のみ着のままのような風体を怪んだと伝えられている。この福沢が鉄砲洲の勤番長屋をあてがわれて、江戸扶持として六人扶持が本来の十三石の外に下附された。十三石は中津にいる母や姪の生活費で、六人扶持が江戸にいる福沢の給金だとするとなかなか原書は買えない。さきのペルの原書の所持者は家老の奥平壱岐で二十三両で買った。大阪にいるとき洪庵が黒田の殿様から借りて来たワンダーベルトの物理書は八十両という。蘭書の稀覯さ加減といったら、こんなものである。六人扶持で、教授の謝礼や写本の礼金位の収入は多少あったとしても、蘭書の所持は思いもよらない。というようなわけで、初期鉄砲洲の塾は原書もなければ、ことさらヅーフ部屋と名付けるような場所もない極小私塾であったと想像される。

 安政六年開港場になったばかりの横浜へ行って、蘭語が少しも通用しないことを知って、すぐ英語の学習に志し、通辞森山多吉郎のところへ通ったり、翌万延元年には幕臣木村喜毅の従僕となって米国へ渡ったり、帰国後は幕府の外国方の翻訳官に雇われたりして、英語の上達に努めたのは福沢らしい機敏な行動であったが、それも藩の紐つきなどという窮屈さがなかったから出来たことであろう。そして幕臣となったためか、或は上士の娘を嫁にする必要からか理由は判明しないが、奥平の中屋敷を離れて、芝新銭座に新居を構えた。その家は上下合せて二十畳ほどで、大いさは鉄砲洲の長屋とさして変らなかったが、庭に松の大樹があり、下女一人を雇えたから、生活は向上していた。この時代も外国方の事務の余暇英語を子弟に教えていたが、部屋の真中にわさびおろしが紐でつるしてある。それは書生が使う度になくなすからという理由で、なお殺風景な微々たる塾であることに変りはなかった。しかしこの頃の福沢は多少洋書を所蔵していた。

 先づ福沢が横浜で蘭語に失望したその日、キニツフルという独乙人が僅かに蘭語を話せた。福沢はその店で薄い蘭英会話書二冊を買って来た。またその後、横浜へ行く商人から英蘭対訳発音付辞書一部二冊を五両で、藩に嘆願して買って貰った。それはジョン・ホルトロップの著せるもので、蘭語から英語へ移る人にとって非常に便利であったから、其後多くの人に愛用された書物である。英書が目に見えて増加したのは、二度の洋行の後のことであろう。万延元年渡米の際は自費の洋行であったから、図書を多くは持ち帰れなかったが、自伝によるとウエブスターの辞書を買って「其悦は天地無上の宝を得たるが如く」であったという。このウエブスターは大辞書でなく抄略版であった由である。この外に「数冊の書を携えて帰国」したと後年回想しているが、その書名はわかっていない。

 文久二年条約改訂のための幕府の遣欧使節に随行し得た時は、幕府から四百両の手当金と繰替拝借金を相当うけて、大いに書籍を買ってこようとの意気込みで出発した。後年の「慶應義塾紀事」によると「文久二年英国開版の物理書、地理書、学術韻府等の書に併せて経済書一冊を得たり。即ちチヤンブル氏教育読本中経済の一小冊子にして当時は日本国中稀有の珍書なりき」とある。又この時、上海出版の英清辞書を買って来た。この本は現在も保存されて見ることが出来るが、その上包に「英清辞書二冊千八百六十二年竜動にて買う。価五ポンド、火災余甚だ高価なりき」と福沢の筆で記してある。火災の後であるばかりでなく、欧羅巴は物価が高くて出発前の意気込みほど、多くの図書は持ち帰れなかったらしい。

 しかしこの旅行で英語に自信が持てるようになり、その上、海外の現実を見、振り返って日本を眺めたとき、この侭ではいけないという考えが起こるのを押えることが出来なかった。海外にいたとき既に日本国内の攘夷の噂を聞き、帰国した直後にも公使館の焼討ちや洋学者への暗殺の魔の手がのびているのを知りつつも、福沢は英学普及の必要を確信して、積極的に塾舎の経営にのり出した。安政五年の開塾は藩の上司に呼ばれての教授であったが、渡欧から帰っての学塾は福沢の発意によるものである。先づ入門帳を作った。塾舎も幸い、参勤交替制の緩和によって、奥平藩の藩士の多くが本国中津へ引き上げたため、屋敷は空き屋が多くなった。福沢はその空屋を借りた。前と同じ鉄某洲の中屋敷の一隅ではあったが、この時は勤番長屋でなく「可なりの藩士の在勤せし古き長屋二軒の大小数室を使用せつものの如く見えたり」(森春吉回想)というし、立田革の懐旧では更らに詳しく「塾は東西に別れ、西は小幡塾頭、東は和田塾頭にて監督し、時々会議を催うされたり。教科書は大概、文典、地理書、窮理書、化学書等なり」と伝えている。

 この時代の塾生は緒方塾のそれと同様に一冊の本を手写し、福沢の所蔵せる辞書を引いて勉学したのであろうが、それらの蔵書が塾の何処にあったかわからない。ただ次のような記事が福沢の備忘録にある。「恭平取糺候処、卯四月ヅーフ壱冊、中丁岡村屋へ質入、金九両借用の由、福沢の旧書人身窮理は売払い、同断刀は弍両にて質入の由」恭平というのは、姓は小幡、文久三年四月に入門した古い塾生である。慶應三年福沢が再度の渡米から帰って、自分の蔵書の一部が無いのに気がついた。調べて見ると信頼していた恭平の仕業であったというのである。質入れは恐らく福沢の留守の間に、金の算段をつけるつもりでやったのであろうが、それが失敗したと見える。ヅーフは既述した蘭語辞典、従って英学塾となったこの頃の福沢塾では、もうさして有用なものではなかったのかも知れない。それは兎も角、塾生の容易く手にし得る場所にあったことを知り得る。

 この図書部屋を充実させる目的で、慶應三年、幕府の軍艦購入使節の一員となって渡米した。この時は自費の外に仙台藩、和歌山藩からも資金を得ていた。そしてその荷が「大小数弍拾」の箱詰となって送られて来たが、使節主席小野友五郎とトラブルがあって差押えられ、それが解除されたのは年も押つまった十二月となった。その頃には鉄砲洲は外国人の居留地になることに定まっていたから、急拠立ちのかなければならなかった。そこで十二月二十五日、維新戦争の決定的運命の日、即ち鹿児島藩邸焼打ちの黒煙のあがるのを見ながら、かって新婚時代を過ごした新銭座の地に新塾舎を求めたのであった。従って鉄砲洲の図書部屋を充実させようと紐育のアプレトン書林から買って来た図書は、鉄砲洲時代には間に合わなかった。

 それらの図書の内容は、経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった」と永田健助は語っている。永田は初め幕府の開成所で学んだ。開成所の「書館には随分多くの書籍が備えてあったが、最も多いのは文典であり、次いで物理書であった。政治、哲学、経済、修身などの書物は碌々見られなかった。」と開成所と福沢の買った図書との比較をしている。そしてこの時は一種の書籍を二十部三十部づつ揃えて買って来たから、教員・塾生すべてが図書室備付の原書を手にし、これまでのような筆写の労力が省かれ、辞書を使って自由に勉学することが出来るのであった。それは洋学書生にとって劃期的な夢のような事柄であって、次の新銭座時代の塾舎で実行されたのである。

二 新錢座から三田へ

 新銭座の塾は慶應四年四月に発足した。同時に慶應義塾と名付けて、開塾宣言の文「慶應義塾之記」を発表した。日本における洋学の伝統を記述し、この塾こそ洋学の正統を踏むものだと揚言した。事実この時にあたって、江戸中の洋学塾は殆んど姿を消した。徳川慶喜は水戸へ去り、朝廷の軍隊が江戸を占拠してはいたが、徳川家の処分はまだきまっていなかったから、幕府公立の洋学研究の開成所はまだ存続してはいたけれど、建物はあっても学問の府たるにふさわしい存在ではなくなっていた。幕府という本家がそのようであったから、幕府に仕官しながら塾を持っていた江戸の洋学私塾は今や塾どころではない、明日の吾身を心配せねばならなかった。そこえゆくと福沢は幕末以来、著述からの収入もあり、又幕府の因循姑息にも愛想がつきていたから、独立して教育に専心しえた。幕府という束縛も今はなく、新政府も定まらない。ここで初めて福沢は海外でみた学校の制度を採りいれることが出来たのである。「此学(英学)を世に拡めんには、学校の規律を彼に取り、生徒を教導するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に做い一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取て仮に慶應義塾と名付く」そして革新的な試みを実行した。ここではそれらを詳細に語る余裕を持たない。前年将来した図書が如何に活用されたかを物語らねばならない。

 先づこれらの図書は塾のどこに置かれてあったか。塾舎の平面図は幸なことに印刷された「慶應義塾之記」に附載され、その「義塾之記」は明治元年から二年にかけて三種類刊行されている。初めの二種は建物に変化はないが、部屋の名に相違が見られ、後のには部屋の変更とともに二棟の建物が増設されている。しかし図面には図書の置き場所が示されていないので、この時代の塾生の口を借りて探って見るより外に仕様がない。

 福沢が買って来た英書の豊富さに驚いた前節の永田健助は明治元年十一月に入塾し、後年の回想談によると部屋の配置などの記憶は正確である。門長屋を入って突当りに福沢の居宅があり、それを右に折れた建物には玄関の六畳ばかりの座敷が応接間となって、在塾生の姓名を記した木札が壁にさがっていた。玄関の続きに十畳か十二畳かの講堂が二つあって、そのうしろにはそれと同じ位の大さの部屋は板の間で食卓が並べてあった。門長屋は寄宿舎にあてられ、むさくるしい室が大小六七間あった。それはまるで元年版の平面図を見るが如くであるが、図書の置き場所は語られてない。永田より少し前、五月に入塾した後藤牧太によると「ウエブスターの字書が講堂に置かれたるを記憶す。ウエブスターの字書の外、地球儀置かれたり、学生戯れて之れを転がすを以て、先生怒って引込まされたことあり、後に薩摩辞書出来たり。其頃は日本語のものは余り用いず、ウエブスターの大中字書を用いたり」とあって、講堂に辞書があったとはあるが、どの講堂だか位置がわからない。ところがその講堂は永田のいう玄関から入って一番奥にある板の間で食卓が並べられてある部屋のことらしい。それは明治二年九月入塾した須田辰次郎の回想に「奥の方の八畳には正面に世界の地図が掛って居て其前にテーブルが一脚、其上に地球儀があり、それから極く旧式の水銀のはいった小さなコップ中に硝子の棒を立てたバロメーターが一つ、寒暖計が一つ、小さな柱時計が一つ」あったという。この時代にはその講堂は純然たる教室に変っていて、図書は新設された建物の広い部屋(二十畳敷位)に移されていた。「教授の用具としてはどんなものがあったかというと、広い室には大きな空の本箱が二つある。なぜ空であるかというと、書物が少いのに借り手が多かった為に、本箱は何時も空になって居ったのでございます」これで図書室などという名前はまだなかったが、図書のある部屋はわかった。新銭座の塾の出来たての頃は玄関のつきあたりの講堂が使われ、明治二年増築ができた後は、増築の方の室に移され、学生はそこで図書をじかに手にし、借り出してくることも出来たのである。教科書を引写して勉強する苦しみから逃れた教科書貸与制が行われたのである。

 慶應三年福沢がアメリカから図書を買って帰ったときは、在塾生の数に見合った程度の量を備えていたのであろうが、維新の兵乱も納まる明治二年になると、新政府の外交も新善政策にかわったので、洋学、殊に英学修業の熱意は高まった。全国から学生があつまって、新銭座の塾では収容しきれない程になり、奥平藩上屋敷の長屋を借り、三年には麻布の竜源寺、芝山内の広度院などの寺院を分塾にし、さらには旧幕時代の名門校だった江戸屋敷の長屋をも借りて、「外塾」と呼んで使用した。かような有様であったから、須田の回想にあるように、本箱はいつも空だったわけである。だからでもあるまいが、学校側もなるべく初学者には教科書を買わせる算段をした。明治二年八月に印刷された「慶應義塾新議」に

「一 洋書の価近来誠に下直なり。且初学には書類の入用も少く大略左の如し。
理学初歩 価一分一朱。義塾読本文典 価一分。和英辞書 価三両二歩。地理書、窮理書、歴史一部に付二両より四両まで。
右にて初学より一年半の間は不自由なし。
此外に価八、九両ばかりの英辞書一部を所持すれば最もよし」

とある。このうち理学初歩や義塾読本文典、和英辞書などは恐らく翻刻もののことで、地理書、窮理書、歴史など一部につき二両より四両とあるのが、原書のことであろう。しかし価格が下がったとはいうものの、激増する洋学生の需要には追いつかない。須田の懐旧談をもう少し拾う。「明治五、六年頃迄は東京市中、原書の本屋僅に二三軒、横浜に一軒あるのみにして、即ち日本橋釘店の丸善、向両国の島屋、築地の某外人店、横浜にケルン等是れあり。其店も殆ど見本として一種一、二冊あるのみ。同一種類のものが、五冊十冊と揃いたるものは、字書かパーレーの万国史、コロネルの地理書位の外、皆無というも過言に非らず」といった状態であったから、教科書借用に学生が殺到したのも無理からぬことであったろう。

 この教科書貸与は学生が少い頃は恐らく無料であったろう。しかし明治三年頃になると貸出は有料になったらしい。明治三年十一月入塾の奥羽庄内の学生栗本東明は克明な日記をつけていて、義塾にいる間の本の貸借を記しているから参考になる。栗本は慶應三年に江戸へ出て伊東玄朴塾で蘭学を学び、側ら下谷辺の旗本の次男から「英吉利文典」の手ほどきをうけた。維新戦争で帰国したときも、幕府の英学者蒔田某が脱走して来たので、勉学を続けることが出来、戦後、もっと本格的に英語を学ぶために再上京し、慶應義塾に入学した。栗本は既に英語の初歩の段階はすぎていたから、入学の翌日地理の原書一部を借り、素読に出席し、十時から十二時までの授業時間に地理書一枚半すすんだと記されている。そしてその月の晦日に地理書借用代を二匁、銭に直して三百五十文、塾に納めたという。地理書は続いて借り、更らに地図を追加して借りた。その借用料は翌明治四年二月一日に、十二月、一月の二ケ月分として七匁、晦日には二月分として一朱を納めた。こうしてウエブストルの「大辞書」、クワッケンボスの「小合衆国史」、パルレーの「万国史」、グードリッチの「英国史」など次々に借り、明治五年四月医師を志して大学東校に去るまで続いた。その間、自分で買ったのは僅か二冊、それも英和辞書とノツタルの「スタンダルト字典」だった。その外に友達から文典、物氏小辞書とラルトネル「窮理書」を借りたことがあるだけで、如何に学校の図書が有効に使われていたかがわかろう。

 しかしこの反対の学生もある。塾の本を全く借りないで自弁で買い、しかも使わなくなると売払って、あまり損もしないで学生時代を過した男のこともつけ加えて置こう。少し栗本より後になるが、七年十月入塾の沼津出の岡本経朝という学生である。その手控によると初めは丸善などから新本を買ったが、後には古本を使った。日蔭町の十字屋梅吉という店から買ったり売ったりしている。また義塾所蔵の図書も古くなると学生に払下げになる。岡本はそれを買った。明治九年にミルの「経済書」を一円五十銭で、同じくミルの「代議政体論」を六十二銭五厘で、スペンセルの「交際論」を一円四十五銭で買った。そしてスペンセルは後に十字屋に一円十銭で売った。購入した洋書で高価なものはバックルの「文明史」を丸善で五円、これを売払ったときは四円八十八銭というからちゃっかりしたものである。岡本は号を昆石といい、後に著述を多く残した雑学者である。こんな要領のいい学生は当時としては例外と見て良いだろう。

 さて、栗本の修業日誌は新銭座から三田へ移転した期間に渉っている。移転は明治四年一月頃から始って、三月十六日に終った。三田は島原藩邸のあった広壮な地域で、これまで新銭座を中心として奥平屋敷や江川長屋や、その他寺院などに分散していた宿舎を一つに統合できた。在学生三百二十三名、都下における最大の私塾になった。

 慶應義塾が三田に移った頃のこのあたりは慶應三年の薩摩屋敷焼討の跡がそのまま残っていて、丘の下は一面の荒野であり、飲食店とては三田二丁目に一軒、赤羽橋と田町辺にそれぞれ蕎麦屋が一軒あるのみだった。「芝山内には剽盗白昼に出没し、俗に稲荷山と称する義塾西南方の森中には時々狐の鳴声を聞くを得たりし」(慶應義塾便覧明治三六)という程で、島原屋敷も荒れていた。そうした旧大名屋敷をそのまま使って学校を初めた。屋敷の一隅に「月波楼」と呼ぶ三層の建物があった。丘の上にあって、旧幕時代には珍らしい三階の建物であったから名物とされて、天保年間に出た「江戸名所図絵」にも記されている。「松平主殿侯別荘の看楼(ものみ)の号なり。此地の眺望、実に洞庭の風景を縮たるが如く、岳陽の大観を模(うつす)に似たり。依て城南の勝地とす」また、明治六年五月慶應義塾を訪れた福山の藩儒江木鰐水も「塾本、島原公邸、在三田、地勢高爽、前臨品川海、砲台在目前、右望品川後之山、左望江戸諸勝、皇居亦左近、(中略)而与諭吉氏登楼並講堂之楼、皆勝景、眺望雄豁美麗」と嗟嘆している。島原藩主はこの三階の部屋で美女を侍らせ、品海に映える月を賞したのであろう。しかし義塾がここえ移ったころは、風光は昔と同じく良かったが、建物は古びていた。福沢一太郎の回想によると「然も家が曲って居りまして、突つかい棒がしてある。其丸太に子供が跨って下に滑り降りたりして遊んだものでございます」というような有様であったが、ここに貸与される図書の本棚を置いた。講堂の一部ではなく、兎も角も「月波楼」と名のつく建物に図書が置かれたのである。図書が置かれた最初の名のある部屋「月波楼」はその後、古びて壊されたが、ここを利用した学生達の思い出の名称として永く回顧された。そこで創立五十年を記念して建てられた現在の赤煉瓦の図書館の最も高い八角塔の最上層に「月波楼」の名が復活され、塾生時代その名の部屋で勉学した犬養毅の筆になる「月波楼」の横額が、第二次大戦の時まで掲げられてあった。

 慶應義塾も三田に移って規模も大きくなるとそこに詳しい規則ができる。その中に図書貸出に関する項目もでき、そして時に応じて改訂され、幾変遷を重ねることになるが、そうした堅苦しいことは次節に譲って、ここでは初めて文書に現われる書籍掛を紹介しよう。三田へ義塾が移ったころ、塾内取締りのために作られた「入塾の人に告る文」なるものがあって、中に塾内の人事が記されている。

「一、教授に関りたる事は、芦野巻蔵氏、取扱うなり
 一、会計、営繕、及借用書籍の事は渡部久馬八氏、杉浦礼吉氏、取扱うなり
 一、前二条の事の外、寮中の事は都て名児耶氏に告げ聞合すべし」

 ここに初めて図書を直接扱う人の名が出てきた。会計及び営繕兼務の人、渡部久馬八と杉浦礼吉である。渡部は慶應四年一月、幕府崩壊の直前に福沢塾に入門した越後長岡の若侍、その時二十二歳であったが、長岡藩牧野家が官軍に抵抗することになったので、すぐ国へ帰って戦闘に参加し、敗戦後、再び入塾した時は鉄砲疵のために一眼はみにくく潰れていた。後年、伊藤博文の秘書になった小松緑の回想記に、明治十一年十一月に義塾に入学したときの渡部の風貌がしるされている。当時「日本座敷に塾監局があった。其処には英学校の役員としては相応(ふさわ)しくない、何方かと言えば人相の悪い、頭の毛も髭ものびるに任せて、眼は片方潰れ、黒木綿紋付の着物に兵児帯をだらしなく締めた男が居った。それが塾監の渡部久馬八という人であった」とあり、又「どこから見ても壮士の頭目か山賊の帳本、学校よりも山寒にでも立篭りそうな人体である」と別の文章では述べている。戦場の経験もあるので度胸は良く、荒っぽかった明治初期の学生を扱うのには格好な人物だったようだ。明治三年、増上寺山内の分塾広度院の監督は稲垣銀治と渡部の二人であったが、ここで武勇伝を実演した。この分塾に三河の人で荘田健三という男がいて、酒癖が悪く、酔えば喧嘩を吹きかける厄介者であった。「梅雨のしょぼしょぼ降る或る日の午時(ひる)過に、本堂の方が騒がしいから駈け付けて見ると、此の荘田が泥酔し、本堂の真中で大刀を振り翳して、寄らば斬らんと身構えて居る。此時荘田の斬り込む大刀先を受けとめたのは渡部久馬八」であったという。渡部はその後も永く執事をつとめ、明治十四年から十六年までは理事委員となるなど、義塾の行政部門の重要な役職にもついた。従って借用書籍などの瑣末な事務は、もう一人の杉浦礼吉の役目であったかも知れない。杉浦は入門帳にも名が見えないので詳細はわからない。渡部は書籍掛とはいっても大調べなどで、他の執事を指揮して蔵書調べをするなどの方が似合っている人のように思える。なお、渡部は後、宮城県や北海道、朝鮮などで農業を営み、大正三年一月東京で歿した。一族には義塾出身者が多く、台湾製糖の槙哲には伯父になり、登山家の槙有恒、防衛大学初代学長になった槙智雄などには大伯父にあたる人であった。

三 「書籍出納の規則」

 話は慶應三年に戻る。福沢の第二回の渡米は図書を多く買ってこようとして出かけたが、使節主席とのトラブルで送られて来た図書の荷解きが遅れたことは前述した。このトラブルは帰国の時ばかりでなく、旅行中づーっと続いた根深いもので、ニューヨークに着いて為替金引替えに手間どったことに初り、船中福沢のすすめで雇った外人小使に逃亡されたことなど次々に不和の種が起った。福沢が学校へ見学に行ったり、教科書の購入にせわしげにするのを小野は不快がり、出発前の勘定奉行方御国益掛の役目を丸出しにして、軍艦購入の余剰金を投じて図書を購入し、日本で売って利益をあげようと計画した。英書の不足は幕府内部の開成所でも明らかなことであり、又同行の海軍士官が必要から購入を求めた書籍器械類の調達さえ拒んでの上のことであったので、小野のこの行為は福沢を不快この上もないものとした。帰国のとき品川まで出迎えた塾生松山棟庵は「頭髪は蓬々として鬚も長く延び、其の容貌のやつれ加減は、予て先生を好男子と思っていた我々の眼には丸で別人と見えるほどであった」と感想を述べている。余程心労が多かったとみえる。しかしこうした苦労も塾生の一人々々が洋書を手にして、喜びあって勉学する姿を見るとき、忘れ去るものであったろう。長与専斎が「松香私志」で「其頃塾(緒方塾)中の雑談に字書を坐右に控え、原本にて書を読むことを得ば、天下の愉快ならんといい合えり」その天下の愉快が福沢の才覚によって実現したのである。

 購入して来た英書が使用できるようになった慶應四年は戊辰の戦乱のため、各藩は若侍の帰国を命じたから塾生の数は極度に減じて、一番少いときは十八名になったと言われる。そうした学生の小人数の場合は規則もいらない。ところが人数が増えるとそうはいかない。殊に在塾生ばかりの頃は扱いやすいが、通学生も来るようになると事は面倒である。三田に移って文部省にも私学明細表を提出する程の学校になると、もう規則なしではいられない。「慶應義塾社中之約束」は明治四年に初めて作られ、塾内万般に渉る詳細な規則であるが、その中に書籍出納の規則も盛り込まれる。義塾には塾監局、会計局、童子局及び教授方(今日の教務)の四職掌がある。塾監局の職務とする処は、入社、入塾、塾内、通学生、門の出入、応対掃除、書籍出納の七項目の規則に分れる。そしてその書籍出納の規則がまた九ケ条ある。即ち

「第一条 新に書籍を調れば、これを蔵書目録に書加う可し
第二条
 執事相談の上、不用の蔵書を売払うときは、古本売却の印を押す可し
第三条
 通学の生徒又は教授方にても、外宿する者へは、会読、講義の書に非さればこれを貸さず。内塾生には辞書其外対読の書を貸すと雖ども、塾の教授に用る品及塾監局附属の品を貸さず
第四条
 書籍出納の日は其時に従い塾監局より布告すべし
第五条
 毎月二十六日は書籍を貸さず、此日は朝第八時より第十二時までの間、塾監局の執事、内塾生の各席に至り、其借用の書を改るが故に、此日は朝より改済みまで、塾生の外出を禁ず、若し要用ある者は隣席又は同部屋の人に托して書籍の改を受く可し。定の修覆料は月俸と共に会計局え納む可し。此規則に背く者は次で書籍の借用を許さず
第六条
 通学生は毎月廿七日朝、第八時より第十二時までの間、借用の書を塾監局へ持来りて改を受け、修覆料は月金と共に会計局へ納む可し。此規則に背て借用の書を持参せざる者へは次の借用を許さず
第七条
 一ヶ年両三度、内外社中借用の書を尽く集て蔵書目録と引合ることあり。之を書籍の大調と名づく。此時は塾監局の布告に従い塾中の執事残らず出席す可きなり
第八条
 書籍修覆料として借用せる社中より金を納めしむる割合、左の如し
一銀九刄 大ウエブストル之類
一銀六刄 中ウエブストル之類
一銀四刄五分 テイロル万国史之類
一銀三刄 クワッケンボス究理書之類
一銀二刄 ウヰスドン及び小合衆国史之類
一銀一刄 小修身論及び第一リードル第二リードル之類
第九条
 借用の書籍を焼き、又はこれに種子油を掛けし者は、其時の市価に従い代金を償はしむ可し。」

 この煩瑣な規則は義塾が拡大されたからといって、急に出来たものではなく、新銭座時代の経験の積み重ねが、この文章になったのであろう。規則を見ると蔵書は絶えず、購入補充され、蔵書目録があった。不用になった図書は執事が相談して払下げた。塾内に寄宿せざる者は学生、教員に限らず、会読・講義に関する書籍以外は貸出さない。内塾生のみ辞書や対読の本を貸す、但しこれは翌五年改正されて厳しくなった。それによれば通学生へは定まれる読本の外は貸出されないことになり、別に「第五等生以上、稽古の書物大概は之を貸すべしと雖、等外生の読本は之を貸さず」が加えられる。当時の学生は学力によって等級が定められていた。第一等から四等までは大体教授方であり、五等は優等生と見るべきで、以下十二等まで別れており、等外生は初心者といってよかろう。従って上級の学生には稽古用の図書大概は貸すが、初心者用のものまでは貸出させないと解すべきであろう。次で書籍貸与の日は明治四年定めによると一定しなかった。塾監局員の仕事の都合によって定められたようで、それでは利用者が不便であった。従って翌五年には改正されて「書籍出入の日は毎金曜日と相定む」となった。第五条は毎月二十六日は執事が寄宿生の部屋を点検して借用書調査をするから午前中の外出は差しとめる。修覆料と称した貸出代金は月謝と一緒に納めるよう指示した。通学生はその翌日、借用書を必ず塾監局に持参して改めをうけねばならぬというのが、第六条である。翌五年のには通学生の借用書調べの方が先の第三金曜に行われ、寄宿生は第三土曜に行われることに変り、修覆料は月謝とは別に、改めの日に銘々が支払うように改正された。第七条は年に両三度、「犬調」という行事が行われること、第八条は修覆料金が図書によって違いがあることを示した。五年版では一々細かく示さないで「修覆料の割合は時々表を以て示すべし」と改められた。第九条は書籍の汚損、紛失に対する弁償規定である。

 総じて規則は細目に渡って中々に厳しい。洋書が貴重であったからに外ならない。修覆料は会計局が集め、入用書の新規購入や破損書の修理代に使われた。これは会計局の職務の中に規定されている。「社中之規則」の最終頁には学生の一ヶ月の費用の標準が計算され、父兄の注意を喚起している。「衣服を新に造る可らず、書籍を買う可らず、一ヶ月七両づつ、一ヶ年八十四両なり、これを学費の最も少きものとす。時々点心の菓子を買い、或は滋養の品を食う等のことあれば一ヶ年百両より少なかる可らず。百両の金あれば夏の単物、冬の襦伴一枚を調るにも差支なかる可し。但し一ヶ月十両以上の金を費す者は必ず奢侈を為す者なり」書籍を買わないで塾の本ばかりを利用しての費用は「金三朱乃至一分」とある。前節に参照した栗本東明は大体この標準にかなった学生であったことがわかる。

 この規則は年々簡略化されて、明治三十年代まで続いた。どう改訂されたかを示す前に、一度この制度を大改革したことがあったことを記そう。それは明治六年に義塾がカロザスとグードマンという二人の米国人を雇ったことに初まる。外国教師に語学を学んで会話や英作文に巧みになるを正則と呼び、日本人に訳解を学ぶを変則と言ったのは大学南校が明治三年頃から称えていたが、当時の外人教師雇傭の給料の高さは、日本人に比べて格段の違いであったから、私塾では到底実行出来ることではなかった。ところが幸いなことに明治五年旧松尾藩主太田資美の寄附があって、塾でも外人二人を雇い、正則科と変則科の二科を設けることが出来た。その時のカロザスの月給は百二十五円で、グードマンは六十円であった。期間は五年六月から六年七月まで一年の在任であったが、カロザスは義塾から去った後も築地で学校を経営しただけあって教育には関心を持っていた。カロザスは米国オハイオ生れで、シカゴ大学を卒業し、明治二年アメリカ長老派教会の宣教師として来日、布教のかたわら塾を開いていた。明治六年の「社中之約束」はその前後のそれと大いに異なる。恐らくカロザスの意見が反影してのことであろう。学生に対する「書籍出納の規則」などは最早、そこにはない。書籍に関してあるものは塾内の誰れが、何を扱うかの定めである。書籍を扱うものは執事である。執事のうち書籍に関係ある項目を拾うと

 「○校務掛
 一 課業の書に注意し宜きに従て之を取捨す
 一 書館を預る
 一 「カタログ」並に勤惰表を組立つ
 一 課業の書を買入並に売渡す事を掌る。但し売渡しの節は会計掛一員之を輔くべし
 ○諸務掛
 一 貸本を預り出納を取扱う
 ○会計掛
 一 書籍売渡の節は校務掛を輔くべし」

 とあるだけである。この「社中之約束」は明治七年に再び改訂され、五年の時のような煩細なものではなくなるが、内容はそれに近いものになる。たった一年間実行された大改訂だったことは太田資美の寄附も打切られて、雇傭継続が出来なかったことに原由する。カロザスは義塾の中に米国のハイスクールの規則を盛り込もうとしたのであるが、そうした教授法が当時の日本の実情にまだ早やすぎたこともあるだろう。彼が去るとまた旧に戻ったのは、まだ英語の発音の正確を尊び、文法に拘束されるような地道な勉学より、書籍の内容を早く理解し、英米諸国に追いつけ、追い越せの学問の仕方にまだ魅力があった。新銭座から三田にかけて義塾に学んだ匿名の人の回想に「今日英書を学ぶ人の様子を見れば、横浜神戸辺で西洋人を相手にする車夫や馬丁になるため学ぶのか、又はアメリカへ稼に出掛け土方や百姓をするために学ぶようである。故に発音や文法は中々正則的だ。我々の時代は之に反して、頗る変則的で発音や文法や字句などに頓着せぬ。其の代りに大部の原書の要旨を早く呑み込み、泰西文明の心髄を覗い、政治経済の原理に通暁して、大政治家大経世家と為り以て大に天下を経綸するが、我々のミッションであると言うような調子で、大部の書籍をばどしどし読んだのである。」

 さて、明治七年の「社中之約束」の中の書籍の項は非常に簡略化され、学生に関係ある箇所だけが残された感がある。

「書籍出納の事
等内の生徒へは課業の書籍大概は之を貸すと雖も等外生の読本は之を貸さず
生徒へは課業の書に非ざれば之を貸さず、但し内塾生へは原書の字引を貸すことあるべし
毎月第三土曜日には午時より執事内塾生の各席に至り、其借用の書を改むるが故に此日は午時より改済迄塾生の外出を禁ず、若し要用あるときは隣席又は同部屋の人に托して書籍の改を受くべし、此規則に背く者は次て書籍の借用を許さず
通学生は毎月第三金曜日朝第九時より午後第二時迄の間に借用の書を塾監局へ持来りて改を受くべし、此規則に背て借用の書を持参せざる者へは次の借用を許さず
一ヶ年に両三度内外社中借用の書を尽く集て蔵書の目録と引合せ大調を為すべし
借用の書籍を焼き又はこれに種子油をかけし者は其時の市価に従い代金を償はしむべし」

 明治四年では九条で、五年に十条にふえたが、七年には僅か六項目に縮められた。そして最も大きな変化は貸出図書の修覆料に少しも触れていないことである。思うにカロザスの改革に図書の無料帯出が含まれていたものに相違ない。この規定は年代のすすむにつれて更に簡略化されるが、明治十七年の改正には次の一項目が加わる。

 「一
 病気或は其他の事故にて一時休業することあらば一旦書籍を返納すべし、若し返納せざるときは仮令一ヶ月全欠席たり共、定額の授業料塾費を納めしむ」

 つまり授業料の中に図書の修覆料が含まれるとされていたのである。明治六年正則変則の二科が設立されたとき、受教料の値上げがあった。そして「受教料とは教を受るの費のみを云うに非ず、凡其五分の一は他の校費に充つるなり」とあって、修覆料は他の校費に含まれたものと見える。そしてそれが七年以降も引継がれた。図書の無料貸出は六年から十七年まで続いたが、十八年九月には改正されて再び有料になる。

 「一
 課業書を借用するものは其損料として毎月金十銭を納むべし、又他の書籍を借用するものは其大小部数に従い、相当の損料を納むべし」

 図書貸出の有料か無料かの外の規則の改訂は小さな事柄である。例えば九年の改訂には執事が寄宿舎を廻って貸出書を調べることはやめて、内塾生も通学生並みに講堂に本を持参して照合をうけるようにするとか、それが十八年には月一回でなく、不時に行われるとかである。万弁償の項が明治九年には「借用の書籍を焼き、又は種子油をかけしもの」が、単に「借用の書籍を損じたるもの」に変ったのは、行燈の使用がなくなったことを示して興味深い。こうして明治三十一年まで続けられる。

 最後に図書の新規購入のことに触れる。廃本になって売払われる図書があると同時に、新しい本が補充される。「課業の書に注意し宜しきに従って之を取捨す」と簡単な明治六年の規則にも、最も重要な仕事としてその最初に掲げられている。では、その図書選択者は一体誰だったのか。「慶應義塾五十年史」によれば「明治二十三年大学部設置までは、買入書籍選択に付ては門野幾之進」とある。門野は明治二年四月入塾した鳥羽藩貢進生である。義塾を出て共慣義塾や高知の共立社の教頭を経て、明治十二年頃義塾に帰り、教員筆頭の位置を占め、明治十六年には教頭となり、二十五年十一月義塾を去って実業男に入るまでその位置にいた。教頭というのは要するに明治六年の「社中之約束」の教員及び校務掛の長に当る。図書の選択購入に「読みの門野」と仇名された程、読書力に秀でていた門野が担当していたのは当然のことといえよう。

四 教科書貸与制の存続

 多数の図書を所蔵し、それを学生に貸与することになると、他人の図書と区別するために蔵書印が押されることになる。今迄のべられてきた図書にはすべて蔵書印がある。塾生達の勉学のために大量購入して米国から持ち帰った図書には「福沢氏図書記」の朱印が先づ捺印された。これが慶應三年末から四年の春にかけてであろう。そして有名な上野の彰義隊の戦争で砲煙をみながら講義を続けたとき、福沢やその聴講生が手にしていたウエーランドの「経済書」には、すべてこの「福沢氏図書記」の印が押されてあったろう。「慶應義塾」と学校の名称がきまったのが、慶應四年四月頃でこの頃から学生への貸与本には「慶應義塾之印」なる蔵書印が押され、完了したのは明治二年であったという。其後三田に移って「慶應義塾書館」という印がおされた。それは貸与図書の数が多くなって、講堂の一隅にあるというのでなく「月波楼」という堂々たる建物に置かれるようになったので、管理の上から名前をつけられたもので、或はカロザスの意見かも知れない。明治六年の「社中之約束」に校務掛が「書館を預る」とあるのが、規則に現われる書館の文字の初めであるからである。

 「慶應義塾書館」の蔵書印は其後永く使用された。カロザスの来校によって正則科と変則科が起り、それも瞬時にして止み、正科・別科の制が残った。年少にして就学し、五年の学期を踏むものを正科とし、十八歳以上の書生で速成に英書を理解せんとする者のために別科(科外生)の制度が設けられた。これが更らにこまかく正科に本科・予科の別を設け、別科にも四年と年限を区切って卒業としたりした。そしてこれを一括して普通科と称した。この間、書館も島原屋敷の「月波楼」から煉瓦講堂に移された。明治二十年八月竣工した福沢のいとこの子で、義塾を経て工部大学校第二回卒業の藤本寿吉が設計し建てた煉瓦講堂は「建坪は百三十九坪二合五勺にして、上下合せて間数十六、三十坪の大広間あり、事務室、書籍館は孰れも十二坪、応接の間は二箇所にて各々六坪なり、其教場に充つるものは九坪乃至十五坪のもの十一間にして、各級の生徒が時刻を同うして席に着くも猶四五百人を容るるべし」(時事新報記載)とあって、十二坪の書籍館をその中に含んでいる。明治四年の三田移転から既に十数年を経ていて、活発な青少年の常時使用に「月波楼」の老朽化は避けられなかったと思われるから、煉瓦講堂内が使用されたのであろうが、それが講堂内の何処にあったかは判明しない。「慶應義塾書館」の蔵書印は以上のような学事上の変革や建物の変化に一切かかわりあいなく使用されつづけた。

 この教科書貸与の書館は述べつづけて来たように蘭学塾のヅーフ部屋からの発展によるものであって、今日の大学図書館とは性格が異なる。それは慶應義塾が永く英学を中心とし、英語教育に重点を置いて、その間に専門知識を吸収するという学校であったからである。慶應義塾のような英学校は明治初年には日本全国に乱設された。そしてそれらは義塾の影響をうけることが多かったから、教科書貸与制度も多くの学校で実施されたことであろう。現に政府経営の学校ですらそうであった。東京大学の前身、大学南校と東校は、明治二年新政府が旧幕府の開成所の施設を引継いで成立した。そこには書籍局、典籍局と呼ぶ図書館があった。以下、「東京帝国大学五十年史」に記載の記事を借りる。「当時外国書の舶載せらるるもの甚だ少きを以て民間に流布するもの少く、又翻訳書の出づるもの亦多からざりしを以て、参考書は勿論、教科書の如きも学校にて購入して必要に応じ生徒に貸与し、以て学修の便を図るざるべからざりき」は全く義塾のそれと同一である。図書掛は蔵書を管理し、併せて払下げ、貸出の事務を行うことを専らとしていたことも同じである。

 しかしこうした貸与制は明治初年にして次々と廃められて行った。福沢の跡に続いた多くの洋学校は十年代には殆んと姿を消す。政府の大学南校もやがて変質し、専門分野の研究と専門科目を授くる学校に変ってゆく。明治七年五月南校は東京開成学校に、東校は九年十二月に東京医学校となり、明治十年四月には東京大学法・理・文学部が成立する。そしてそこには図書閲覧室が出来「翻訳書ヲ初メ我国ノ正史及野史等ソノ正シキモノヲ選ミ、之ヲ準備シ生徒課業ノ余暇縦覧」せしむる設備をととのえ、「図書館」の名称を使った。十年代に新設される私立の学校も多くは専門学校として発足するようになる。後年、慶應と並び称された早稲田大学の前身、東京専門学校を例にとろう。明治十五年の開設広告によると

 「一 本校は修業の速成を旨とし、政治経済学、法律学、理学及び英語を教授す。
 一 政治経済、法律および理学の教授は、専ら邦語講義を以てし、学生をしてこれを修学せしむ」

 邦語による専門教育と英語の習得によって欧米の新義を知らんとしたのである。それは「学問の独立を旗印に、自主研学をいのちとして駒を進めることであり、従ってまた図書第一主義が校是でもあった」(「早稲田大学八十年誌」)という。東京専門学校は政変によって政界から追われた大隈重信の建てたものであるから、経営の困難は義塾と同様である。その図書室も教室二階の八畳間に二個の書架を置いて出発したという。しかし自学自修を立て前とした建学の方針は、図書館の建設には積極的であって、二十二年には五十名を収容し得る閲覧室を作り、図書の充実には学生が募金して援けるという風に、発展の基礎は早くから芽ばえていた。

 これに反して慶應義塾は教科書貸与を主とする図書室を明治三十一年まで存続させた。それは教育内容と関連するものであり、又他方私学の貧しい財政にもよるものであった。「文明東道に努めた」と自から称する福沢は外国の図書館の優秀さを充分認識していた。幕末、海外に三度渡航し近代図書館制度を見て、慶應二年の「西洋事情」に紹介している。「西洋事情」は当時世間に歓迎されて、その発行部数は偽版を合して二十万乃至二十五万部に達したといわれる。それ程、攘夷の国、日本でも海外諸国の優秀さは認められていた。医術の卓抜さは早くより証明済みであり、兵器の威力、航海術の巧みさは眼のあたり見せつけられていたが、「西洋事情」はそれらの背景を型造る政治組織や社会制度を、平易にわかり易い言葉で説明した。従ってその影響は目に見えるほど敏速であった。幕末の頃既に病院が立てられ、貧院が目論まれた。これが明治以後の開口の世となると公然、先きを争って実行された。その中に図書館もある。「西洋事情」には文庫乃至書庫と呼んで紹介している。

「 一 文庫
 一 西洋諸国の都府には文庫あり「ビブリオテーキ」と云う。日用の書籍図画等より古書珍書に至るまで、万国の書皆備り、衆人来りて随意に之を読むべし。但し毎日庫内にて読むのみにて家に持帰ることを許さず、竜動の文庫には書籍八十万巻あり、彼得堡(魯西亜の首府)の文庫には九十万巻、巴里斯の文庫には百五十万巻あり。仏人云う、巴里斬文庫の書を一列に並るときは長さ七里なるべしと。○文庫は政府に属するものあり、国中一般に属するものあり、外国の書は之を買い、自国の書は国中にて新に出版する者より其書一部を文庫へ納めしむ」

 この記述は欧羅巴諸国の官立図書館であって、蔵書数の膨大なことに驚き、又納本制度の実施を伝えている。こうした公共図書館の便利さは福沢に感銘をあたえたと見え、他人にも推奨している。京都府参事槙村正直は福沢と親しく、良くその意見を聞いた人であるが、福沢から「書籍縦覧結社」なるものの開設を勧誘され、明治五年わが国初めての図書館ともいうべき集書院が設立された。

 ところが学校内の図書館については記事が少い。「西洋事情外編」に「大学校の内には書庫あり、博物府あり、又窮理学に用ゆる器材も備わりて、寒貧書生と雖ども自由に此物品を用いて志す所の学業を研究すべし」とあるだけで、学校内の書庫の大さや、設備に関してはあまり注意を向けていない。「西洋事情」は文久三年の渡欧のときの見聞を主としたものであるが、この頃福沢は小なりとはいえ、江戸で洋学塾を営んでいたから、欧洲の大小の学校には努めて参観している。英国では「キングスコルレージ」、和蘭では「レーデン大学」、独逸では「ベルリン大学」、露西亜でも体育学校、鉱山学校、医学校など見学しており、その他小学校にも立寄っている。慶應三年の二回目の渡米のときも「コロンビヤスクール」を参観している。では福沢は欧米の学校で何に注目して来たか。それは「西航手帳」などを見ると良くわかる。学課の課程、修業年限、教授や学生の数と学費など、主として学校経営の方面に関心が深かったようである。しかし学校施設は訪問の都度、詳しく見せられたので図書館なども見学し、その充実振りは充分承知のことと思われる。だが、それには莫大な金が要るので、すぐには実現出来ず、永年の夢であった教科書の学生への貸与が先づ実行されたのであろう。慶應四年に英書が貸与されて勉強し得るということは学生に大きな喜びであると共に、日本の学界でも驚異とするところであった。そしてその模倣が行われ、それが亦、泡沫のように消え去った後も続けられ、明治三十一年に廃止になったという存続の永さにも、驚きがともなうであろう。

 恩恵をこうむった学生は非常に多い。勿論、親が有福なものは自分で教科書を買えた。既述の岡本経朝のように売買して損をあまりしなかった要領のよい学生もいたが、大部分は学校から借りた。明治十八年入学の柳荘太郎は「先生も生徒も同じ教科書を持って読むのです。そのころは御承知でしょうが、塾で本を借りる。私はバジョウのコンステイチューションを持って居った。しかし十中八九までは塾で本を借りて、そうして先生もそれを見てどんな難しい本でも輪講でしたネ」と語っており、少し遅れて入学した小林一三は明治二十一年二月十三日、山梨県から上京して三田の高台に立って初めて海を見た。そしてその翌日入学試験をうけて、予科四番の一に編入され、ローマ史、ウイルソン第三リードル、グエーキー地質学、ロビンソン実用算術書を借りた。但し、漢籍日本外史は自費であったという。後ち宝塚劇団をつくったこの小林と同クラスに岡嘉太郎(後ちの劇作家岡鬼太郎)がいた。二人ともその頃から芝居好きで、よく示し合せて出かけたが、ある日、授業が終るのを待ちかねて、早々に二人乗りの人力車で新富座に駆けつけたのはいいが、岡は教室の机に借用のリードルを置き忘れ、翌日教員室に呼ばれ、保証人を呼出すぞと大眼玉を頂戴したという話が伝えられている。

 明治二十三年五月予科三番の二に編入された林毅陸は休暇明けの九月十五日、教科書を借りに行ったら月謝が滞納しているので貸してくれない。「狼狽啻ナラズ、直チニ高橋氏ニ委細ヲ申送り至急ノ送金ヲ請フ」九月二十九日には「午前会計局ヨリ呼バレ仕払催促ヲ受ク、是レ七月分ヲダモ未ダニ収メヲラザレバナリ、余無念万斛、殆ンド涙ント欲シ、又ア、金無キ程世ニツラキモノハナキ」云々と、後に塾長になった十七歳の少年林は日記で地団太を踏んでいる。

 この頃の教科書貸与は学期初めの第一日に行われた。高石真五郎日記に「十一日終日微雨、今日ハ今学最初ノ日ナリト雖モ課業ハ授ケズ、只教科用書ヲ塾生ニ借スノミ、余ハ五等ノ一教科用書ナルフイシャー万国史第二、スイントン文法、トドホンター小代数書、エベレット物理書四冊ヲ借ル」とある。これは明治二十八年一月の記事で、同年の九月十六日の項にも始業の日だから、例の様に書物を借り、時間表を写すにとどまると記してある。

 ところが借りるのは有難いが、次のような弊害もあったことは、明治二十八年九月入学した板倉卓造が語っている。「上級に進むとともに教科書は漢文の外は諸科みな英語の原書で英米舶来のものばかりであった。それを生徒学生一人一人に図書館から貸してくれるのである。というと常に沢山の貸本が用意されていなければならぬのであるが、当時の生徒数は私の一級にしても僅々二、三十人に過ぎない程度のものであったし、その本も上級生からの代々の下がり物であったから、実行困難ではなかったらしい。ところがその代々の下がり物を借用して見ると、大抵全ページ各行に仮名文字の訳語が書き入れてある。先生から訳読をあてられたときの当座当用には、あたかも大に便利であるようだが、実は誤訳や感ちがいの書き入れが頻出続出して、甚だしく後進生を惑わせたものであった」

 この先輩から後輩へ、後輩からそのまた後輩へと何十名か塾生の手に渡った教科書が現在でも、図書館に見本として保存されている。借用頻度の高い図書は製本を仕直され、背に見易いように日本字をつけたものもある。グードリッチ米国史とか、ロヤル第六とか、スチウセント仏国史とか略されて書かれている。開いて見ると訳語ばかりでない、試験の愚痴やら悪戯がきが満載されて、使用の古さをまざまざと物語っている。米国大統領ポークの口絵に眼鏡がかけられ、ピンとはねた口髭が書かれた横に、山口大造先生の肖像と記され、普通部高等科山口教員の俤を今に伝えている。

 多数の図書を収蔵し、それを学生に貸与利用せしめたことからいって、「書館」も図書館だといえる。しかし教科書が主であって教科課程と直接結びつきのうすい修養書や研究用参考図書がないことは、専門学校の図書館と決定的な相違である。それらの図書が全く無いというのは云いすぎで多少はあった。明治四年の規則にも「塾の教授に用る品、塾監局附属の品を貸さず」とあるように教授用の図書は多少あって、補充の努力もした。初年生の授業には今日上級生から教わったことを、明日下級生に教えるという緒方塾以来の幼稚さもまだ残っていたが、上級の教師になると訳解だけでは済まされない。矢野文雄の懐旧談に「教員たる地位は書生に教ゆるが為にも多少の研究を為さざるを得ざる外に、余暇に於ては自から諸般の書籍を研究するの便多きものたるを経験せり」こうしたことから教科書一辺倒ではなくなる。「慶應義塾五十年史」によれば明治六年以降に馬場辰猪、目賀田種太郎、金子堅太郎が外国から帰朝したとき持参した図書を譲受けたとある。これらは寄附されたのか、委託であったのか、わからない。現在の図書館には一冊も見当らないから、委託かも知れない。斯様に教科書以外のものも増えたとはいうものの、まだ不充分であったことは矢野が明治六年に政体のことを調べようと思って、「義塾の文庫を調べしが、当時我塾の文庫は他の塾に比すれば多くの書籍を蔵すると云うて可なるべきに、なお旦つ思う程の政治書」なく、止むを得ず五百頁程の米国憲法史一冊あるを見つけて研究したとある。しかしこの本を読んだお蔭で、立憲政治の神髄を知り、明治十四年の政変の原動力となった大隈重信密奏の意見書は矢野が書いたといわれている。十年以降、福沢も本格的な図書館の必要を感じて、その設置に努力するようになる経緯は次節で述べる。


第二章 初期図書館

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一 文庫と大学部書館

 福沢は外国の学校を見てその施設の移植に力めたことは事実である。先づ金のかからないことはすぐ実行している。例えば学校の運動施設などは慶應四年当初の新銭座の塾にも、運動場と唱える空間を持ち、ブランコやシーソーがあり、ダンベルなどもあった。ところが図書館となると簡単にはいかない。私学の資金という厚い壁があった。しかし福沢の頭には教科書と字書のみの図書室には満足しないで、本格的な図書館たらしめようとする考えは常にあったようである。時に応じた書館の充実などはそれを物語る。

 明治十年東京大学の開校式に福沢は講演を頼まれて出かけて行って、その施設を見た。それが動機か或は和歌山県新宮の元大名水野家が旧藩の蔵書を寄附しようと申し出たのが発端か、どちらかは判明しないが、その蔵書を中心に本格的な図書館建設に乗り出したことがあった。それは月波楼のような部屋の一隅ではなく、明治八年建てられた演説館の控室のすぐ脇に、木造の家を建て、図書を納めてそれを「文庫」若くは「書籍庫」と呼び、係は八田小雲と定められた。明治十二年には出来ていたと見え、その年の二月三日英国の下院議員サー・エドワード・リードが海軍卿川村純義と共に来校した時、すでに観覧させている。四月頃にはかなり整頓され、貸出規則は小幡篤次郎と加藤政之助が受持ち、目録は鎌田栄吉、阿部泰蔵、それに小幡も加わって作った。鎌田は目録作成の苦心を思い出として語っている。「その書物のカタログを作るのが又面白い。そのカタログの作り方が中々システマチックで仮名でいろは順か何かで引けるようにする。それで阿部さん、小幡さん、私共も参加してやりました。そうすると棚橋さんというお婆さんがあるでしょう。あの旦那さんは盲目ですが非常な国学者です。又あのお婆さんも偉い人で今の幼稚舎の在るところの小さい家に居て、竹橋女学校というのに教えに行って居ました。そこで棚橋先生を呼んで仮名遣を聴くのです。箒というのは「はうき」ですか、「ほうき」ですかというと、いやあれは「ははき」が本当ですというような工合でした。」棚橋のお婆さんは東京女子学院を創立した絢子女史で、福沢が旧大名小笠原家のお姫様の教育を頼まれたので、わざわざ招聘して塾内に住んで貰っていたのである。

 こうして苦労した目録も五月十四日には八、九分まで出来た。塾内の人が勝手に感想を記すことの出来た「道聴途説」という帳面に「随分面倒ノ業ナリシトノ趣、マヅマヅ目出シ々々々。或人ノコジツケナリトノヨシ左ニ
 目録編次始奏功 数旬労苦豈何空
 試尋児某書存否 笑対吹煙一服中」

 とある。また同書の欄外にはそれを野次って
 「転結サツパリ分ラヌ、ドウセ分ラヌナラ分ラヌナリニ寧ロ斯クコジツケタラハ如何
 請看無学文盲輩モ千万巻書ヲ弄バン掌中」

 塾内の多数の人が苦労して作った文庫も継続することが出来なかった。その原因は資金であろう。明治十二年から十三年にかけては西南戦争の影響で学生が激減し、義塾財政の窮迫はどん底に落ちた。頭を下げることの嫌いな福沢も政治家や諸名士の間をかけずり廻って、義塾存続の資金援助を乞うた。十二年末には教員の給料を三分の一に減じてもなお足りず、医学所を廃止したり、出版局を身売りしたりして、四苦八苦であったから、文庫の中止も止むを得なかったことであろう。かてて加えて文庫の仕事の面倒さ加減も福沢の嫌気を速めたかも知れない。明治十年四月入塾して、その頃、郷里和歌山に帰っていた念誓寺の住職南道亮が図書館建設の相談を持ちかけて来たのに対して、福沢は手紙で

 「陳ば書籍館設立の義、至極の思召立、世に益あるべきは固より弁を俟たず、唯々困難な其仕組にあるのみ、既に当塾にても或華族より和漢の書幾万巻を預り、此節こそ漸く其目録等も整頓いたし候位の仕合、其際には損じあり、紛失あり、借りて返さざるあり、千種万様の面倒筆紙に記し難し、併し夫れとても真実之を担任する人あれば必ずしも六ケ敷にあらず、其人を得るは金にあり、此度思召立に付、若し富て仁ある人が多少の資金を投じて之を助成するあらば、急度首尾能参り可申、尚目録の仕組等も数月前本塾にて工夫いたし候ものも有之、是も無資本にて未だ十分には無御座候得共、御入用も候はば大意写取り差上候様為致可申存候」

図書館の仕事の意外に金がいること、貸して返さぬ不快さ、面倒さを福沢は仔細に述べている。手紙は九月廿七日の日付であるから、この頃文庫はもう開いていたと思われる。こうして福沢が折角作った文庫も中止された。図書の一部はその頃出来た社交クラブ「交詢社」に移された。「交詢雑誌」明治十三年二月第十七号付録にその書目がある。新聞雑誌報告規則之部、書籍之部と地図之部の三項目に別れ、項目の中も種類別に細分され、細分の中はいろは順に配列されている。恐らく鎌田らの苦心の跡を幾分偲ばせるものと思われる。図書の他の部分は義塾書館に入ったのであろう。明治十三年の書籍出納の規則に、課業の書の他に「漢籍、訳書」の字が初めて見えるのはそれを語るものといえよう。

 文庫を担当した八田小雲は塾出身でなく、福沢と同じ中津藩士で、幕府崩壊後も本国に帰ることなく、東京にとどまって福沢を助けた。ちょうどその頃、福沢は出版業もやっていたので、職人の監督に八田を使った。八田は福沢より十歳も年長で、版下も書き、また下絵も描ける小器用な人であったので重宝がられ、三田に移って出版局が出来たときも、朝吹英二主任の下で出版の監督、売捌きなどに従った。また人物も堅いので信用され、三田校舎の普請のときの大工への支払や、福沢留守の時の役所との交渉の仕事などまかされていた。明治十二年の文庫設立の時には住居を書籍庫の脇に新しく建てて貰って、老余の身をこれに専心するつもりであった。八田は十七年四月廿日歿した。「八田小雲翁物故したり。年六十一歳、病症は肺炎と申す事なり」は福沢からアメリカ留学中の息子一太郎に宛てた消息の一節で、福沢一家から親しまれ、交際されていた老人である。貸出規則や目録を作った人達は後に皆有名になった。小幡・鎌田は後ち塾長になり、加藤は政治家、阿部は保険業の創始者として著名である。加藤は塾を出たてであったが、外の人々は教員などの経験を充分に積んだ老練者であるから、文庫設立に対しての義塾の力の入れようがわかるというものである。

 次の図書館設立には福沢が前より一層の力こぶを入れ、そして数年続いた。それは明治二十三年一月設立された大学部の書館であって、この書の冒頭に鎌田塾長が図書館の起源としたものである。明治初期の英学校が次々に姿を消し、専門学校が教育界の主流にとって代りつつあったことは前述した。福沢もいつまでも古い教授法を続けてはいられない。そこで慶應義塾にも大学部を設け、文学科、理財学科、法律学科の三科を置き、主任教師として米国から若手俊英の士を招いた。文にW・Sリスカム、理財にG・ドロッパース、法にJ・Hウイグモアであり、刷新を期に小泉信吉を大蔵省から呼び迎えて新塾長とした。学生は文二十名、理三十名、法九名の少数ではあったが、当時日本で大学と称するものは官立の帝国大学しかなく、従って法令に則るものではなかったにせよ、義塾のそれは帝国大学に次ぐ、私立最初の総合大学の発足であったといえる。

 しかしこの日本最初の私立大学部の設備はというと、旧来の島原屋敷の一隅であって頗る貧弱なものであった。そしてその一隅に図書室が設けられた。そして図書室充実のための書籍代は二十二年に七百三十三円九十二銭五厘支払われ、翌二十三年から年五十円宛四ヵ年継続して支出されることが評議員会で決定された。大学部とその図書室との様子を当時の学生鈴木治郎の回想によって蘇らせる。「其の校舎は粗末な木造で、現在の商工学校(注・今の南校舎)の所にあつて、本塾とは離れて居て、教室は僅かに三つ、教員室が一つ、図書室が一つ丈で、田舎の小学校分教場の様であつた」という。それを一層詳しく、川合貞一が間取りまで述べている。「校舎は今日の商工学校からその前の辺の処にあつたが、旧島原藩の下屋敷の建物を利用したものであつて、敷台付の玄関が付いていた。玄関を上つて突当りが理財学科の教室であり、その奥が大学部の図書室になつて居り、そのまた奥が文学科の教室、図書室の左側の部屋が法律学科の教室となつていた。」この建物は旧島原藩時代には来客応接用として使用されていたらしい。

 この図書室はどの位の規模であったかは「慶應義塾五十年史」に拠ろう。「五十年史」は同室に席を置いたことのある菅学応が編纂したものであるから、正確と思える。「凡そ二十畳許りもあらんかと思わるる一室にして、此処に備え置かれし書籍は、当時米国より招聘したる文科教授リスカム、理財科教授ドロッパース及び法科教授ウイグモアー三氏の指図に従い、新たに欧米より買求めたる二三千冊の新書を主なるものとし、之に加うるに六角廻転台に載せられたる一部の「センチュリー辞書」を初め、六七冊の「ウェブスタース氏字書」に過ぎざりしのみか、未だ書庫と読書室の区別すらもあるなく、唯僅に室の中央に長さ六尺、幅三尺大の机両三基を並べて、読書用に充て、西北二方の壁に、書架を連ねて、書庫と為す等、至極簡単なるものなりき。随て之が専任の事務員とては固より一人もあるなく、当時同室の入口にテーブルを据えて、之れに座を占めし大学部唯一の幹事が、大学部全躰の事務を執るの傍ら、或は館長ともなり、或は使丁とも為ると云う仕組」云々とある。幹事は武田勇次郎、二十三年度義塾報告には「教場取締、書籍係武田勇次郎」とある。武田は岡山の人、二十二年卒業して直ちにこの役についた。「館長も司書も閲覧室の監督も書籍の出入をするボーイの役までも武田君一人であつた」武田はすぱすぱ烟草を吹かしながら閲覧人を監督しており、学生時代から知っていたので、おい武田、何を出してくれ、彼を見せてくれと要求したと書いてるのは、後年紅蓮洞と号して文壇の奇人扱いされた坂本易徳の思い出にある。武田は三十年二月辞任し、三井呉服店に就職した。その後任が菅学応である。菅は愛媛出身の僧籍の人、二十七年十二月大学部文学科を卒業し、一時京都で布教していたが、二十九年福沢を頼って上京していた。

 この頃の図書室に関しての記述ははなはだ少ない。前述した川合貞一の話の中に、当時学生数はきわめて少く、三ヶ年を通じて大学部の全学生数は僅かに百三四十人にすぎなかった。従って学ぶ学科が違っていても、ほとんど同じクラスの学生のようにお互いに知り合い、交際することが出来た。「それであいている時間には、各学科の学生が図書室や教室に集まって放言漫語をかわし、まことになごやかなものであつた。」幅三尺大の机が両三基並べられた閲覧室も、その室で静かに勉強するというよりは、放言漫語の場所であったようである。

 新任外人教師達の指図に従って、新らたに欧米から買求められた二三千冊の書籍がどんな種類のものであったか、現在よくわからないが、やはり経済、法律、文学に関する英語の教科用書籍が大部分であったろう。しかし価格が比較的安い文学書が多く、経・法の書棚は隙が多かったとは前記坂本易徳が語っている。これに関連があるかも知れないのは日本の古書が多いのを福沢が見て不愉快がったという話である。「大学の文科ができたときに古典の和書があつた。ところが先生はえらい不機嫌になつたということです」「書庫に日本の古い本がたくさん並べてあつたら先生ひどく不機嫌で、こんなもの焼いてしまえとおつしやつたそうです」「ちよつとうそのようですが、ほんとうなんです」(葦原雅亮氏座談会速記録)これに対して川合貞一は福沢は若い頃国学者系統の国粋主義者から迫害されたからだと解釈しているが、それは何ともいえない。逸話として紹介しておく。

 図書室が放言漫語の室であったのは、図書が少なかったからであろう。明治二十五年七月正科を首席で卒業した林毅陸は、翌二十六年一月大学部文学科に入学した。林は勉強家であって神田の書籍館(本郷湯島の聖堂跡)や上野図書館には実によくかよっている。上野図書館の入場料は二銭であったが、十二銭の定期券を買って連日のように行っているが、塾の図書室の記事は七月二十一日「朝福沢先生ヲ訪ヒ揮毫ヲ頼ム面会シタリ、ライブラリーニテ書ヲ借ル」と一行日記にあるのみである。知人から福沢の書を頼まれて出かけて行った帰りがけ、図書室に立寄って本を借りた。英学書生だから「ライブラリー」と呼んだのであろう。盛んに利用したという記事は少しもない。

 大学部の新設は福沢が「慶應義塾資本金」の募集などして苦心して実現したものであったが、私立としては無理だったのか、大学は帝国大学だけで足りるということで時勢に先んじすぎたのか、福沢の期待通りの発展を見せなかった。慶應義塾にはこれまで通り、正科と別科のある普通科が、大学部と併立して存在していた。普通科を卒業しただけでも義塾卒業と見なされたから、正科を出て大学部に行くなどは物好きのするところとされ、明治二十五年林が正科から大学部へ進んだときも正科卒業生二十七名中、林一人が大学部へ入った。勿論、大学部学生は正科卒業生のみをあてにしていたのではなく、他校からの入学もいたが、その学生数は明治二十三年には四十一名、二十四年には七十二名、二十五年に百四名、これが最高で二十六年には九十四名、二十七年には八十四名、二十八年に九十四名、二十九年に七十七名、三十年八十四名という不振ぶりで、例年赤字がつづき、当初募集した資本金を喰い潰して行く結果となったから、大学部書館の整備拡充も望むべくもなく、遂に三十一年一月には教科書貸与を主とする普通科の書館に合併し、大学部書館は解消した。合併された書館の係員は別府藤馬という人であった。別府は山口の人、明治二十二年卒業し、一時郷里で教員をしていたが、三十年上京し、福沢に拾われて書館係兼教場巡視の役についた。この人は後ち、寄宿舎の少年寮の舎監となり、次で時事新報記者、北海道拓殖銀行員などに転じた。

二 「書籍館規則」

 福沢が折角の努力で専門教育のための大学部を設置したが、それがはかばかしく進展しない。官界から呼び迎えた秘蔵弟子小泉信吉も、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起って、短期辞任というハプニングがまず起った。そこで福沢に次ぐ長老小幡篤次郎が塾長となったが、大学部の不振は前節に述べたとおりである。そこで学内にその存廃の論議が起った。小幡塾長は大学部を廃止して、普通科に力を注ぐ方が良いとの考えを持っていた。それは維新以来の義塾の特色と伝統を存続して行こうとする意見で、評議員では中上川彦次郎がこれを支持した。ところが福沢はこれに反対した。大学部設置のための基本金を募って出発した新制度を、いくらかでも残金のあるうちに廃止することは出来ない。むしろ基本金を再募集して、なおかつ不振をつづけるならその時は廃止しても良かろうと主張して、これには荘田平五郎が賛成した。これはしかし表面のことである。流石に先きの見える福沢は、この危機に際しても慶應義塾を元の福沢学校に帰えさせるの愚を悟っていた。むしろ新しい学制改革を打ち出して、大学部中心を強化したのである。それには塾内の少壮若手教員の激励もあった。大学部を卒業し塾教員になったばかりの林毅陸、川合貞一、気賀勘重、伊沢道暉、菅学応らが、屡々会合を重ね、革新案をひっさげて福沢に進言した。三十年八月小幡は塾長職を辞し、福沢自ら社頭となって陣頭にたち、学事改良の要領を発表したのである。「是に於てか今後は義塾の主力を大学部に注ぎ、単に普通部の卒業を以て慶應義塾の卒業とせず、大学の科程を卒て始めて義塾卒業の名を与えんのみ」幼稚舎、普通部、大学部各部ばらばらに存在し、緊密な連絡に欠けていたのを、六歳にして幼稚舎に入り、二十二歳にして大学を出づる一貫教育を確立したのである。

 そして再度の基本金募集に着手した。その趣旨の中に校舎、寄宿舎の狭隘をうったえ、外国人教師雇傭の必要と共に「書籍館も不充分なり」ともうたっていた。福沢の頭の中には百坪程の書籍館建設の計画もあったようである。三十年十月十七日の時事新報に「慶應義塾には是迄とても書籍館なきに非ざれども、今度大に学事を改良するに付ては、新に完全なる書籍館を建築せんとて、其設計を三井銀行新築の主管者たる横河民輔氏に依頼したり、館は百坪ばかりの煉瓦造りにして、西洋最新の模形に依るものなりと云う」とある。横河民輔は前に述べたことのある棚橋絢子の女婿にあたる。

 学制改革の方向は定まり、基本金募集のお膳立ても整った。そこで三十一年四月には福沢社頭の下に、小幡副社頭、鎌田塾長の新人事が発表された。鎌田栄吉は和歌山の人、明治九年卒業して直ちに義塾教員となり、以後度々他校に職を奉じたことはあっても、多くは義塾の教員生活を続けたが、二十九年三月鎌田の旧藩主徳川頼倫に扈従して欧米視察の途に出で、三十年十一月帰国したばかり、年齢も四十二の壮年であった。大学部を中心とする一貫教育制度は新らたな「慶応義塾規則」(明治三十二年)の中にもりこまれた。書籍館改革もその方向のうちにある。福沢が心に考えていた書籍館の新建築は遂に実現しなかったが、さし当っては書館を煉瓦講堂の一隅に置き、書庫と閲覧室とを区別し、「書籍館規則」を定めた。この「書籍館規則」は従来の「慶應義塾社中之約束」の中の「書籍出納の事」とは決定的に異る。

「第一条 書籍館ニ蔵ムル図書ハ専ラ教員及生徒ノ参考用ニ備フルモノトス
第二条
 図書ノ閲覧ハ総テ閲覧室内ニ限リ之レヲ室外ニ持チ出ス事ヲ許サス
第三条
 教員ハ特ニ教授参考用ノ為メ図書ヲ借リ受ケ自宅ニ携帯スル事ヲ得、但シ自宅ニ携帯スルトキハ必ズ書籍掛リニ通知シ、書籍貸渡帳簿ヘ記入ヲ請求スベシ
第四条
 書籍掛リノ外ハ館内ノ図書ヲ検索シ、若シクハ出納スルコトヲ許サス 但教員ハ随意ニ図書ヲ検索スルコトヲ得
第五条
 生徒図書ノ閲覧ヲ望ムトキハ其旨書籍掛リニ申込ムベシ
第六条
 閲覧者ハ一時ニ三冊以上ヲ借覧スルコトヲ得ズ 但教員ハ此限リニアラズ
第七条
 借覧ノ書籍ヲ紛失シ、又ハ之レヲ汚損シタルトキハ時価ニ依リ之ヲ償還セシム
第八条
 閲覧室ニ於テハ静粛ヲ旨トシ音読談話喫煙ヲ為スベカラズ
第九条
 書籍館ノ開閉時間ハ左ノ如シ
毎日午前八時開館午後四時閉館 午後六時開館午後九時閉館
土曜日午前八時開館午後四時閉館
臨時休業日午前八時開館午後四時閉館
大祭日ハ終日閉館
春夏冬期休業中ハ午前八時開館正午十二時閉館 但シ夏期休業中七月廿日ヨリ三十一日迄ハ曝書ノタメ閉館
第十条
 前条ノ開閉時間ハ時季ニ依り臨時変更スル事アルベシ
第十一条 寄贈ノ書籍ハ特ニ寄贈者ノ姓名ヲ記シテ書籍館内ニ保存ス」

 これを見ると書籍館備付の図書は参考用図書であって、従前の教科書貸与の書館とは全く違っている。教科書貸与制の廃止はこの時の改革の中の一項目であった、「教科書ハ総テ学生ノ自弁トス」は幼稚舎から大学部に至る一貫せる規則であった。最早、慶應義塾は明治当初以来の洋学校ではない。幼稚舎に始まり、大学に至る首尾一貫せる専門教育の学校となった。「書籍館規則」が出来て初めて、本当の意味の図書館が出来たのである。

 煉瓦講堂の中の書館は明治四十五年創立五十周年記念図書館が新設されるまで続くのであるが、その位置や内部の変化は幾度か行われた。最初は講堂の一階にあって三十一年三月就任の小松周介が書館係であり、九月にはその上に書館幹事という名称で菅学応が就任した。菅はかつて大学部書館にいたことがあったが、後教員となり既述のように林毅陸らの若手教員の中にあって、義塾革新運動を起していた。そして学制改革が行われたときそれら教員はそれぞれの新設役職についたが、菅も書館幹事になったのである。

 学制改革も緒についた頃であるから、この二人のコンビも書館の充実には力をつくした。学校側の報道雑誌「慶應義塾学報」の三十一年三月号に「生徒の閲覧する書籍は経済書最も多く、法律学之に次ぎ、文学書其次なりとぞ。因に云う今度外国へ数百部の洋書を注文したる由なれば、其到着後は生徒珍重なる智識を得るの便を享くべし」又「在大坂なる慶應義塾々員本山彦一氏は今度同塾書籍館へ和漢書三千部を寄贈さるる筈にて、歴史部五百冊を己に三月上旬寄送済となれり」(同誌四月号)本山蔵書は引続き五月にも八十三部五百四十九冊到着した。本山ばかりでなく日原昌造もベンザムス氏文集十一冊、川合貞一はヘックス氏社会主義およびハルトマン氏ダーウヲン氏動物進化論(何れも独文)二冊をという風に、寄贈書もめっきりふえた。そこで菅幹事は上野図書館の規則にのっとった目録を作ることに着手した。学報十一月号に「是迄義塾書館にも目録なるものありしと雖も分類明晰ならず、屡々借読者一々書架に付て欲するものを捜索する如き不便あること少からず(中略)愈々完全なる書目を製作するの必要を感じ、目下それぞれ準備中にて此年末までには是非完成せしむべしという」とある。しかしその意気込みにも似ず、菅もやめ、小松も三十二年六月には退職したので書目は出来なかった。書館係は横田良吉に変わる。

 以上は学校側の記述で、閲覧対象の学生側からいうと不満が多い。学制改革に呼応して学生が発行した雑誌「三田評論」は義塾当局への批判で埋められているが、書館の不備などは攻撃の好目標であった。「慶應義塾改革論」という大げさな題名をつけた論文(同誌三十二年四月)は蔵書と設備について次のように述べている。「第一書籍の少きこと之れなり、就中比較的に具備せるは理財科の参考書なるべし。然し之れ英書のみ、我国の財政、銀行の金融、鉄道等に関する書籍は一もある事なし。英書を読むは科学的智識を養うに必要なるは論なし、欧米の財政其他の経済事情に精通すること或は難からざるべし、然れども日本の経済学者及実業家としては先づ日本の経済及財政史并に経済事情に通ぜざるべからず。然らざれば彼は理論家たるを得るも未だ社会に活動すべき資格を備る者と称する事を得ず」元々英学校に由来して発展して来た書館であるから、まだ日本の新刊書が不充分であったことは頷ける。

 次に場所である。「充分の資力なき間は別に図書館を新築するを得ざるが故に、教室の一二を以て之に充つるは己むを得ざることとして之を認むるものなれども、現在の位置は大に厭うべきものなりと信ず。其場所は学生の昇降すべき煉瓦講堂の一角にあり、階上の教室には授業の始終する毎に、履音囂々として読書を妨ぐる少々に非ざるなり、特に卓上は塵埃を以て敞はれ、其掃除は不定の時間に行わるるが故に、学生は読書半にして屡々退居を命ぜらるの不幸に遭遇せざるを得ず。加うるに疎造の木椅子は長く静座するに堪えざらしむ、其他普通科の少年等は猥りに喫飯の場所に充て、談笑他の勉学を妨ぐる少々に非ず、一言以て之をいえば義塾の書館は全く混沌無規律の状態にあるものと云うべし」後に教員になった柴田一能も「ドーも普通科一年あたりの生徒が囂々押し込んで来て、詰らぬ事を大声で話したり、段々の手摺を跨いで滑り下るのを楽しみにガタガタ上り下りには課業中誠に閉口だ。小児だから罪なしに遊んで居るが是非之は禁じて下さい」(同誌同年七月)と悲鳴をあげているが、さもあらんと思われる。

 鎌田栄吉が塾長に推されたとき競争相手に門野幾之進がいた。門野は鎌田より先輩で、永く教頭を勤め、塾内で重きをなしていたことは前述した。後年門野はこの時の塾長候補は自分から辞退したと語っているが、塾の教員、学生、卒業生の間では鎌田か門野かで下馬評が喧しかった。鎌田の新塾長決定はむしろ意外の感をあたえたものである。その結果鎌田塾長、門野教頭、益田英次塾監の三頭政治になったのであるが、門野の多少持たれた心のわだかまりをほぐすためか、福沢は最新の教育視察という名目で門野を欧米に旅立たせた。それが三十一年四月二十日のことで、鎌田の塾長就任はそれに先立つ四月四日である。そして翌三十二年六月十三日帰国、盛大な歓迎会が催され、欧米視察による義塾内の改革いかんと皆から見守られた。

 その結果あらわれたものは二つある。一は塾内からの留学生の派遣であり、他は書籍館の充実であった。柴田一能は早速その喜びを筆にした。「例の八釜敷かつた図書館の一件だが、是も此度の改革には是非何とかならねばならぬ大立物の一つで、門野先生のお技量(てなみ)果して奈何んと片唾を呑んで居ると、仕たりや為たり、煉瓦講堂二階の右半分を惜気もなく切り取つて、之に図書館全部を移し、蔵書室、読書室共各今迄の倍となり、教頭が独逸にて購入せられたる新版書をも陳列し、追つて夜間の閲覧をも許すと云う事で、之も略備わつたと謂うても善かろう。」(同誌三十二年九月)これが学校側の表現によると「従来煉化講堂の階下にありしを階上南端の二講堂に移し、書架、書目等をも刷新し、尚其両隣の二講堂を学生読書室に充て、又書籍の貸出しは是迄午後四時頃までなりしを、同八時迄延引し、一層学生の便宜を計りたる等、一大新面目を呈せり」(学報三十二年十月)閲覧室の拡張、時間の延長に加えて蔵書の充実にも努力した。その一は図書委託制の取入れと、他は追善寄附金を募って記念図書を購入する計画である。前者は個人の死蔵書を預って活用させようとするものであるが、すぐそれに応ずる蔵書家はなかったが、後者は三十二年には森村明六、森村豊両人の追善寄附三千円が、三十三年には教員浦田義雄の香典返しが寄附された。

 三十二年十月横田辞任し、後任は川勝貞吉が寄宿舎舎監から転任した。この人の代に初めて閲覧統計らしきものが発表された。三十二年十一月には
 「閲覧時数 二百二十四時
 貸出書数 四百八十八冊
 閲覧人数 三百六十七人」
同年十二月一日より十五日までは
 「閲覧時数 百二十九時
 貸出書数 百六十五冊
 閲覧人 九十五人」
貸出書籍の種類は経済財政の部に属するものが最も多く、これに継ぐものは歴史、政治であった。(学報)

 川勝は三十三年九月退任して、平山幹次がこれにかわった。平山はこの年から三十八年一月迄、四年四ヶ月その職にあったが、これ迄の書館係は一年ないし一年未満の短い在職で、概して一時の腰掛けに就いたポストであった。ここに一括して履歴を述べておこう。小松周介は秋田の人、卒業後一時郷里に帰ったが、上京して職を求める間、書館係になった。退任後は東京興信所に入社、四十二年頃は東洋印刷の支配人であった。横田良吉は長崎の人、高等科を卒業して新聞記者を勤めてから書館係になった。従って「無闇に意張る」といわれて不評であった。辞任後は朝日新聞に入り、次で中学教員に転じた。川勝貞吉は京都の人、郷里に中学が創設されたので書館を辞した。後、明治生命や藤田組に在籍した。平山幹次は彦根の士族出身、比較的永く勤め、仕事にも熱心であった。就任早々読書室に新聞、雑誌、ウェブスター字典を備え、随意に閲覧せしめた。今日でいう自由接架である。そして閲覧時間も午後九時迄延長した。書館係補助に池端新次郎を雇い、これも三十六年まで比較的永く勤務した。この頃の書館の蔵書総数は六千五百五十二冊と数えられている。

 三十一年九月に書館幹事になった菅学応についてはこれまでも幾度か触れたが、余談も加えておこう。菅が少壮教員に交って義塾革新運動に気焔をあげていた頃は自ら称して「小福沢」といっていた。高橋誠一郎によると「福沢先生が六尺ゆたかの大男であるに反し、菅さんは五尺に足らぬくらいの小男だつた。しかし菅さんは自分は福沢先生そっくりだと、いつも自慢していた。ただ違うのは自分の食事が早いのに、先生の方は遅いことだけだといつていた」という変り者で、学生からは「小福沢」をもじって「笑福沢」とからかわれた。菅はその後、「修身要領」作成事務や「学報」編輯にたづさわり、「慶應義塾五十年史」を編纂したのが最大の業績となった。石河幹明の「福沢諭吉伝」も手伝って、昭和七年九月に歿している。

三 初代監督田中一貞

 明治三十四年二月三日、福沢諭吉が歿した。「先生が亡くなられると、多分学校が一週間ぐらい休みになるだろうというようなことをひそかに語り合つて、内々楽しみにしていたものもあつたが、いよいよ先生逝去の悲報に接した時には、三田山上に蕭殺の気が漂つた。二月八日午後零時四十分、ほぼ乾いた雪解けの道を、先生の柩の先に立つて、銃を逆に肩にかけて、蕭々と繰り出した時には思わず胸が一ぱいになつた。」これは当時十六歳であった高橋誠一郎の思い出(「わがことひとのこと」)である。また獅子文六の父岩田茂穂は明治五年入学の古い塾生で、福沢にすすめられて横浜で絹物の留易商を営んでいた。「父の死んだのは福沢より一年後だつた。福沢の葬式の時に、すでに発病していたのだが、ムリ押して、横浜から参列した。その帰途、品川駅へきた時に、急に視力に異状を来たし、それからズツと死の床についたのである」(「福沢諭吉と私」)塾内で学ぶ無心の少年にも、はるか昔に塾を出た老実業家の胸にも、いたたまれない悲しみがつき上げて来た。力強い牽引車を失ったという空虚感が誰しもの心に残ったことだろう。二月八日の葬儀には無慮一万五千の人が徒歩で黙々と塾から麻布善福寺へ歩き、それにも増す送葬の男女が沿道に列んだというが、一代の偉人を失ったという哀惜と共に、福沢を失った慶應義塾がこれからどうなるだろうかと、秘かに思ったにちがいない。殊に柩の左右に随従した当面の責任者である小幡副社頭、鎌田塾長、門野教頭らの苦悩は深いことであったろう。

 慶應義塾は慶応四年鉄砲洲から新銭座へ移ったとき「慶應義塾之記」を発表して、最早福沢の一私塾ではない。社中共同の団体、今日の言葉でいえば法人たることを宣言した。義塾之記の冒頭に「今爰に会社を立て義塾を創め、同志諸子相共に講究切磋し」と書き、入門帳には「慶應義塾会社」と記した。今日では会社といえば営利会社のことを指すが、福沢の意としたところは福沢が外国で見たコーポーレーションの学校、結社、共同の団体として経営したいということで、これは繰返し繰返し福沢が強調しているところである。義塾は福沢ひとりのものではない。一つの同人社だ。皆でやるものだと口をすっぱくして共同結社の考え方を説いても、当時ではなかなか理解されなかった。世間では慶應義塾はやはり福沢の学校で通り、福沢が死んだとすると後はどうなるかがすぐ頭にきた。徳望のある塾主が死ぬと学生が離散して、明治初年以来の私塾はほとんど消えた。義塾と並び称された中村敬宇の同人社も廃校となった。それは独り門外漢の意見ばかりでもない。塾に学んだ小松緑も「瓦全は玉砕に如かず、慶應義塾は福沢先生と共に終始した方が」好いという考えを持っており、鎌田塾長の思い出にも「逝去前後は義塾の後片付と云うような方にのみ考えた悲観」論者も多かったという。

 福沢の死によって義塾存立の危機はかつてない程重大であった。事実、結社とはいうものの、福沢個人が著述などで収入がよった時分は、何かというと支出の出所がないと最後には福沢の懐中(ふところ)をあてにした。万が一のときにたよれる福沢は今や歿いのである。そこで葬儀一切が終るとすぐ着手したのは結社の強化と、義塾財政の確立であった。維持会を設けて基金を募集し、同窓会を育て団結を推進した。内には小幡を社頭とし、阿部泰蔵、伊藤欽亮、波多野承五郎らをして会計監査役たらしめ、義塾存続への努力が払らわれたが、他方学事はほとんど従来の惰性といってよかった。その点、書館も同様である。在学生の図書購入費募集の小さな動きもあったり、鱸松塘旧蔵の「資治通鑑」(山口善兵衛寄贈)「大英百科辞書」(牧口義雄寄贈)などの所収があった程度で、これといった大きな変化がなかった。義塾全体が沈滞といってはいいすぎかも知れないが、何事も手につかない。とうとう学生の不満が爆発して生前の福沢に親任の厚かった日原昌造のところへ、大学部学生が直訴に行くという騒ぎとなり、門野教頭、北川礼弼塾監の辞任という変動があって、鎌田塾長の裁断一本にしぼられるようになった。そこへもってきて好都合なことは、福沢の生前に出発した義塾の留学生達が、新しい抱負を持って帰ってきた。義塾を完全なる私立大学たらしめようとする、それには分科制度の完全実施、大学院の設立、公開講義、出版事業などの重要さを力説し、新帰朝の各自それぞれがそのポストについて実施する。図書館の振興もまたその一環であったのである。

 三十五年七月、三ヶ年の留学から帰った掘江帰一は早速学報に図書館拡張論の火の手をあげた。「近時外国の諸大学が最も力を尽すは図書館の設備にして、蔵書の冊数数十万に上るもの少なからず、大学が学生を募集し又は公衆の参観を許す場合には、常に図書館の事を挙げて大学設備の完全を証明する次第にして、学生も亦教授の講義に依頼して知識を得るよりは、寧ろ図書館に於て自主の研究を試むるものの如し。日本の如き邦語を以て説明する専門学術の書籍に乏しき国に於ては、多少講義に重きを置くの必要ある可けれども、若しも奨学金の制度成り、幾多の卒業生が塾に留まりて専門学科を研究する場合には、勢い外国の書籍に依て知識を開発せざる可らず」これに呼応して学生側の評論に板倉卓造がそれに賛成して「吾図書館の所蔵書籍に就てその最多数と称するものを経済書となす、而かもこの経済書なるもの、多くは二三十年以前に出でたるものにして、新著と称すべきは殆んと数うるに足らず、殊に此等の書籍、悉く一般の学理を講じたるもののみにして、特別に各段なる問題に就て研究せんと欲するものに対しては、毫も便益を与うることなしというも不可なし、故に吾人の望む所は義塾の主力を図書館に注ぎて、断えず欧米の新著を購入し、一意其拡張を図る事是れのみ、然らずんば寧ろ之を閉鎖するの優れるに如かず」と極論した、これに影響されたか、どうか、当局側にも前向きの姿勢が見え始める。「高等教育に最も欠く可らざるは図書館の設備なり、近世の大学教育は大半図書館に依て授けらるると云うも決して失当の言に非る可し。目下義塾の図書館には和漢洋の書籍約一万冊を蔵む、法律、経済、政治、文学等に関する著書及び辞書類は殆んど整備せり……義塾が資金の増加と与に大に図書館を拡張せんことは其重なる希望の一なり」(慶應義塾便覧)図書館をして高等教育に欠くべからざる施設と学校当局者をしていわしめたものは、慶應義塾においてこの文章を最初とする。

 そして差当っては平山書館係を三十六年に書館主任に昇格させた。平山主任の蔵書充実策は二つあった。一は寄贈の勧誘であり、学報に広告して特志家の賛助を乞うた。その結果大磯の伊東尚孝から三十七年四月和漢書三百余冊の寄贈があった。伊東家からはこれが皮切りで大正年代まで寄贈が続けられた。二つには図書購入基金の積極募集である。折から日原昌造と中井芳楠の逝去があったのでその記念書籍費募集が同時に始められた。それとほとんど同時に武藤山治から壱千円のこれは工業に関する図書購入にという限定がついて寄附された。しかし平山主任の最も大なる功績は筆写の書籍目録が出来たということであろう。その目録は今日見ることが出来ないので、内容の良否はわからないが、平山の後を継いだ田中一貞時代に比較的早く印刷目録が出来得たのは、平山の礎石がものをいったと考えられる。平山主任は三十七年冬、療養生活に入り、書館に姿を見せなくなった。正式の辞任は三十八年一月で、同年九月名古屋で歿した。

 平山の後任田中一貞は義塾第二回の留学生で、三十七年三月帰国したばかりの大学部教員であった。兼任役職名は書館監督であった。書館の長に大学教授が就任する最初であり、以後監督は大々大学教授の兼任となり、昭和十九年から名称を世間一般に使われていた館長に変えた。従って田中監督は今では初代館長といわれている。新鋭の大学教授をして書館監督たらしめた鎌田塾長を初めとする学校当局の意気ごみは、既に新しい書館の建物の必要を感じていたからであろう。そして田中はその期待に答えて、遥かに優れた海外の大学図書館の移植に全力を傾けたのであった。田中の事蹟を語る前にその履歴や人となりを話しておこう。

 田中は山形県鶴岡の出身で、明治五年七月生れ、父は荘内藩士一俊の三男、先祖は柳沢吉保に仕え、荻生徂徠と親しくし、後柳沢の老臣を斬って隠世した田中桐江を血族に持つことを誇りとしていた。鶴岡の蔵修学校及び鶴岡英学舎に学び、高山樗牛の若い頃と交りがあった。明治廿三年十月慶應義塾に入学、二十九年十二月大学部文科を卒業した。そして宮崎県延岡の私立学校亮天社の教員となった。居ること四年、三十四年二月同社を辞して、義塾に帰り教鞭をとったが、間もなく林毅陸と共に第二回海外留学生に詮衡された。同年五月あわただしく横浜を出帆し米国へ向った。当初はコロンビア大学で学ぶつもりであったが、変更されエール大学に入学した。ちょうどその年は大学創立二百年にあたっていたので盛大な祭典が行われた。十月二十日より廿三日までの四日間であったが、廿一日の夜は一万人ばかりの炬火行列があり、その中に日本人留学生の一団も加わった。田中は入学早々ながら、企画に、趣向に大活躍をした。炬火行列の日本人の一団の先頭にはエール出身の政治家鳩山和夫が、わざわざ日本からきて水色のガウンを着て歩み、続いて桜色のガウンの在学生が日本提燈を手に手に捧げ、その中央には御所車を擬した万燈を六人がかついで歩いた。それは田中が企画し、大工を指揮して作らせたもので、大きさは一間余、屋根は金色に宮殿造りであった。横の四面には絵を描いた。前面は富士に朝日、後面は菊、左側はアンクルサムが日本美人と握手の図でこれらは西池某が描いたが、右側面は田中が筆を揮った。日本楽隊が大なるラッパを吹き、これより“Yall for Japan,Japan for Yale”という字を吹き出している模様であった。これに燈火をつけると非常に美しく見え、「好奇心に富める米人の嗜好に投じけん、沿道の喝釆天地を動かすばかり」であったという。田中にはそうした器用さ、茶目っ気があったと見える。しかしエール大学のある閑雅幽静なるニューヘブンでは、下宿屋の娑さんの喧しいこともあって良く勉強した。大学院ではC・サムナー教授に師事し、マスター・オブ・アーツの称号を得た。

 在米一年、三十五年六月には仏蘭西へ渡り、パリのコレッジュ・ド・フランスでG・タールド教授の社会心理学を聴講した。パリで田中が借りたアパートの一室は、パリの貧民街であるローモン町四番地の薄暗い五層の石造建物の最上階であった。応接間向の八畳位の部屋と寝室向の十畳位の部屋、食堂向の六畳位の部屋に台所がついていて、画家河合新蔵と一緒に住んだ。前住者はこれも画家の鹿子木孟郎であったという。この頃のことは田中の「世界道中かばんの塵」なる本に面白く描かれている。代々物ぐさな日本人の画家がいたという部屋だけあって、塵埃と蜘蛛の巣に満ち、便所は臭気紛々として下の借室人からしばしば苦情をうけた。南京虫の跋扈もはなはだしく、工夫して寝台の脚の下に、石油を入れた皿を置いて防ごうとしたが、それでも駄目であった。すると誰だかが「それは南京虫が一たん天井に登り、見当をつけて落ちてくるのであろう」と説明したという。しかし悪いことばかりでなく良いこともあって、五層楼の最上階であるため、部屋は明るく、窓からは空と町家の屋根の上とが見えて、恰かもアッチック・フイロソファーの住居のようである。早速、画家中村不折は窓から星が見えるから星の裏店(うらだな)だといって、得意の筆を揮って「星裡閣」と名付けてくれた。ここには喧ましやの婆さんはいない。田中は思う存分、大言壮語し、夜更かしも出来た。田中らは八百屋から青い紙袋に入った日本の米と称する穀物を買ってきて、アルコールランプで飯焚きをした。日本の飯が喰べたくなると牛肉と葱と米とを持って、留学生たちがこの部屋に集まってくる。その仲間には、前住者であったため半主人格である鹿子木孟郎や、藤村知子多、土井晩翠、白井雨山、末広重雄、岡精一、山口弘一、直木倫太郎、今井吉平、和田英作、白鳥庫吉など多士済々で、ラテン街における日本人の倶楽部のようであった。田中よりは先輩であるが、留学は遅かった田中萃一郎はパリにおける田中一貞の行動を「留学とはいうけれど、美術家や芸術家と交際して、まるでその案内人みたいだ」と悪口したそうであるが、彼らとの交渉があとで図書館を建てた時に、数々の便宜があったという利点につながった。夜更かし、放縦な生活とはいうけれど、所謂花のパリの歓楽、婦人と戯れるなどには潔癖に近く、テアトルフランセーで姦通劇の上演を見て、「此の穢わしき罪の見せ物とも云うべき劇場にには、金甲燦爛、佩剣鏘々たる長身美鬚の兵士が門番を致居候」を苦々しげに報告している。

 留学期限がきていよいよ帰国というちょうどその頃は日露戦争が今始まるか、どうかという時であったため、ロンドンを出る時の乗船因幡丸は文字を消し、船体の色を塗り替える始末であり、スエズからコロンボまでは英国軍艦が護衛してくれた。香港につくとすでに開戦となって因幡丸では危いといわれ、米国船ショーマットで日本へ向った。対馬沖まで来ると遥るか水平線上に煤煙が見え、船の移動と共に艦隊が姿を現わした。それは角田中将のひきいる日本の警備艦隊であったが、その中の水雷艇一隻は全速力で疾走し来り、二三町の距離に近づいて船籍を確かめる一幕もあった。

 こうして三十七年三月二日無事帰国したのであった。帰国後は直ちに文学部第一学年受持教師となり、フランス語を教え、理財科、政治学科でも仏語と社会学を講じた。そして翌年、書館監督に兼任を命ぜられるということになる。

 田中の本職は社会学にあって、佐原六郎の「慶大の初代社会学教授」(三田社会学会誌)に詳しい。フランス流タルドの社会学で、得意のフランス語を交えて学生を煙に巻くことがあったという。容姿端正、しかもハイカラで鼻眼鏡をかけ、常にモーニングを着ていたので冠婚葬祭係と宛名された。風采もあり、押し出しが立派なので、外部関係では鎌田塾長の代役なども勤め、学校の役員の要職にもついた。既述のように多くの知己を持ち、後輩の面倒も良く見た。殊に郷党の人々の援助育成には力を尽し、後にも述べるように図書館内に荘内閥といわれる下地をつくった。郷里の老学者羽柴雄輔の晩年の世話などもして、柳田国男から福沢の所謂「学者の飼い殺し」を地で行くものだと激賞されたこともある。

四 慶應義塾図書館の誕生

 田中一貞監督の就任以来の書館の発展は目覚ましいものがある。まづ就任早々、「慶應義塾図書館」が正式名称になった。これまでも書館が正式呼称であっても、時により私的に書籍館とも、図書館ともいわれ、ある時は学生にライブラリーと英語で呼ばれたこともあった。しかし正式に図書館と呼称が定り、蔵書印も改められたのはこの時である。書館というも、図書館というも今日では同じように思えるが、当時は書籍館をつづめた書館より、図書館という方が新しく感じられたものに違いない。大体書籍館という言葉は古くから存在し、図書館という言葉は明治二十年代から普及され定着されたものだといわれる。まづイメージを新しくして、次で設備の拡充を行った。

 今まで煉瓦講堂の階上南側を占めていたのを、北側の旧会議室、大広間に移し、その階下の四室を書庫とし、「厚板造りの書棚の高さ二間もあるのに木製の梯子」かけて出納し、簡単な「エレベートル」を使って二階の閲覧室に本を運んだ。つまり煉瓦講堂の向って右側の一階二階全部が図書館になった。当時の煉瓦講堂内の室の配分を三辺金蔵が回想するところによると「正面玄関を這ると、左側が庶務・会計・学務の諸課で、右側が図書館―如何に小さかつたことよ―であつた。二階に上ると図書館の上は閲覧室、庶務会計課の上は八畳間二つ続きくらいの会議室で、聯合教授会などは大抵ここで開かれた。会議室の南降りは塾長室、廊下を隔てたその前の室は幹事室ではなかつたかと思うが、これはハッキリしない」。二階の旧大広間は一般読書室になり、旧会議室は教員閲覧室、雑誌室及び新聞室等になった。この読書室を利用した槙智雄は、「当時の図書館閲覧室は赤煉瓦講堂の北端、二階の広間、窓からは隣りの演説館の瓦壁が見えていた。閲覧室は三四十名程度の席があつたと思うが、利用者は殆ど大学生で普通部生は余り見受けなかつた。冒険小説の耽読に始まり、探険記、小説と、時間を忘れて乱読し、閉館の時が来て追い出されたこともしばしばあつた」。

 設備の拡大とともに施設の充実にはカード目録の作製が急がれた。前任者平山主任は筆写の目録を作り上げたが、外国の図書館で学んだ田中監督はそれでは満足できない。館員を増加してでもカード目録の作製に努めた。「幸に館員東野利孝氏を初め一同の精励に依り、漸く分類及び著者名の洋書カード目録と、分類及著者名和漢書目録とを調製」(五十年史)することができた。それがためには就任して一年半位はあるいは法律書の貸出停止、次で文学書の停止とか、閲覧者の勉強の妨げとなることが屡々で、学生の苦情の種となった。それはともあれカード目録の完成は近代図書館の体裁を初めて整えたということができよう。

 そして図書館規則も新しく制定された。

 「第一条 図書館ニ蔵ムル図書ハ専ラ教員生徒及塾員ノ参考用ニ備フルモノトス
 第二条 図書ノ閲覧ハ特別ノ許可ナクシテ総テ閲覧室外ニ持出ス事ヲ許サス
  但シ教員ハ特ニ教授参考用ノ為メ図書ヲ借り受ケ自宅ニ携帯スル事ヲ得
 第三条 学生図書ノ閲覧ヲ望ムトキハ借覧券ヲ掛員ニ示スベシ
 第四条 閲覧ハ一時ニ三部十二冊以上ヲ借覧スル事ヲ得ズ
  但し教員ハ此限リニアラズ
 第五条 借覧ノ書籍ヲ紛失シ、又ハ之ヲ汚損シタルトキハ時価ニ依リ之ヲ償還セシム
 第六条 閲覧室ニ於テハ静粛ヲ旨トシ、音読談話喫煙ヲ為スベカラス、若シ不都合ノ所為アリタルトキハ相当ノ処分ヲナスベシ
 第七条 本館ノ開閉時間ハ左ノ如シ
  一 毎日午前八時開館午後十時閉館
  一 土曜日午前八時開館午後四時閉館
  一 日曜日午後零時半開館同五時閉館
  一 臨時休業日午前八時開館午後四時閉館
  一 大祭日ハ終日閉館
  一 春夏冬期休業中ハ午前八時開館正午十二時閉館。但シ開閉時間ハ時季ニ依リ臨時変更スル事アルベシ
 第八条 寄贈ノ書籍ハ特ニ寄贈者ノ姓名ヲ記シテ館内ニ保存シ、慶應義塾学報ニテ之ヲ報告スベシ」

これを前の「書籍館規則」と比較すると大幅なサービス改善があげられる。借覧図書冊数も多くなり、開館時間も中途で休息することをやめたり、九時閉館も十時に改め、日曜も開き、夏期の曝書休みも廃めた。しかし最も大きな変化は借覧券の発行であろう。これは図書館を大学図書館たらしめる手段であった。既述のように書館は一貫教育確立の際に大学部のそれと普通科のそれとが合併された。以降、年齢も違い、学力の差もある大学生と普通部生とが協同利用して、屡々年少の普通部生の騒々しさに大学生が悩まされた。しかし段々に利用者が大学生となって行く傾向はあった。それが借覧券制度によって普通部生の制限が打ち出された。借覧券は大学生は無料で貰えたが、普通部生は二十銭とられた。「普通部生徒をかく継子扱をなすは、其の図書館に入るを拒むの方針」と三田評論に憤慨の投書のあるのはもっともいえよう。ともあれ、図書館の目標は大学図書館たることが明瞭化された。

 三十九年には新分類目録が採用された。それは三十八年八月の蔵書統計と三十九年三月のそれとを比較することによってわかる。三十八年度の分類は八項目で哲学書類、文学書類、政治経済書類、法律書類、科学書類、教科書類、辞書類、雑書類である。教科書類などの項目に入る本は教科書貸与時代のものの名残りであろうか。政治経済書が一括されているのは古い経済の語義である政治色の強い経国済民の考えからであろう。歴史書類などの項目がないのは恐らく文学書類に入れられたのであろうか。ところが三十九年度のは整然たる十門分類である。即ち、哲学宗教、文学語学、歴史地理、政治外交、経済、統計、法律、科学諸芸、字書、叢書雑書。これが第二次大戦後までつづく分類の根幹を型造るものとなった。

 蔵書の充実のための資金獲得の運動は平山主任時代に引つづき行われたが、宣伝も行き渡っていたのが後続が絶えなかった。三十八年二月には小寺泰次郎が死去し、その遺言によって小寺謙吉が一万円を寄附した。同年四月小幡篤次郎死去によって小幡図書基金募集が行われ、これも九千二百余円の応募があった。共にその利子で図書を購入する仕組である。その他、平山基金など死亡者の友人知己などによる小規模のものは頻々と行われた。

 三十九年二月「星文庫」の保管の決定は図書館の充実躍進を物語るものである。その冊数一万二千八百三十四冊は図書館蔵書一万四千四百十二冊(同年三月調)に匹敵するが、その蒐集範囲は広く深く、保管契約年限の八ヶ年が切れた大正二年、これが全部寄贈となって今日に至っているが、なお価値を失わない良書を以て満たされている。

 「星文庫」の原所蔵者は三十四年六月廿一日、東京市参事会で暗殺された政治家星亨である。自由党の領袖、伊藤内閣の逓信大臣の経歴を持つ星が、改進党の地盤である東京市会へ無理に割り込んで勢力を張っただけに、星亨をもじって「押し通る」といわれ、剛愎不遜の存在とされた。しかしこの星が大した勉強家であって、その書斉には万を数える蔵書があったのは隠れもない事実であった。星は文久元年十二歳にして横浜の幕府直営の英学所で学び、慶応三年十八歳にして幕府開成所の英語世話役心得になった。幕府崩壊後も各地で英学を教える洋学者の道を歩み、官界に身を投ずる切掛けも訳官として招聘されたことに始まる。明治七年から十年までは大蔵省から英国留学を命ぜられた。のち代言人となり、自由民権運動に投じて波瀾の活動期に入っても、隙さえあれば本を手にしたのは、もともと洋学者であったからに外ならぬ。

 星の蔵書は「文学、歴史、地理、法律、経済、政治関係のもの、これが大部分を占め、その中で法律経済政治の書物と、歴史地理文学の書物とが、部数において匹敵して居りますが、此等を外として、音楽のものもあれば、美術のものもあるというように、各種各部門にわたり、広く有益な書籍を多数に蔵されている」又「学者にして其書斉に一万冊の本を持つて居るということは、必ずしも稀な例ではないとしても、政治家としてあれだけの書物を集めて居られたということは、寧ろ不思議な話に属する」これは板倉卓造が星の記念講演での言葉である。しかもその蔵書の質において最高のものを蒐めていたことを板倉は専門の国際法に関する書籍を例にして語る。国際法の大家オッペンハイムがオーソリタチーヴなものとして推賞しているリストと比較して、英書は十三種のうち星の所蔵せるもの十種、米書は八種あるが、その全部、仏書は七種中一種、独書は十四種中四種という風であり、オッペンハイムが挙げた以外のものでも、英書と仏書に関する限りは一般国際法、戦争、中立等の問題の書籍は当時の第一級文献が殆んど網羅されているといわれる。しかもただ買い集めて眺めていたのではなく、寸暇をおしんで読み、その本にはアンダーラインが各所にひかれて熟読の跡を見せている。

 星はその政敵か奸悪の張本のように罵られていたが、「案内淡白の人にして金銭に就いてはきれいな男」(原敬日記)であった。従って星の歿後、遺産とするものは僅かにこの書籍が残っただけで、蓄財はなく、むしろ借財が残ったといわれる。その中で未亡人つな子はその遺蔵書を夫が最後に尽力した東京市に寄附しようとした。それに対して市当局がどんな態度に出たかは知らない。結局、田中の奔走により、その遺蔵書があげて慶應に委託されたのは田中の功績といってよかろう。

 星文庫の委託を皮切りに委託寄贈がめっきり増えた。その主なるものは、寄贈では四十年に古い塾出身者工藤精一が歿して、その遺蔵書百八十八冊が、四十一年には故藤田茂吉の蔵書百三十余冊が、米人レーンが文学書百冊を、四十二年には林董伯爵が百四十六冊を収めた。委託のものでは四十年に田安徳川達孝から和書三千四百五十八冊が、四十一年には那珂通世歿してその蔵書四千六百冊が、四十二年には佐々木哲太郎の和漢書七千八百九十四冊があった。佐々木は昭和二年逝去の際、弟誠四郎より改めて寄贈され、佐々木文庫と呼んで今に珍蔵されている。佐々木は佐賀の人、副島種臣の家扶をして漢籍に親しんでいた。この方面の蔵書に乏しかった塾の図書館では稀覯書こそ少いが、広い範囲に渉って集められているということで便利であった。塾の教員をしていた与謝野寛はその編纂になる「日本古典全集」にはこの文庫所蔵品がきわめて多く採用されている。図書購入基金としては四十四年九月根津嘉一郎から大阪市公債一万円(時価一万三百五十円)が寄附された。毎年その利息で購入した図書は根津文庫と名付けられた。この間、平常の予算による図書購入は続けられたのであるから、蔵書は飛躍的に増えた。

 かかる間にも図書館の整備は続けられ、特記さるべきものは印刷の蔵書目録が、まづ洋書目録が三十九年九月に、次で和漢書目録が四十年十一月に発行されたことであろう。図書館の改善、蔵書の膨脹のさなかにこの事業が行われ、困難を極めたことは和漢書目録の緒言の中に「本館は一方には是等の積極的事業に着手し、其余暇を以て整理事業に従事するが如き有様なりしを以て、館員一同の困難は一方ならず、此三ヶ年間の夏期休暇の如きは殆んど之を全廃して、昼夜此業に尽瘁し、為に続々病者をさえ出せしことあり。而して館員の数僅々八九人に過ぎずして、其半数は昼夜の図書貸出しに従事し、残りの半数は平常の事務を執る傍に整理の事業を遂げざるべからず、殊に日露戦争の当時にありて館員の徴集せられて、図書堆裡より出でて銃剣を執るの身となれるもの数名ありたるなど、諸種の障礙に遭遇し」とあるを見ても良くわかる。洋書目録は菊版四百余頁、和漢書目録は三百余頁、前者は五十銭で、後者は五十八銭で塾外の人にも売られた。編者は田中監督指導の下、前者は谷河梅人が、後者は東野利孝が主となったが、鎌田塾長初め神戸寅次郎、青木徹二、福田徳三、向軍治の諸教授の注意と助力が完成のための大きな背景となった。

 こうした田中監督の精力的な仕事振りに対しても、何かと口をさしはさまないではいられない学生もある。三田評論の投書に「田舎の小娘が都の伯母から土産にもらつた人形に衣服を着せたり、脱したり、あアでもなし、こうでもないと日がな毎日いじくり廻して居るのと同様なのは、田中先生の図書館整理なり(中略)而して田中先生の是れが整理に震襟をなやませ給うこと非常にて、夜の目も碌に合せ給はず、蔵書数次第に増加すると共に先生の体量は次第に減却しつつありと謂う。さても、さても」落葉生という匿名だが、高橋誠一郎の手になったものだと後でわかった。面白がって揶揄(やゆ)しているような文章だが、それが却って田中監督の大童わ振りが活写されていて興味がある。かくして一連の改造が行われ、近代図書館としての型が整ってきた。他方、この頃には新しい図書館建設の議が熟し、建造の槌音も高らかに聞えてきて、煉瓦講堂から去る日も遠くなくなった。

 ここで他の大学図書館の状況を一瞥しておこう。星文庫の委託によって慶應義塾図書館の蔵書も倍に増したが、それでも三万冊にすぎない。他の大学図書館はどうであろうか。幸い明治四十年十月に図書館雑誌が発行されて、各大学の比較が出来る。

蔵書冊数館員数
東京帝国大学附属図書館
(館長 和田万吉)
三六四、二五二冊
(明治三九末)
館員一四、写字生三、出納手五、
火夫一、小使三
二六名
 
早稲田大学附属図書館
(館長 市島謙吉)
一〇〇、〇一三冊、二六、七四七(委託)
(明治四〇・八)
職員八、写字生六、閲覧小供五、
給仕二、小使三
二四名
 
慶應義塾図書館
(監督 田中一貞)
三〇、〇四九冊
(明治四〇・三)
館員三、雇員三、給仕一
(この内訳は編者調べによる)
七名
 

東京帝大と早稲田においては図書館の建物が分離独立していたから、火夫小使などを数えた。慶應は煉瓦講堂の中で他の係と同居であったから純粋に図書館員だけの数である。それにしても非常な立遅れといわねばならぬ。

 しかし四十年の文部省調査によると全国の官公私立図書館数は百七十館にすぎない。そのうち大学図書館は以上三校の外には僅か京都帝国大学附属一を加えるのみである。他方東京市内の図書館は官立七、私立六の十三館で、図書寮などの特種図書館が六、大学図書館が三、あとは学校図書館の学習院、それに公開の帝国図書館(官立)大橋図書館、南葵文庫(共に私立)で、公立日比谷図書館は建築中という、貧しい状態であった。


第三章 五十年記念図書館

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一 創立五十年記念事業

 慶應義塾は私立最初の大学部を創設したことは既述したが、それは法律に基くものではなかった。三十六年三月「専門学校令」が公布され、それに基づいて認められる大学となった。そこで施設の充実をはかることになる。その第一着手は煉瓦講堂の裏に木造校舎を造ることであった。そして図書館建築の必要も認められていた。「書籍館ハ今日ノ侭ニテ打棄置クヘキニ非ルカ故ニ現在ノ煉瓦造家屋内ノ事務室ヲ他ニ移シ、此建物ヲ修理シテ当分仮ノ書籍館及集会室トシ、他年経済上余裕アル時ニ至リ立派ナル書籍館ヲ建築スルノ方針ヲ執ラン事ヲ勧告ス」(同年十二月評議員会)

 独立の図書館の建設待望の声は益々高まり、三十八年図書館の監督に留学新帰朝の新鋭教授田中を当てたのも、この人に新しい建物を……の希望を当局は抱いていたからであろう。三十九年星文庫の委託によって煉瓦講堂が狭隘になったとき「明年は慶應義塾創立第五十年に相当するを機とし、広く記念寄附金を募集して拾余万円を要する一大記念図書館を建設せんとて目下その計画中なり」(学報三月)と報じた。田中も目前の図書館の整備・改善に力をそそぐと共に、新図書館の構想にも夢をはせていた。三十九年三月行われた第一回全国図書館大会で田中は「図書館建築についての注意」と題する講演をした。その要旨は図書館建築で最も留意すべきことは、防火・経済・将来への拡張計画の三つで、米国のシカゴ図書館長W・Fプール氏の説を基本とし、三十九年落成した帝国図書館や、東大・大橋図書館並びに着工中の日比谷図書館等を参照、批評しつつ、最後に「図書館其者は古本を埋葬する死せる墳墓にあらずして人を教育する所の生ける一大機関なれば、其設計の如きも普通の技師に一任することなく、大に此道に精しき諸学者の説に重きを置かざるべからず」で結んでいる。これは帝国図書館が分室法(コンバートメント)を採用して、防火に万全を期そうとしたにも拘らず、技師の設計によって「純粋ノ火災保険構造ト為ス能ハサリシ」を遺憾とし、使用者と技師との緊密な協力の必要をよびかけたものである。

 かくて同年九月廿七日芝公園三縁亭で評議員の相談会が持たれ、朝吹英二、門野幾之進、福沢桃介、鈴木梅四郎、池田成彬の五名が図書館建設準備委員に選ばれ、十月十六日評議員会で可決された。そして発起人として百三十名の連名の建設趣意書が十二月五日発表された。その文章は義塾の発祥から五十年にわたる光輝ある歴史を述べたあと、「目下最も必要を感ずるものは図書館の設備是なり。図書館は大学教育上に欠く可からざる設備にして、欧米諸国の大学を見るに何れも宏大なる図書館の設あらざるなし。盖し大学専門の教育に教場の講義と共に図書館の研究に重きを置くは欧米一般の趨勢にして、其国々の大学が図書館を以て設備の一大要件と為す所似なれども、我国の如き公私図書館の数少なくして一般閲覧者の希望を充す能はざる国に於ては、大学の図書館を単に学生の研究場たらしむるに止めず、之を公開して世間の公益に資するの必要あるを信ず(義塾図書館の現状を述ぶ箇所は略す)図書館の設備斯くの如く不完全なるは実に教育上の一大欠点にして現在の設備中最も図書館の必要を感ずる所以なり、即ち創立五十年の記念としては図書館の建設を適当の方法と信ずるを以て広く有志者の賛助を得て、金参拾万円を募集し、本塾構内の適宜なる地を相し、一大図書館を新築して、慶應義塾創立五十年記念図書館と名づけ、義塾学生の研究に資すると共に、世間一般の閲覧者に公開することと為し、建築費を支払ってなお余財あるときは之を図書購入基金に充てんとするの計画なり。爰に聊か義塾の経歴と図書館の必要なる次第とを記し、偏に同情有志諸君の賛助を請うと云う」

 この大文章はこの募金になみなみならぬ決意が込められていることを物語る。私学の存立は学生の学費だけでは賄えない。度々の寄附を有志者から集めねばならない。義塾の歴史を振返っても、先づ明治十三年に最初の募金が行われ、申込高は六万円であったが、実際収入は余程少なかった。次で大学部開設のために明治二十二年に十二万円、明治三十年に基本金として四十万円、福沢歿後の安定のために維持会が設立されて、一口が月五十銭、十年で六十円、これが明治四十年の計算で四千五百口、これが続けられると仮定して四十万円許りの金が募られた勘定になり、前後併せて九十万円の数字になる。近々二三十年の間の数字であり、その応募者は義塾出身者か、義塾に同情ある人々に限られている。度重なる募金がうまく成功するであろうか。鎌田塾長の本心は「中々何十万円の金が集まるとは思わなかった。十万か十五万かの金を拵えて図書館を建てようというのでした。」

 ところが日露戦勝後の好況は募金状況を予想以上に好調ならしめた。十二月に発表されて翌年二月七日迄の受付額は十七万二千余円、二月末には二十一万五千余円、三月廿五日には二十四万円、四月末には目標額を突破して三十一万八千余円、六月七日には三十三万四千余円となった。応募額と実際の収入とは一致しないのが常であったから、引続き努力は続けられ、大正元年の最終の決算では応募額三十六万余円であったが、実収は三十万九千九百十五円五十銭で、かろうじて予定額に達した。

 高額寄附者は呉錦堂の三万円、福沢桃介の二万円、三井家の一万五千円、岩崎久弥、朝吹英二、徳川頼倫、酒井静雄、藤田伝三郎の各一万円がある。申込みはしたが支払わなかった人の中に鈴木久五郎がいる。俗称鈴久は明治十年生れだから三十歳の壮年であった。鈴木銀行の東京支店長であったが、日露開戦と同時に株式市場に乗出し、東株と鐘紡を買い進んで四十年にはその儲けは一千万円以上と噂された。鈴久が一万円の寄附を申出たのはその全盛の二月であったが、間もなく大暴落でその年の五月には世間から姿を消した。鈴久の名は花柳の巷では後世まで名を残した。慶應義塾の寄附者名簿からは除かれてしまった。

 ところが多額の寄附金が集る見込みが立つとなると、そこに一波瀾が起きた。図書館は木造とすれば十万円もあれば出来る。後の二十五万円で工科を拵えようという説が出て来た。もともと義塾創立五十年を記念する事業については工科説と図書館説の二説があった。工科建設は福沢在生の頃からある古い夢である。しかし到底工科を建るだけの金は集まりそうもないとあきらめて、図書館建設とした経緯があった。ところがあくまで工科建設に積極的であった浜口吉右衛門は、創立五十年記念式典の挙行された四月に工科建設寄附金と銘を打って一万円を投じたのが、この段階で工科説が再燃する切掛けになった。七月の評議員会でも図書館の建設場所が論ぜられるはずであったのが「態ト決議ヲナサズ、学科問題ト併セテ談合ニ止メ、他日ノ調査ヲ待ツ事トス」と議事録に記されている。学科問題というのは工科建設可否のことであろう。これから半年の間、論議がかわされたが、結局は元通りとなった。塾長鎌田の意見は「無条件で集めたならよいが、図書館を建てるというので寄附を募って置いて、金が沢山集まったからというので工科を建てるというようなことをしては天下の信を失ってしまう。又木で以て図書館を建てるなどということは間違っている。図書館というものは不燃物で建てなければならない」と主張し続けた。そして翌四十一年一月やっと図書館建設資金寄附者への礼状が発送された。

 図書館建設の場所も十二月の評議員会で決まった。「本塾寄縮舎ヲ約十九間西方へ移シ、其跡ニ本館ヲ新築スルコトヲ決議ス、而シテ新築費用ハ約二十万円、内部ノ設備費用ハ約三万円ノ予定トナスコトヲ併セテ決議ス」三田の山の上の建物の変遷は目まぐるしい。決定された敷地は初め福沢の本宅があった。それが明治九年頃東南隅に移った後は、幼稚舎がここに居を占め、明治三十年丘の下に移るまで存続した。その後はこの場所から北側一帯を木造寄宿舎三棟が建てられた。その寄宿舎を十九間西方にづらして図書館を立てようというのである。山の東北の一隅で最も眺望に富める地であり、同時に前面の品海に面する市街地からは好目標となり得る位置であった。しかし現在と違ってすぐ下の三田四国町は当時、中小工場の密集地帯であったので、工場の音が喧ましかろうという批判もあった。

 資金は出来た。敷地も決まった。新築費用も二十万円と決定したとなると、建築設計への依頼であるが、その時はもう非公式に曽根達蔵工学博士に頼んであったようである。そしてその橋渡しは当時の評議員会議長であった荘田平五郎が口をきいたものであろう。荘田と曽根との関係は深い。荘田は義塾に明治三年一月入門し、永く教員をして福沢の信頼を得ていた。明治八年二月三菱会社に入社、緻密な頭脳をもって社則を作り、組織の近代化に貢献があった。荘田の三菱における事業は数々あるが、最も努力し成功を収めたのは今日の丸の内街にビジネス・センターを建設したことであった。明治二十三年荘田が欧羅巴旅行中、陸軍省が丸の内から神田三崎町へかけての土地を払下げるとの噂を耳にし、直ちに三菱本社に購入の必要を打電し、帰国後その建設にとりかかった。そして工部大学校造家学科を明治十二年卒業し、当時海軍鎮守府建築委員であった曽根を三菱に招聘した。曽根はそれから三十九年十月に退社する迄の十六年間、丸の内全域八万坪の測量と地質調査から初まり、第一号館から七号館までの所謂、一町ロンドンと呼ばれる三菱の煉瓦街の建設を立派にやってのけたのである。

 慶應義塾の評議員は名誉職である。出身校の降盛を願わない評議員のないことは当然であるが、社会的地位の確立している面々の会合は得てして、回顧談や世間話に花が咲き、学校の事務的なことはすべて当局者まかせという人が多い。その中にあって荘田議長は三菱社内におけると同様に厳粛な態度で、手控えを開き「この問題をじっくり検討していただきましょう」といって、評議員一人々々の意見を聞いたという。荘田のこの熱意が創立五十周年を記念して建てる図書館、それは福沢歿き慶應義塾の学問の中心とも見做さるべき象徴的な建物となるように念願して、煉瓦館技術に実績のある曽根をその設計者に迎えたのであろう。

 曽根は三十九年十月三菱退社後、建築事務所を開いていたが、四十年十月大臣官房建築課設計係長を辞した中条精一郎と協同して、四十一年一月丸の内に曽根・中条建築事務所をつくった。建築設計依頼の正確な月日については、義塾側にも曽根・中条建築事務所の跡をついで現存している中条建築事務所にも、その書類が残っていないので良くはわからないが、曽根博士単独の建築事務所時代に依頼したのであろうことは色々な確証がある。明治四十年十月十七日発行の図書館雑誌に館員の竹内忠一がまだ建設地の位置はわからないが、設計は曽根博士に依託してあるといっており、十一月の評議員会で理事が設計案の説明をしている。田中監督は図書館の建物について充分な研究をしていた。依頼をうけた曽根もそれを充分理解していた。「書庫はプール氏式に更に新案を加えたるものにして、防火の一点に至りては、特に当事者が苦心せし所なり、其他の設備も資金の許す限り、斯界の最新式を採用して可成的完全を期せんとの計画なり」(竹内忠一)しかし工科問題で決定は延び、設計案も幾度か書替えられて、曽根・中条建築事務所にひきつがれることになった。

 曽根・中条建築事務所談によると「図書館をゴシック・スタイルにしたのは、別に先方の注文に依ったという訳では無いが、スケッチ、デザインとして十二三種先方に差出したが、最後に何か変ったものとの依頼にて此案を出したら決定になったのである」(建築雑誌二九九)図書館の様式については学校側に注文はなく、事務所側でゴシック・スタイルは真面目な建築に向いているところから、採用しようとしたもので、ただその選択に学校側は迷ったらしい。「何か変ったもの」という希望がでたのは、基金に予猶があったからと、五十年記念だから荘麗なものを造りたいということからであろうか。この最後案の設計は曽根でなく中条であった由である。ゴシックとはいうものの、中期の「稍デコレーテッド・スタイル、即ち華麗式に則っとったもの」に決定したのであった。

 かくて明治四十一年十二月二十四日起工。まづ図書館敷地根切(地ならし)及び菱矢来建設に着手し、翌四十二年二月出来た。この間に工事請負人による入札が行われたが、予算二十万円を超過したので再度に渉り交渉が行われ、最後に戸田利兵衛が落札し、五月二十六日地鎮祭が行われた。そして地階の石積をおえた十一月二十三日、安礎式が挙行された。玄関右側に安礎石を位置せしめ、その左側に式壇を設け、卓上に石膏製の図書館の模型とその他の図面を配置した。式は午前十時鎌田塾長の式辞朗読に始まり、次いで社頭福沢一太郎が硝子蓋のある鉛箱の中に慶應義塾五十年史、同記念メタル、同記念絵葉書及び二十三日付の時事新報を入れたるを小穴に納さめ、モルタルにて塗り、上より安礎すべき石―長さ二尺三寸、横一尺一寸五分、高さ一尺三寸二分五厘の花崗岩―を曽根博士らに助けられて下し、周囲を密鎖して式を終えた。のち二十五番教室にて立食があり、記念写真を写して十一時頃散会した。集まる者、塾関係者、教員、図書館員ら凡そ五十名、建築事務所側から曽根工学博士、中条、徳大寺両工学士、中村順平、小味亀十郎両技師らが出席し、職人には手当が支給された。かくして建築は本格的に進捗して行った。

 四十三年一月、図書館内部の設備も曽根・中条建築事務所に委かせることが決まった。理由は建物の建築技師が内部も調製する方が便利であろうとのことであったが、結果的に見て成功であった。細部の装飾や什器がすべて建築様式と一致し、隅から隅までゴシック式が行き渡り、意匠家の親切心が行き届いていると好評であった。

 四十四年秋、完成間近になったころ図書館の周囲の整備計画も同事務所にまかされた。正門及び石段、次で図書館脇の庭園―それは図書館の地階から搬出された土で築山をつくった―などの設計が行われた。

 こうして明治四十五年四月二日、図書館員の新図書館移転が行われ、四月十五日には戸田組より曽根・中条両人立会いの下で建物の引渡しが目出度く終了した。翌十六日から学生の閲覧が初まり、開館式は五月十八日に行われた。

二 八角塔のある風景

 三田山上に聳え立つ新図書館の輪奐の美は人目を惹くに足り、五月十八日の開館式を俟たず、参観者が多かった。折から東京で全国校長会議が催されていたので、官公立の高校長や中学校長の見学が多く、又建築資金寄附者には建物を見せるばかりでなく、福沢諭吉の遺品、図書館所蔵の稀覯書及び塾員岡本貞烋所蔵の古文書を展観したので、新聞記者初め多くの見物人がつどった。

 さて五月十八日の開館式当日は天気良く、三田通りの商家も塾旗と軒燈とを飾って祝意を表し、新図書館を見上げながら登る坂の中途の正門は杉葉にて蔽えるアーチと変り、「開館祝典」の文字が浮き出ていた。新設の幅広い御影石の階段を登り、受付にくると案内状と引換えに記念品が渡された。「慶應義塾創立五十年記念図書館紀要」一冊と和田英作意匠にかかる記念アルバム及び田中松太郎撮影の絵葉書一組であった。式典は大閲覧室で午後二時から初まった。鎌田塾長の挨拶に初り、徳川頼倫の祝辞、徳川家達の祝辞(田中一貞代読)、次で日本図書館協会長西村竹間の祝辞朗読、福沢社頭の謝辞と続き、最後に各地からよせられた祝文、祝電の披露があって終了した。式後楽隊の奏楽裡に、図書館前にしつらえた模擬店に三々五々打つどい歓談したり、建物や展示場を見たりして散会したのは五時頃であった。当日の来賓は八百名を超えた。夜は芝公園紅葉館で有志の懇親会が開かれた。赤羽の川を隔て芝増上寺の山内から見た丘上の図書館の偉容に、いづれもが快哉を叫ぶうち、六時を合図に図書館屋上に取付けられたイルミネエションが燦然と輝き、夜景の美しさもまた格別であった。集まる者七十名、歓をつくし九時散会した。

 十九、二十日両日は一般公衆に公開され、特に二十日は綱町グランドで陸上運動会が催されたので人足が殊に繁った。慶應の消費組合では記念アルバムを三十五銭で、絵葉書を十二銭で、純銀の記念メタルを六十銭で、更らに四十四年十二月現在の図書館蔵書目録を、和漢書は一円で、洋書は八十銭で販売した。径一寸八分の開館記念メタルは仏蘭西で薄肉彫の研究をした畑正吉の作品で「人物の柔かな高低の調子と之を引緊める劃然とした輪郭線とが気持好く纒って居る」(美術新報)と好評であった。絵葉書は学校以外でも二三種印刷され、三田街の書肆、文房具店などで売られた。イルミネエションはこの両日も点燈され、丘をつつむ三田一帯は昼夜賑わった。

 翌二十一日は開館記念講演会が開かれ、鎌田塾長の挨拶、田中監督の新図書館の説明があった後、田中萃一郎、川合貞一、神戸寅次郎、気賀勘重、福田徳三の第一線教授がそれぞれ専門分野の講演をした。祝賀の日程はこれを以て終ったが、二十六日には第七回図書館協会全国大会が新図書館で開催された。北は青森の端より南は沖縄に至る全国の図書館員は百余名を数え、式後、「田中君の説明に煙に巻かれて感服」(内田魯庵「気紛れ日記」)しながら図書館を見物した。

 さてここで落成した図書館の建坪や高さを「図書館紀要」によって示そう。

材料及び構造は大体、石を交えた煉瓦造りである。壁体は煉瓦積とし、外壁は石材及び「テラカッタ」を交え、其切妻に当る所は特に鉄筋コンクリート造りとして薄煉瓦を張り、床は書庫全体と一階の或る部分を鉄筋コンクリート造りとした外は、悉く木造とし、屋根は中部陸屋根を銅板張とし、他はスレート葺であった。

 間取りは書庫が館の西翼全部を占め、地階から屋根裏まで六階、凡そ二十万冊の図書を収容し得る。大閲覧室は書庫と特別閲覧室とを除いて二階の全部を占め、面積七十九坪四合七勺、閲覧者百五十人を入れることが出来る。事務室及び記念室は一階にある。即ち玄関を入ると広間があり、右に記念室、応接室、雑誌室、教員読書室があり、左に事務室がある。広間の突当りには大階段があり、登れば二階の大閲覧室に至る。そして地階には新聞室、製本室、喫煙室、弁当室、小使室、汽罐室などがあり、木造廊下でつながった別棟の便所があった。

 建物については当時新鋭の建築評論家黒田鵬心の批評がある(美術新報十一―九)

 「扨て此の建築がゴシック式を採った事は其の位置及び建築の種類から見て至極適当していると思う。元来ゴシック式は極めて構造を誇張したもので、しかもそれが垂直の方向を主としている様式であるから、之れを丘上に持って来ると益々其の意味を強める事になるので、甚だ面白いと思う。学校建築又は図書館建築としても歴史的様式(ヒストリカルスタイルス)の内では最も適しているものの一であろう。勿論新様式の開拓と云う様な方面から見ては平凡極まるものであるが、ゴシック式建築として数え得るものが寥々暁の星の如き東京市に在って、斯る確りしたゴシック式の建築が出来た事は大に喜ぶべき事だと思う。又この建築はゴシック式と云っても其のいかつ味を去ってやや華麗の分子を加え、多少復興式の表現の心持があるのも、適当の加減(モテイフケーション)だと思う。

 正面(ファサード)の立面(エレベーション)に於いて左右均斎(シムメトリー)を破りながら大体平均(バランス)を失わないのはよいが、欲を云えば東西隅の八角塔は心持小さすぎはしまいか、尤も側柱(バツトレス)を全部石にしたならば、あの大きさでもずっとよくなったかと思う。そうすれば西翼の壁の石の部分の多すぎるのも補う様になる。何れにしても煉瓦と石との比例が右の塔と左の翼と釣合って居らない様である。右翼の破風の下に時計を装置したのはまづ無難と云って置こう。建築の威厳と云う点からは面白くないが、思付から云えば面白い。屋根の格好は簡単なのが余には何より快い。何かと云うと不要のものを失鱈に附けたがるものだが、これには其の嫌いがないのが嬉しいのである。入口は非常に美事に出来た。入ったところの広間の大理石の柱と三つ並んだ、ポインテッドアーチも立派、そして其の突当りに大階段のあるあたりは誠に堂々たる大建築―日本に於ける―の観がある」

 少しく補足するならば西翼の壁に石の部分が多くて八角塔の煉瓦と釣合はないというが、西翼は五階の書庫であって、それにつけられた蜂の巣のような小窓が、中央部閲覧室の大窓と釣合わないのを調和するために、多数の小窓を三個の石の大アーチ形にはめ込ませたからであった。右翼破風下の時計は花崗石の外輪の中に、白藍褐三色の陶器を張り、文字盤には数字に代えてTEMPUS FUGIT(光陰矢の如し)の文字を配した。大さは外輪の石を入れ直径七尺、製作者は仏蘭西セーブルで特にこの種の彫刻を研究して来た美術学校教授沼田一雅で、中におさめた機械は天賞堂が特に英国より輸入して寄附したものである。美事に出来たという広間の大理石の柱は秩父産緑色大理石で、双柱八本により三連尖頭アーチを型造っており、突当りの堂々たる大建築の観がある大階段には将来和田英作図案のステインド・グラスが出来る予定で、開館当時は板硝子が嵌込まれていた。黒田の文章にはないが、正面玄関石造アーチには「創立五十年記念慶應義塾図書館」なる篆字を山本拝石が揮毫し、青銅にて鋳たるものが掲げてあったし、玄関の広間左手には四十二年秋の文部省美術展で注目を集めた北村四海の大理石像「真間の手古奈」が据え置かれ、記念室には川村清雄画く福沢の肖像画が清岡邦之助が寄贈して掲げられてあった。

 後日のことになるが、この建造物は其後関東大震災及び第二次大戦の戦火に遭って、増築され改修された後も、当初の俤を残しているので、昭和四十四年三月十二日文部省告示第三六号で重要文化財に指定された。

 「慶應義塾図書館 一棟煉瓦造、建築面積六八四・四平方メートル、二階建、地下一階、一部三階、書庫六階、亜鉛引鉄板葺(正面玄関広間、階段室以外の内装を除く)
 附 設計図 六五枚
   スティンドグラス原画 一枚」

 文化財としての意義を保護委員会の会員の一人である谷口吉郎博士はこう語る。煉瓦建築は外国では紀元前数千年のバビロン、アツシリヤ以来、今日なお建設されているのに、地震国である日本では幕末に伝来されて以来、明治、大正を以て終焉されてしまった。日本の煉瓦造は全く歴史の一断片にすぎない。しかも残存したものも、地震で倒れ、戦災で潰れ、さらに戦後は心ない人の破壊で姿を消して行く。「それ故、今日姿を保っているものは稀少中の稀少品となり、慶應義塾の図書館はそのうちの一つに属する。意匠もすぐれているので、建築史の貴重品といわねばならぬ。」又、文化庁主任文化財調査官橋本文雄も、明治の洋風建築にも初中後期とそれぞれ異なる。従来の日本人大工が洋風建築をまねた時代から、外人の指導で建築した時代、最後に日本人の手により設計し施工した時代に推移した。この図書館はその明治末年に竣工した「一級作品」であると推賞している。

 建築構造の確かさ、造型の美しさは建設当初より今日に至るまで変らない高い評価の下にある。しからば図書館建築としてはどうであろうか。図書館建築には当事者と技師との緊密な協力が必要であることを常々力説していた田中監督は、竣工後の講演会で「記念図書館建築の特色」(学報一七九号)と題して演説し、便利、防火、発展、採光、通風、美観すべての点で満足であるといっている。

 田中監督の便利とする処は先づ閲覧室と書庫、事務室と書庫が壁一つ隔てるのみだから、出納には時間がかからず、事務にも便利である。ところが高さ七尺の書棚を入れた低い階層の書庫と天井の高い本館との床面は、一階と二階では差違が出来る。それは貸出台を閲覧室内に高く突出すことによって不便を解消した。そして目録は貸出台の左右に置き、木製の屏風で閲覧室と区劃した。左右に置くことで閲覧者の往来を少くし、屏風の異動によって目録台の増加も加減出来た。書棚の七尺の高さは誰でも手が届く。今迄のような梯子や踏み台がいらない。そして配列法にも工夫をこらした。書庫は分房されていたので、分房内には大分類のものを入れ、その中は図書の大小によって配列された。つまり分類別と図書の大小による配列法の折衷を採ったのである。分房毎に机があり、照明暖房設備もあったから、書庫内に出入出来る教員には便利であった。又地階は荷車を引入れ、荷解きをして直ちにエレベーターで事務室や貸出台へ容易くあげる工夫もしている。防火のことは最も意を用いた処であって、書庫を分房にしたのもその為であった。真中に廊下があり、左右に分房があった。その間に防火壁があり、床は鉄筋コンクリートで固められ、入口及び窓は鉄扉で遮断された。階段やエレベーターは廊下にあったから、失火があったとしても延焼は防ぎ得る。採光は丘の上にあることで想像以上の明るさであり、通風も南北に窓があって風が通り易い。以上のようなことが田中監督の自慢とするところであった。

 これらは勿論、造られた時代を考えねばならない。当時の他の図書館との比較においていわれたことで、其後の運営によって不都合になり、変更されたこともある。いや殆んど全部が変ったといって良いだろう。そこに図書館の進歩があり発展があるのだといえる。防火は田中監督の最も意を用いたところであり、自慢の種であったが、屋根を鉄骨木張りスレートを葺いたことが後に戦災で焼ける原因になった。内部からの火、横からの延焼を恐れたのであって、空からの焼夷弾には流石思いも及ばなかった。尤も戦災は書庫は屋根裏だけにとどまって、四十万冊の図書が無事だったのは防衛した教職員の努力の外に、田中監督の神経質すぎる程の分房主義のお蔭であったことは確かである。

 この新図書館が出来たことが、どんなに塾当局、塾出身者、塾生に満足をあたえたか、想像を絶するものがある。福沢在世当時の、新銭座から三田に移し立てられた古長屋や、苔蒸し軒傾きたる島原藩邸の校舎や寄宿舎は除々に建て替えられ、新講堂や寄宿舎や商工学校などが次々に出来たが、それらは皆木造の建物であった。新日本に貢献があった福沢の流れを汲む学校としては物足らぬ気持ちを誰れしもが持った。学生槙智雄は「当時、本郷の帝国大学の校庭と建築物が、よくわれわれの頭中に往来した。学問はあんな雰囲気の中で育つであろうと考えられるのであった…図書館の新築は、それ自身立派であるとともに、将来への希望を思わせるものがあって、われわれ学生の志気を、どの位高揚したか量り知れぬものがあった。」(三色旗二二六号)

 そして亦、この図書館は「慶應義塾出身の人達及び世間の塾に同情を寄するところの有力者が金を出して之を造ることが出来た。是が又大変尊いことである。」(鎌田栄吉「私学の発展」学報一七九号)政府からは錏一文の金を貰ってない。開館式の祝辞に政府の高官が一人も壇上に立たなかった。独立自尊はお家の家風、義塾の学風である。自由なる学問の場、これは自由の中にいて自由に育ったものより、他校から来た者の方が敏感に読みとれる。一ツ橋の高等商業学校出身で塾の教授となった福田徳三は、開館記念演説会の席上で「幸に吾々は慶應義塾に於て学問を研究するには、政府の干渉も無ければ、実業家の束縛も受けず、政治家の圧迫もない。全く自由にして而も斯の如き立派な新築図書館を与えられて、書物の数は少いが、勉強しようと思えばイクラでも出来る」(学報一七九号)と演説した。

 図書館は創立以来、今日に至るまで義塾の象徴の如く愛されて来た。塾に関係のある図書の、雑誌の、表紙に、挿絵、絵画で、木版で、写真で親しまれている。その建物から来るイメージがまた慶應義塾のイメージの如く思われさえもする。慶應は華麗(ハデ)だ、華麗(ハデ)な学風だといわれるのも、この建物の印象に由来することがあるかも知れない。

 終りに実務的な数字を付加えて置きたい。図書館建築費は二十三万六千九百八十七円三十三銭七厘で、予算二十四万円を目出度く内輪で済ませた。尤もスティンド・グラスが未完成ではあったが。又、建設に功労ある図書館員には特別賞与があたえられた。田中監督には千円、東野主任には月給の二ヶ月分、その他は一ヶ月分であったという。

三 新図書館の運営

 慶應義塾創立五十年記念図書館の開館式が行われた明治四十五年五月が、慶應義塾図書館の公式設立年月となった。その後、毎年行われた文部省や東京府の図書館調査の答申には、常にそう記入されつづけた。独立建物の図書館を持って、初めて学内からも世間からもそれを認識されたのであろう。慶應義塾図書館の本史はここから初まるといっても良い。

 田中監督の就任から新図書館建設までの努力は見て来たとおりである。そして建物の完成からも休む閑暇なく、その充実と活用に努力を重ねたことは今日から見て超人的とさえ思える。田中の図書館観を示す良き資料がある。塾員津田栄にあたえた書翰の一節に「学風なく感化力なき学校や、生気なく活動力なき教会は、教育機関宗教機関として何等の価値なきと等しく、図書館の如きも書籍を死蔵するのみにては、是只紙屑屋と同じく何等取る処あるなし。実際図書館は死せる書籍の推積せらるる処なりとの誤信よりして、人々自ら其活動的方面を忘れ、只是れ紙片を葬る墳墓の如く見なすものあり、若し図書館にして生命なく活動なき只雑然たる倉庫の如きものならしめば、是社会の機関たる資格なきものと云はざるを得ず。書籍は元来紙片の集合に過ぎずと雖、学者の最も精選せられたる思想感情は此処に沈澱せらるるもの、此点より観る時は書籍其ものは実に一大生命なり、而して此一大生命に活動を与え、以て多数の読者をして智識を啓発せしめ、延て社会に貢献する処あらしむるには、専ら図書館の経営者に待たざるべからず。要するに書籍其者の力は所謂潜勢力なるが故に、単に蓄積せられたる書籍は直接に何等の効果なきものなれども、経営者の力によりて始めて顕勢力と化し、其活動を開始するものなり」岸和田に津田文庫と称する小図書館を経営せる彼の後輩に激励のためにあたえたこの言葉は、彼の抱負であろう。田中は図書館の仕事に誇を持って働いた。

 新図書館の閲覧は開館式を待てず、四月十六日から初められた。その規則は煉瓦館時代を大して変更することなく、寧ろサービス過剰を訂正した程度であったが、大いなる変革は建設趣意書でも発表した「単に学生の研究場たらしむるに止めず、之を公開して世間の公益に資するの必要」の実行であった。それは十一月一日より行われた。外来閲覧者心得には「一入館せんとする人は玄関左側の地下入口より入り、本館備付の草履に履き換え、中央階段を経て閲覧室に入らるべし。一入館せんとする人は成るべく平日は午後二時以後、又は日曜日を択ばるるが双方の便利なり」と注意した。尤も丁年以下の者、若くは服装の余りに如何はしき者は謝絶した。入館料は一回五銭、一ヶ月一円と定められた。この月の外来者は百五十四名で、(一日平均五名)内訳は学生が百三名、他は月給取(サラリーマン)であった。学生の中では東京帝大生が多く、高等商業学校がそれについだ。外来者は以後一日平均三名から七名程度であって、特に頻雑の感はなかった。なお建築寄附者には特別閲覧券が発行され、無料で利用させた。大学図書館の公開は慶應ばかりでなく、早稲田でも行われたが、今日に至るまで止むことなく続けられたのは義塾図書館だけである。戦後学生数が多くなると外来者の扱いにも面倒が生じ、若い館員には学内だけのものになろうとする動きもなくはなかったが、却って松永安左衞門とか森村市左衞門とかいう古い塾員の間に、公開が当然だという空気が残っていた。福沢の生きていた頃、三田演説館が塾生ばかりでなく一般に公開され、植木枝盛などもここで思想の成長を培ったといわれるが、福沢以来の塾の輝かしい伝統をこの公開にも見ることが出来るといえよう。

 大正二年から三年春にかけて田中は塾長鎌田に同行して欧米の教育視察に出かけた。その帰朝土産は月次展覧会の開催である。公開書架(オープンシエルブス)が米国の図書館で行われて、多数の学生が図書に親しんでいるのを見て、月一回、一週間位、一定目標の図書と雑誌類を多少の参考品と共に展示し、学生並に一般外来者に自由に観覧せしめた。そしてそれは大正三年十月から十一年二月まで三十三回行われた。第一回は軍事、第二回は都市、以下金融、交通、英文学、社会思想という風につづけられ、後にはその一日を講演会にあてた。図書・参考品は塾内に限らず広く有志者の賛助を求め、几帳面に永続させることは大変な努力であった。この外にも「問題の人と著書」と題し、時局の内外人の肖像と図書を閲覧室に適時陳列した。

 田中監督は就任当初から図書のPRには熱心であり、「慶應義塾学報」にはその記事を欠かすことなく掲せた。初めての印刷された蔵書目録も二回に渉って発行した。大正年代になってそれらを総合して一冊に纒める年報を出すことになった。正式の名称は「慶應義塾図書館年報 附増加図書目録」という。大正五年度に初まり十年度まで六冊発行された。増加目録はその年度だけの図書に限るので、既刊の印刷目録との間の空間は、洋書はタイプライターで、和漢書は筆写の増加目録を作って補った。なお大正八年度以降の年報には医学部の前身である医学科の図書も附載した。医学科予科は三田にあってその参考図書は図書館に収蔵されたが、本科は四谷にあって図書は殻教室に分散されていた。それが纒って全部収録された。

 地味なことであるが、分類の一部改訂が明治四十四年と大正四年とにあった。三十九年改訂によって和洋共十門分類であったのが崩れて、四十四年には和は十一門、洋は十五門となり、大正四年には更に増えて和は十三門、洋は十六門となった。和の増加した三門は教育、社会問題、雑誌であり、洋はその上に語学、伝記、地理が加わった。和洋分類の規準の差違の発生はどうした由か寡聞にしてわからない。経済から社会問題が分離したのは当時の風潮からその方面の図書が増えたのと、福田徳三の意見が参考になったようである。福田は性格が強く主張するとあくまで自説をまげない。和洋分類の差違の生じたのは教授達の主張の反影からであるらしい。しかし分類を変更して索引の便を図ることは大切であるが、カード許りでなく函架の上にまで変更があって、煩瑣な仕事をともなうことは図書館に勤務した人でないとわからない。それを二度まで繰返した努力は大変なことであった。

 大正六年七月の評議会で図書館に相談役を設けることが可決された。それは図書館の改良進歩のために教員の意見を聞くためであった。最初の相談役は三辺金蔵、西村富三郎、沢木四方吉、幸田成友、占部百太郎の各教授で、相談に預る主なことは図書の管理及び撰択に関することである。第一回相談役会は監督司会の下に石田新太郎幹事も陪席して開かれた。大正七年度の図書購入費六、三六〇円を従来の決算に照して、分類別に予算を定め、相談役各自が得意の分類項目の図書を選定するということになったが、こんな面倒な仕事を手当もうけない相談役が引うけて永続したであろうか。おそらく、従前のやり方にまもなく戻ったことであろう。これ迄の図書選定は項目別の予算を監督と館員が協力してやっていた。特に教授達の推薦書に主きを置いて、その受付係は東野主任が当っていた。福田徳三などは特に熱心で洋書ばかりでなく、専門違いと思える図書を浅倉屋や文行堂などの古書肆から送らせていた。その頃あまり人の注意を惹かなかった水帳や宗門改帳など、今日の庶民史科を推薦して来たこともあった。そこで或教授は福田を「紙屑買」と罵ったのを、どこからか聞いた福田は「横文字さえ入っていれば薬のレッテルでも有難がる奴」と応酬したという逸話も残っている。

 大口の臨時図書購入費は教授に相談し、若くはその推薦によるところが多かった。新図書館完成のための蔵書充実費に、初め一万五千円が予算外に準備された。基礎資料の購入をということで慎重な撰択の結果、福田の推薦によるアダム・スミスの国富論各版揃一式百五冊(但三版を除く、三版は後年補充)が採用され、海外研学旅行に出発した堀江帰一教授が英国の古書肆ミューゼアム・ブック・ストアにわざわざ立ち寄って、該書を確かめ発送したのであった。又、大正五年十二月門野幾之進還暦祝賀のため集められた拠金の残額二千八十円七銭の寄附があったときは、高橋誠一郎教授の推薦によって前記と同じ古書肆から、東印度会社関係資料一括二百七冊を購入した。

 またこの頃は洋書の購入を留学生に依頼することが屡々あった。第一次大戦のとき各国政府の公文書類を収集するため、大正二年出発の小林澄兄にそれを依頼したが、専門外でわからない。ロンドンで三辺金蔵に遭い、頼んだらそれらと共に会計学の図書も多く買って田中監督に渋い顔をされたそうである。留学生による事後承諾の図書購入は三辺のみでなく、早くは神戸寅次郎などにもあって、評議員会で釘をさされたこともあった。欧州大戦中は洋書の入手が困難で、殊に独逸書の輸入は官立学校に限られていたから、留学生の活用が盛んに行われた。

 この頃の委託書と特色ある寄贈書に触れて置きたい。四十五年九月、新図書館が出来てすぐ、在日欧米人のアジア研究の会であるアジア協会の図書約三千冊が委託された。同文庫は欧亜関係の古書が多く、特異なものであった。大正二年岡本謙三郎の遺蔵書二百四十六冊が父岡本貞烋の手で寄附された。貞烋は古い福沢門下、謙三郎はその次男、英文学を志して留学し、帰国して教壇に立ったが早逝した。財界に知己の多い貞烋は「ぐうたらな長男が残り、秀才の次男に先立たれて気の毒」がられたが、その長男とは俳句で名をなした岡本癖三酔であった。岡年津田弘道よりその父真道の遺蔵書七十冊が寄附された。真道は文久二年西周と共に和蘭に留学し、寄贈された図書はその時持帰った和蘭政事学の書であった。真道は福沢と共に維新前幕府に仕え、親交があった。維新の時、主戦論側に立ちながら、新政府が出来るといち早く出仕したので、福沢から「かけまくもぐみ」と揶揄され、明治以後必ずしも仲が良かったわけではなかったが、永い生涯を振り帰って見ると罵り合った福沢がなつかしく、慶應への寄贈は真道の遺言であった。大正四年木村浩吉から先孝喜毅所蔵品の寄贈があった。喜毅は万延元年福沢渡米の際の司令官で、以後親交を続けた。この時の寄贈品は自筆の「奉使米利堅紀行」ら初め、数々の将来品である。大正六年井口栄治より伴鉄太郎の遺蔵和蘭書十数部の寄附があった。伴も万延渡米の一員であり、福沢旧知の人であった。同年渡辺金蔵所蔵朝鮮本三百四十六冊、和歌書千七百余冊の委託があった。渡辺は刀水と号し当時陸軍中佐、非常な蔵書家であって斯界垂涎のものであった。和歌書全部と朝鮮本の一部は後購入した。大正七年井上勝之助遺蔵書六百五十冊が寄贈された。勝之助は明治の元薫馨の遺子で永く大使として外国にいた。寄贈書中には馨の旧蔵書も含まれている。同年には安倍能成から日本の医書三百十八冊が寄贈され、高杉春太郎から漢籍九部百三十七冊の寄贈もあった。祖父晋作遺愛のもので、その手沢本も混入している。十年には小寺謙吉より独逸書七百七十二冊が寄附された。

 新図書館開館の際、福沢及び義塾関係者の資料展が行われたが、見るものの感懐を呼び、その方面の資料を収めようとする高まりがあった。図書館側からも今にして収集せざれば煙滅に帰すべきを慮り、古い卒業生に呼びかけて蒐集につとめ、草稿、書幅、書翰等続々寄贈された。又、福沢の創刊せる時事新報も神長道之介、森五郎兵衛、小森沢祝三、川俣直次郎などより寄贈をうけ、創立より廃刊まで、更らには時事を合併せる毎日、産経をも揃えて所蔵し得る端著を作った。

 図書館内にも多少の変化がある。落成時に硝子板であったステインド・グラスが大正四年十二月に完成した。大正五年には書庫内の教員読書机は狭いというので、玄関入ってすぐ右の従来学生雑誌室を改造して教員閲覧室とした。玄関広間は手古奈像のみでは寂しいとして、義塾功労者の胸像が据付られた。小幡篤二郎、門野幾之進、鎌田栄吉の大理石像が四年から六年にかけて北村四海の手で造られた。福沢の肖像も河村清雄のみでは寂しいとして、五年二月多田良吉に依頼して壮年の風貌をもつ肖像を画かしめた。これらの変化のうちの最大の話題は勿論、スティンド・グラスであろう。

 それは高さ三間半、幅一間半の尨大なもので、これ迄は外国の写真でしか見られなかった日本では劃期的な企劃であった。田中監督の発案により、鎌田塾長が意とする「泰西文明の移入による我国従来のミリタリズム・フューダリズムの没落を示す」構想を、田中が巴里で知り合った和田英作に依頼し、考案させた。構図の出来るまでには十数枚の画稿が、書き替えられた。初めのうちは大勢の人数を配して泰西文明に直面した幕末の新旧思想の混乱振りを表現せんとしたが、次第にその散漫さを避け、二人の人物にまとをしぼった。甲曽に身をかためた武士が馬より降りて、自由の女神に対する構図となったのである。和田の談話によると「図は今、封建の門扉をパッと開いて旭日燦たる光とともに、泰西文明のシンボル女神が、塾章ペンを手にして入って来るところ、弓矢を持ったミリタリズムの表徴たる鎧武者が白馬を降りて迎えている。下方に叢生しているのは笹や茨棘で、今後泰西文明に依って開かれようとするカルチュアー少き荒野の様、女神の足下に飛立っているのは梟で、旭日の光から遁れて暗きに去るもの、凡で我国近代文明の暁を示す姿である」(三田新聞昭和五・二・四)そして下部にはラテン文Calamus gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)とその左右には義塾の創立年と五十年記念の年号が記された。

 この図案をスティンド・グラス専門に研究して米国から帰ったばかりの小川三知が、田端の工場で製作した。グラスは態々米国から取り寄せ、下絵の色彩を出すのにグラスを三枚四枚と重ねたところもあったという。小川談によると「下絵を見た時、何式に為様かに就ては、構図の性質や材料、即ち私の手元にある色硝子の都合もあったのでチファニー氏式に適すると見て仕事を始めました。然し廻の椽模様(ボーダー)は全くモザイック式に依りました。」(建築一九二号)小川は大正三年五月に仕事を初め、専心しているうちに興に乗り、遂には経費や労力など念頭から去る程熱中して完成した。大さといい、技巧といい、当時の日本人作品では抜群の出来栄えと言われ、仕上げの意匠は河辺正夫が苦心し、青い壁面による稍々薄暗いホールから、階段に面するとき、この色彩眩ゆいスティンド・グラスには恍惚とした崇高さにうたれ、学問の深奥にわけ入ろうとする大学図書館の入口にふさわしい雰囲気をかもした。

四 田中監督の晩年

 大正三年十一月六日慶應義塾図書館で臨時日本図書館協会の総会が開かれ、協会長に田中一貞が選出された。太田為三郎会長が台湾総督府図書館の招聘に応じたために、急拠総会が開かれ、会長におされたのである。協会長は創立以来七代目であって初代は田中稲城(帝国図書館)次で和田万吉(帝大図書館)市島謙吉(早大図書館)渡辺又次郎(日比谷図書館)西村竹間、太田為三郎(共に帝国図書館)に継ぐもので、図書館の数多からざる当時にあっては止むを得ないものがあったろう。田中は「図書館については素人であって」を口ぐせにしていたが、推選された上は協会に積極的に協力した。それから二年の間、慶應義塾図書館が協会の本部になり、幹事に東野利孝、西村敢が任命された。

 協会は初め日本文庫協会といって明治二十五年に創立された。会員は官立図書館に属する人々を以て構成され、私立図書館員や蒐書家好書家の加入は遅れた。慶應図書館員がこれに加入するようになったのは、はっきり判らないが、恐らく田中になってからではあるまいか。田中は明治三十九年三月の第一回全国図書館大会には出席していて、前述のように図書館の建築に関する講演をしている。そして四十年創刊の「図書館雑誌」にも委員に名を連ねた。四十一年協会名が日本図書館協会と改められた第三回全国大会は、本会議は南葵文庫が行い、二日目煉瓦館時代の慶應義塾図書館を参観し、三田の東洋軒で懇親会を開いた。四十五年第七回全国大会は新築成る義塾図書館で行われ、出席者も初めて三ケタ台の百三十七名となった。協会長就任の頃の田中は、慶應の図書館も創業期をすませ、充実期に入った一番油の乗った時期にあったと思う。元より順番の会長であるから、田中でなければ、というようなことはなかったが、この間良く勤めたといってよいだろう。全国大会を大正四年には九州で、五年には山形で開催し、卒先して出張した。山形は田中の出生地であって、徳川譜代藩の名残があったので、協会総裁に元紀州家の徳川頼倫と共に来るとあって、歓迎の幔幕が張りめぐらされ、とんだところで故郷に錦を飾る結果となった。大正二年八月には慶應で第二回図書館事項講習会が開かれ、一切の費用を引受けた。後々まで図書館員の良きハンドブックとなった「図書館小識」も田中会長時代に発行された。田中が会長で特に田中でなければ出来なかったことは協会の総会の講演に和田英作に「蝶翅上の色彩につきて」を、中村不折に「古法帖に就きて」を喋らせたことにあるだろう。総会に美術家を講演に招いたなどは後にも先にも無いことである。

 田中監督は塾の内外に渉って活躍されたが、この時期の図書館員について触れて置きたい。大正七年度に於ける主な館員と職務分担は

東野利孝図書購入、予算、庶務
竹内忠一洋書の分類、目録、月次展覧会
安食高吉和漢書の分類、目録、製本
笠原嘉次郎教員貸出、新刊書報告、雑誌
佐々木良太郎図書原簿、目録排架、書庫
伊達良春洋書目録補助
岡崎義元和漢書目録補助
楠山多鶴馬庶務係補助
山木徳三郎
外島政寿
学生貸出

 これらの館員は勤続が永い。それが田中監督より前の時代の人との差違である。この内東野と竹内は田中の股肱であった。東野は初め恵海といい、滋賀県伊香郡の出身、真宗京都中学から真宗大学中退、上京して東京物理学校に入り、明治三十七年九月平山幹次在任のころ慶應義塾書館に就職した。職務の傍ら慶應の文学科に学んだが卒業はしていない。四十年の三月、慶應義塾創立五十年祭を前にし、図書館の募金も初まる繁忙のとき、田中監督の下に主任を拝命した。真面目な人であり、図書の注文には教員との交渉も頻繁だったが、評判も良かった。後年、慶應から去った福田徳三は小泉信三宛の書翰の中で、東野の名を記して図書館を懐しむでいる。図書館協会幹事のときも実務に挺身し、やめるとき徳川総裁から感謝されている。大正七年病気で郷里に帰り、八年八月退職した。退職後は高月町馬上の円照寺の住職となり、大正十四年五月歿した。竹内は愛知県知多郡の人、明治廿四年上京、慶應義塾文学科卒業、年齢は東野より七歳上であった。就職は明治四十年、図書館最初の専任洋書係である。十二年間勤務して、東野と殆んど同時の大正八年十二月に退職した。安食高吉は明治三十八年四月まだ文学科学生中に就職し、四十四年卒業して事務員となり、翌年兵役で一年退職したが、大正二年十二月再就職した。田中と同じ山形県鶴岡の人、初め和漢書係であったが、東野の後を継いで主任になった。田中監督は郷里の人を多く使用したと前に書いたが、言葉のなまりが何時迄も抜けなかったのは安食を最とした。その頃の学生の投書に「図書館の事務員と話をするには通弁を要す。あれなら反って外国人の方が判りよし」と云われたのはこの人であろう。

 この外に筆写生が一人いた。前記した羽柴雄輔であり、大正四年頃一時いた人に神代種亮がいる。二人とも世間では割りと名の知られた人である。筆写はこの頃の図書館では重要な仕事であった。今日でいえば写真であろうが、他所にある珍本、稀本類を筆写して所蔵本としたのである。筆写は以上の二翁の他、まだ寺子屋の経験ある人が多かったので筆を持つことは慣れていて、館から委嘱されて筆写を内職とする人が多かった。そうした筆写本に今日価値のあるものがある。例えば麻布にあった南葵文庫所蔵本は、そこの主任橘井清五郎の好意で多く筆写し得た。ところが南葵文庫は其後、東大図書館に寄贈され、大震災で全部を失ったので今ではそれらの写本が残された唯一のものとなつた。

 この外に雇員、給仕、小使がいたが、大学図書館独自の勤務者には教員の席が明くのを待つ間だけ勤めるもの、助手になっても教壇にまだ立てなかったものなどが活用された。それらには後に有名になった教授がいる。まづ前者には西本辰之助、沢木四方吉、山崎又次郎などがおり、後者には高橋誠一郎、増井幸雄、野村謙太郎などがいた。「私は図書館へは仕事に行かなかった。助手になっても何も仕事がないので石田幹事にいうと、それぢァ図書館に行けといって手伝わされる。高橋さんも野村さんも行ったが、私と加田(哲二)さんは行かなかった。高橋さんは月給四十円だったが、図書館へは一日置きに行くことにしたら、月給は半分で良かろうと云われたと笑話で話された」とは園乾治教授の話である。田中監督はこうした若い人を東野、竹内を中心に、巧みに挿入して図書館を充実させた。しかし短期間勤務なので随分無駄も多かったようである。

 大正八年十月ワシントンで開催の第一回国際労働会議に塾長鎌田は日本政府正式代表として出席することになり、気賀勘重、高城仙次郎と共に田中一貞も随員の一人に加えられた。そして翌九年一月帰国した。この会議での心労もあるであろう、又四月に九十才になる老母の病気も影響したことであろう、十月頃から神経衰弱が昴じて不眠症に悩むようになった。

 十年の夏には青根温泉に憩い、又松島湾内の桂島に休養をとったが、既に死を覚悟してか、「如空庵嘯月一貞居士」と自ら謚した。如空庵とは桂島にある小屋の名、嘯月は雅号であった。九月帰京し、時々図書館にも来て談笑し、死去の前日の二十一日も八角塔の地下室の食堂で昼食後、菓子を饗し、自から人にすすめなどしたが、翌二十二日午前九時、突如脳溢血症にかかり、午後六時死去した。享年五十歳。臨終手記には「義塾の益隆盛ならん事を望む。看護に就ては一点の不平なし。只感涙あるのみ。今年三月より殆んと全く催眠薬の為に眠る。精神の疲労想うべし。妻の看護と誠意の為に生延たり。家庭に於て余は幸福なり」と断続的に記されてあった。

 九月二十四日北寺町大松寺にて告別式、十一月には故田中一貞教授記念図書購入資金募集が、石田新太郎他八名が発起人となって醵金されたが、これは予期ほどの反響がなかった。この頃は図書館熱がややさめて、医学部の建設やら研究室図書の充実の方に人々の関心が集まっていたからと思われる。翌十一年一周忌に親友中村不折画く肖像の油絵が出来た。小品であるが気品に富み、閲覧室に掲げられて、学生の読書を永く見守っていた。

 最後に大学図書館としてどの程度の規模であったかを他の図書館と比較した表を掲げよう。幸に文部省の「全国図書館に関する調査」(大正十一年十月)がある。

大正十年度経費蔵書冊数閲覧人員
設立年月総額図書購入費
予   算
和漢書洋書大正九年度
延人員
一日平均
早大図書館 年  月
一五 一〇
      円
三六、六七一
     円
一九、三四七
      冊
一八一、一三三
      冊
四八、二六九
      人
一一五、五五五
   人
三六三・〇
明大図書館三〇  九一五、〇〇〇八、〇〇〇一八、六七四八、一〇七四、〇九三一〇三・〇
慶應図書館四五  五二七、八八四七、〇〇〇六六、〇七三三七、二九八六〇、五六三一九二・〇
中大図書館一八  九 九、七四二八、一〇〇六、五五七一一、〇八九二三、三七五八五・〇
同大図書館二〇 一一 五、三六八一、二〇〇二四、三〇七一一、三一〇二六、二〇七九八・〇
東京帝大図書館一五 ―八一、八〇六五三、九五四三八九、〇八二三一一、六五四二七、五六六九二・五
京都帝大図書館三二 一二一四、三一〇二、〇三六二八五、八二二二一四、一三四二、三〇四三三・五
東京商大図書館二〇  六一〇、二九〇五、六四二三二、一八八二六、五八一四四、五四六一八五・〇

 (註)図書館は編者の抜萃に拠る。慶應図書館の蔵書冊数の数字は早大図書館が寄託図書を含めたので、同様にした。京都帝大図書館の図書購入費予算は研究室分を含まざるため少い。

田中監督が就任した明治三十八年度の蔵書は一万冊に過ぎなかったが、十七年後は殆んと其の十倍に達している。

 以上は田中監督の図書館に於ける業績である。本職は云うまでもなく社会学の教授であり、傍ら仏語も教えていた。しかもその他種々な役職についた。学校の幹事にならされたこともあり、小さなことでは商業学校の校長に、また野球部の部長にもなった。真に八面六臂の働きをしたといってよかろう。

 田中監督を初めとする六十年の図書館の歴史は、監督の努力と牽引力によって押し進められたといって過言でない。監督―後には館長といったが―の個性が図書館の色彩を変え得た時代であった。図書館は勿論、監督一人の図書館でなく、数名の事務員、雇員、給仕、小使がいた。このうちの主力は事務員であって、彼らは大学を卒業し、幹部乃至幹部候補であった。今日でいえば司書と呼ばるべき専門職であってよい筈であったが、司書としての質はまだ向上していたとは云えない。館員の専門職化の必要は明治末期から、常に外国の図書館員と比較されて叫ばれつづけており、慶應においても田中監督は日本図書館協会とも緊密に接触しており、一時期協会長を勤めた位であるから、専門館員養成の必要は充分認めていたろうが、遂に慶應の図書館では実現されなかった。その理由は恐らく他の大学図書館でも大同小異のことがいえたのではあるまいか。

 事務員、雇員の制度は慶應義塾全体の制度であったが、図書館は他の職場と異ったところがある。それは専門職的な才能を要求される。学校の他の部処の事務員と違い、向上のための講習会が明治三十六年という早い時期から初まり、四十年には図書館職員養成所の設置の必要などが協議された。更らに大学図書館となると分類目録の編成や、書架の整備などに加えて、語学上の才能も他より多く求められる。図書館の事務員には常識の上に、学者的才能も要求される。ところがそういった人材は学校内では教員になりたがる。教員と事務員とは待遇において甚しい差があり、休暇なども格段の違いがある。従って図書館の事務員は一時的な腰掛けであって、教員の欠員があればそちらへ移る。いや、当初には学校側でも卒業して教員への道の一時期を図書館の事務員としたこともある。その初期の形体は既に田中監督時代にもあって、数々の有名教授になったことは前述した。それが後にはより明確になる。大正十一年から十四年まで図書館事務員で、その後普通部、高等部の教師になり、戦後大東文化大学教授になった田中千代松の回想に「恒松君は仕事の山を傍に積上げておいて、せっせとアメリカの史学者ビアードの著書を翻訳していた。私もひとしきり分類の仕事をしては自分勝手なことをした。」と恒松安夫の仕事振りを語っている。恒松は大正十一年から十二年にかけて図書館事務員で、普通部、予科教員を経て、戦後郷里島根に帰って知事をした。回想ではこうもいっている。「学校ではわれわれを大学助手に準じてみていてくれたようだ」(田中千代松教授古稀記念論文集)事実、図書館の事務員は大学教員の予備軍であった。それは後にも数々出てくるであろう。図書館事務員を短期間でやめない人も多くは教員を兼務していた。慶應義塾内の中学や夜間学校に教えた。図書館で事務員専任で終始した人は余程の変り者か、特別の事情のある人といってよかった。慶應義塾図書館においては図書館の主軸をなす事務員はこのようにして遂に図書館の専門家になり得なかった。

 雇員は大学を卒業しない人がなって、事務員より給与が少なかったので時間外勤務手当や日曜出勤手当、筆稿料などを余分の収入としていた。そして勤務年限が永くなると事務員に昇格した。この中には修練によって狭い職域での熟練者を多少出した。

 事務員雇員がこんな風であったから、格段の学識と先進諸国へ留学した経験を持つ監督が思うままに腕を振えたのは当然であったろう。図書の蒐集も運営の指導も監督の手に握られていた。主任と名のつく事務員も独自の識見を待つ程の成長は期待できなかった。もっとも、戦後の昭和三十年代になると教員になるコースが確立して、事務員が教員になりにくくなった。また図書館側からも腰街け事務員の不経済を悟って、純粋の図書館員を養成しようとしたから、事情が変って来る。義塾内に図書館学科が持たれたことも、専門職化の過程を一層明瞭にするに役立った。しかしそれでもなお、館長には教授がなり、その交替により図書館のイメージが変る力はまだ持ち続けていた。

 慶應義塾図書館の監督は初代田中一貞、次で占部百太郎、小泉信三、高橋誠一郎、五代から館長と名が変って野村兼太郎、高村象平、前原光雄、佐藤朔、高鳥正夫と続いた。これらの人は慶應義塾に育った粒よりの人材であって、或は塾長になり、塾長候補に押され、理事になるなど、義塾の責任ある地位に坐った人達である。図書館在任中は時に応じての機敏な対処と、それぞれ持味を生した分野の開拓をした。真に後から回顧してこれらの人を見ると、バラエテイに富む構成だったように思える。次節から占部百太郎監督時代に入る。


第四章 大地震から戦争へ

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一 二代監督占部百太郎

 大正十年田中一貞の急逝による監督の欠員は十月一日付を以て大学法学科教授占部百太郎が任ぜられた。何故占部が選ばれたかは推測だが、図書館の相談役の中での年長者であったからであろうか。占部は福岡県遠賀郡出身、明治二年生れである。二十八年慶應の大学部文学科卒であったから、田中より一年先輩であり、年齢は三歳も上であった。学生の頃より文筆に親しみ、新聞記者志望で、時事新報、日本新聞などの記者の経験もある。三十二年大学教務掛になり、慶應義塾学報編輯主任を兼ねた。四十年には大学予科教授、四十四年文学科教授になり、同年八月より大正二年三月まで英国に留学した。ロンドンでは高橋誠一郎と同宿したこともある。筆まめな高橋は「私の一番長く居った家庭はウエスト・ハムステッドのスチーアという老建築師の家であった。此の家には板倉卓造、浜田精蔵、伊藤重郎などという塾員が私の以前にペーイングゲストとして滞在して居り、私の後には占部百太郎氏が可なり長く宿泊して居られた」長男は南阿戦争で死に、次男は会社に勤めていた。メーブルとリリイと呼ぶ姉妹がいて、姉はショップガール、妹はタイピストであった。インテリの妹娘は何年か前に日本に帰った板倉に尊敬の念を持っていたが、占部は無学だが善良な姉娘に心をひかれていたという。(「王城山荘随筆」)当時の英国は日英同盟の最中であり、欧洲の覇権を握って進取の気象に富み、占部はその国民性を愛した。帰国後は文学科教授として「西洋史」を、政治科教授として「英国憲法史」を講じた。

 占部が図書館監督となって初めての仕事は図書館相談役会を開くことであった。十二月十日烏森の古今亭で晩饗を共にしながら、今後の運営と協力を懇請した。当時の相談役は幸田、西村、沢木、三辺の外、占部の後任として田中萃一郎、それに鎌田塾長と石田幹事が陪席した。その時の内容は記録がないのでわからないが、其の後の様子から察するに、前監督の方針を一先づ踏襲するということであったらしい。月次展覧会、図書館年報の継続である。展覧会は大正十一年二月に基督教に関するものが行われた。年報は大正十年度が一回出された。尤も展覧会は別に経済学会と共催して十二年六月「アダムスミス関係経済学文書展」が開かれた。これらの打ち切りは館員にその人が得られなかったことにもあろう。月次展覧会は前述したように洋書係で内藤鳴雪に風貌が似ていた老功な竹内忠一が止めたのが打撃となった。後任の卒業したての洋書係村岡省五郎では荷が重すぎた。年報は目録編纂にかえられたが、何しろ占部の監督任期は大正十年十月から十二年十二月までの二年であったから、完成を見ずして監督をやめた。

 年報を目録編纂―その第一着手として洋書目録が選ばれた―にしたのにも、年報の発行が極端に遅れたことにも原因があった。大正十年度のが十二年五月やっと日の目を見た。年報は速報性も加味するものであるから、極端な遅延は実用性を薄める。その上、年度毎の目録の発行には索引を別に作らざる限り、不便である。そこで洋書分類目録作成事業が初められ、洋書係は二名に増員された。村岡は秋田の人で郷里が近いことから田中監督に知られた。大正八年就職したが、文学科でカントを専攻し、元々教員志望であった。大正十年「智識の問題」という著述を出して評判が良く、十一年教員になった。後任はこれも教員志望の、前述した恒松安夫であり、田中千代松は少しおくれ就任した。東京都大田区の出身で十一年の理財科卒、学生時分に三田新聞に入っていたのでその会長をしていた占部に知られ、すすめられて採用された。田中は別に教員志望ではなかったそうだが、恒松を見習った仕事振りで、そして尚、恋愛の熱病にとりつかれていて仕事に精を出せなかった由である。目録原稿は中々はかが行かなかった。洋書目録の序文にもいわれているように、図書の増加の甚しきことや、震災という大事変があったことの外に、係の異動の烈しさも遅延の一つであった。恒松は十三年に教員になり、後任は平井新であり、田中も十四年に去り、後任は加藤元彦であった。平井、加藤は次代監督小泉時代に入る。

 占部監督が企劃したものに英国のブルー・ブックとハンサード版パリヤメント・デベートの注文がある。この大部の図書の注文は占部の収書態度から来ていると思われる。「書籍を買入れるについては一定の態度といったものを定めているのです。私の専門とする西洋史、殊に英国憲法史に関して一定のシステムを樹てて買入れるのです。然も第一流の著書、即ちスタンダードウォークは必ず集めるのです。…要するに幾ら沢山本を集めても第二流、第三流の本でしかもばらばらでシステムのない集め方では書斎の権威というようなものがないと思います」(三田新聞昭和十二・一)これは個人の収書を述べたのだが、以上の大冊の注文は図書館における彼の方針をズバリ表明せるものであろう。ブルーブックは型が大小あり、厚薄も様々で、当時の図書館員には扱いかねるもので、極少部分が整理され、閲覧に供されたが、大部分は未整理のまま、二年放置され戦災に遭ってしまった。誠にもったいない話である。

 占部監督時代の寄贈の主なものには、大正十年に島村久遺蔵洋書の二百六十余冊、十一年には新井由三郎の漢籍―上海の石印本などが主である―九千二冊余冊がある。新井本は先き寄贈された伊東希元の漢詩書と併せて、漢籍の充実を実のらせた。但し既蔵書と重複本がかなりあったので、寄贈者の同意を得て、重複本の塾内教職員への入札売りが行われた。重複本の入札売りは書庫の狭隘と共に、其後も数回行われたが、これが最初である。図書館の洋書係から待望の教員となった村岡省五郎は猛勉強と大酒のたたりで翌十二年二月急死した。そこでその遺蔵書四百三十二冊が寄贈された。勿論専攻のカント哲学に関するものが多かった。特殊なものでは竹越与三郎が日本経済史著述の際に使用した田制に関する資料が同年寄贈されている。震災後には江守善六所蔵の和装本千五百余冊の寄贈があった。江守家は徳川時代から続いた質屋の元締という旧家であるが、その子息が塾の教員をしていた縁故による。江戸の市井の雑書が多く、神道に関するものも含まれている。

 占部監督のときの最大の出来事は大正十二年九月一日十一時五十八分の関東大地震であろう。図書館は大いにゆさぶられ、地震に弱いという煉瓦造りの欠陥を暴露して各所に亀裂を生じた。殊に八角塔と本館の継ぎ目や記念室側の壁がひどかった。書庫も書架が倒れ、本も床に落ちた。けれども休暇で閲覧者も少く、館員も昼飯直前のことであったので、建物の破損などによる人体への被害は全くなかった。ただ一人、事務員の伊達良春は地震で建物の外へ飛び出し、余震で建物の揺れ動くのを見ながら後ずさりして、石垣から下の道に落ちたという。現在の三田通りに面した東門の前の石垣だから相当高い。今であったら大怪我をしたろう。道も石垣と道の間の溝もコンクリートで堅められてあるから。ところが、その頃はまだ鋪装されず土だったので小さな怪我ですんだ。伊達は旧仙台藩主の息子、祖父は維新に活躍した宗城である。明治四十二年法律科卒で、大正六年に図書館に入った。洋書目録の補助や新刊書の報告など小さな仕事を扱っても苦にせず、頗る応揚であったが、殿様風の抜け切れない面もあった。小泉信三が塾長になって或る日、図書館に来たことがあった。玄関の広間ですれちがったとき、伊達が急に塾長の襟をつかんで激怒した。襟をつかまれた人も、そばにつき添っていた人々も何で突然怒ったのか、訳けがわからなかったが、小泉は四十三年政治科卒業で、自分の方が一年先輩であるのに、すれちがっても挨拶しないのは怪しからんという伊達の言い分であることが後でわかった。弟には満洲で馬賊になり、満洲国建設後は高官になった伊達順之助がいる。変った兄弟である。

 地震後、東京の各地に火災が起きて避難民が続々、三田の山へ上って来た。火災ばかりでなく、津波があるからと警官が三田の町民を山に誘導したそうである。図書館初め、塾監局、大講堂などの煉瓦造りは亀裂のため、危険なので、避難民は木造校舎に収容し、一時は八百人を越え、教務係が主となって救護に奔走した。二日の朝、丘から下の街を望むと新橋方面から金杉へかけては火の海で、漸次近寄って来るけはいが見えたが、異様な風景は人家の屋根や物干台に赤い布がひらひら翻っているのが見えた。女の腰巻を火の神は忌むというので、竿の先にそれをしばりつけたのである。汚れたものほど効顕があるとのいい伝えであったそうだが、こうした風景もこれが最後であった。二十五年後の戦災に見舞われたときはもう屋根の紅旗を誰れも見なかった。もっとも婦女子の風俗も変っていたからでもあろう。

 避難民ばかりでなく、罹災した時事新報社は塾内に仮事務所を設け、二日には戒厳令が敷かれて高崎歩兵第十五聯隊第二大隊本部が山上に置かれ、又文部省も芝出張所を塾内に置くという風で、山の上の建物は一応無事であっても、この有様では授業が出来ない。やっと十月八日大学及び専門部の授業が初まることになった。図書館も同時に開いたが、学生に罹災者もあり、地方の学生は下宿を得ることが困難な状態であって、満足に行われたとは思えない。図書館では十月二十七日、外壁にひびの入っている記念室へ館長以下事務員、雇員が集って当面の対策を協議した。集った人達は占部監督、安食主任、笠原、佐々木、楠山、恒松、田中、伊達、岡崎(義元)、高橋(秀明)、国分(剛二)、山木、小池(益郎)、古田(三七郎)の十四名で日誌によれば

 「占部氏より左記の報告並に決議をなす
一 電車開通時間延長につれ、開館時限八時半、九時と次第に延長の上、平時に復すること
一 目録は印刷所焼失の為め一時頓挫せるも、原稿はひきつづき作製のこと
一 笠原氏補助として伊達氏執任の事
    右終って雑談 四時散会
一 焼失各大学へ図書館利用方慫慂せしこと」

 とある。

 図書館を焼失した各大学へはその前日の二十六日付で、見舞と共にその大学の教授のうち希望者には、塾図書館の図書を自由に借覧させる旨を通知した。これに対して東京商科大学長佐野善作、明治大学学長富谷しょう太郎、専修大学長相馬永胤、東京帝国大学からは経済学部長矢作栄蔵、法学部長山田三良、文学部長三上参次各々から感謝状が来り、図書館利用の件に対しては教授に夫々伝えるから、出頭の節は何分しかるべく御取り計い願いたいとこもごも記されてあった。卒先して利用を慫慂した行為には余程の感銘をあたえたと見え、其後、塾図書館の八角塔の亀裂が大修覆を要することとなって、工事が初まるのを知って、東京帝国大学図書館では山田珠樹の名で五十円の見舞金が送られて来た。しかし震災後の混乱は学者の心も落著かせなかったと見え、塾の図書館へ顔を出した他大学の教授は少なかったようである。

 大地震による慶應義塾の損害は十月十五日の調査によると総額三十四万七千円に達し、そのうち図書館の建物の被害は十二万円と見積られた。そこで十月二十三日の評議員会で復旧事業費拈出のための塾債三十万円が募られる。一口五十円、利足年五分、但し一年間は無利息、償還期間は七年据置きで、以後年々十万円づつ抽籤で償還することとし、十年完済の予定であった。この募集及びそれにつづく義塾復興は大事業であるので、首脳陣の一新が図られた。占部が図書館監督の二年間に永く塾長を勤めていた鎌田が文部大臣になるので十一年六月辞めた。後任は一時門野幾之進がつとめたが、十二月福沢一太郎が正式に就任した。翌十二年九月の大地震による彼害の復旧には強力な人事が必要とされた。十一月林毅陸が塾長となり、翌十二月理事に占部があげられた。占部は後年の回想で、理事職は激務であったと語っている。従って図書館監督は別人に譲らざるを得ない。

 選衡の結果、翌十三年一月小泉信三が監督になった。小泉が選ばれたのは何故だったろうか。小泉はこれまで図書館に関係がなかった。相談役にもなっていない。小泉が監督に選ばれたのは、多分小泉の父が元塾長であり、義塾当局にも評議員達にも名が知れていたからであろう。小泉が塾長に選衡されたときも、多分そのような事情だろうとは小泉自ら後に述懐する所である。小泉の監督は大正十三年から昭和八年十一月まで十年間続いた。

 占部の其後を略述しよう。理事は昭和三年十二月まで続いた。その間、大正十五年高等部主任となり、昭和五年辞した。理事退任後は文学部教授として西洋史、特に仏蘭西革命の話が得意であった。仇名は「ゆるふん」、人柄は学者的で、事務的なことには不適であった。理事の職が自ら語るように激務すぎたのか、晩年はひどい神経衰弱にかかった。十三年四月休職し、十五年三月慶應から去った。そして二十年三月五日慶應病院の精神病棟で歿った。終戦間際で物資が極端に欠乏し、死体を収容する棺桶が葬儀屋にもなかった。やむなく書斉の書棚の板を使って棺桶を作った。占部は図書を愛し、蔵書家として定評があったので、その本棚の板の中に納ったのは寧ろ本懐であったろうと、会葬者は話し合ったとのことである。

二 三代監督小泉信三

 小泉信三は明治二十一年五月生れ、父信吉は慶應義塾で福沢に学び、二十年私立で初めて大学部創設のとき塾長となり、三田に住居した。従って小泉は慶應義塾塾長の子として三田の丘の上で生れた。慶應義塾における名門といわざるを得ない。父信吉は学生の騒動があって二十三年三月塾をやめたが、二十七年十二月信三六歳のとき急逝した。信吉は横浜正金銀行の支配人であったので、横浜に一家は住んでいたが、福沢にひきとられて再び三田の福沢邸内の一棟に住んだ。福沢の歿ったのは三十四年であるから、信三はまだ十三歳であった。福沢のいるうちは三田の丘から、丘下の御田小学校に通っていたが、福沢が死んで御田小学校をやめ、慶應の普通部二年に編入されたというのは、まことに奇妙である。何か福沢に考えがあってのことであろうか。普通部から大学予科へ、予科から政治科へ、慶應義塾の一貫教育の道を順調にたどった。この間、庭球のチャンピオンとなり、当時その方面では慶應に小泉ありと知られていた。

 政治科に進んだのは福田徳三教授の講義を確実に聴けるからだそうで、四十三年卒業して教員になったのも福田の推輓による。四十五年九月留学の命をうけ、大正五年三月帰国した。留学中の勉強振りは同時に英国にいた、後年の水上滝太郎の小説「倫敦の宿」に多少脚色はされているが登場しており、小泉自身も晩年好んで随筆を書いたから良くわかる。初め独逸の伯林大学に学び、第一次大戦勃発のため退去して、ロンドンのケムブリッジに学んだ。そして円形の大読書室のあるブリチシ・ミュウジァムに通ったという。毎日坐る椅子もきまっていたそうである。帰国の前年にはパリのソルボンヌ大学でも聴講した。帰国後、一年程病気で静養したが、回復後は精力的に勉強し、社会思想史の講座を担当した。震災を鎌倉でうけ、東京へ還って十三年の春から麻布に住居した。この頃が小泉にとって学問がすすみ、生活に張りのある楽しい時代となった。「麻布の洋館には春から秋の末まで数ケ月しか住まなかったが、私としては、その頃が最も自由な楽しい大学教授時代であったように憶い起こされる。その時、私は年は三十六で健康にも漸く自信ができ、そうして慶應義塾の方は、一週数回の講義と研究指導をすれば、それ以外には何の義務もなく、社交も未だ忙しくなかったから、毎日好きなこと許り出来るような身の上であった。実際、その頃、私は学問のコツというようなものが分りかけたように思う。頭の中にはテエマがいくらでも湧き、読んだり書いたりすることは、少しも苦にならないような気がした」(「わが住居」新文明昭和31・11)

 この十三年一月に小泉は図書館監督になったのである。図書館の歴史からいえば、大震災後の後始末と占部が計画して突如身を引いた仕事を引継がされた格好となり、定めし気の重いことと思われるが、図書館のことはこの文に少しも触れていない。この文章ばかりでない。小泉全集は膨大であるが、慶應義塾図書館に関する記事はいたって少い。図書館を利用した記事は二三見られる。学生の時、福田ゼミで洋雑誌を大量に借り出し、その中の論文を分担して読まされたことや、留学から帰って病気療養中、新築の図書館の本をせっせと読んだことなどは回想しているが、監督時代の思い出は、僅かに中国で共産党資料を買って図書館に納めた記事にカッコして、当時図書館の館長であったと記入しているばかりである。

 図書館の監督という職務はそれ程苦にならない、容易いものなのであろうか。その閲歴を見ると図書館監督時代が、学者として最も油の乗った時代であって、「近世社会思想史大要」「マルクシズムとボルシエヴィズム」「リカアドオ研究」「マルクス死後五十年」などの代表的著作が次々と発表された。そうした学問上の華々しさに比べて、図書館監督などの地味な仕事は後年の回想からは忘却されてしまったのであろうか。小泉の「私の履歴書」を見ると「ところが私はこうしてゆっくり読んだり書いたりしていられない身の上になりました」それは昭和八年十一月に慶應の塾長になったからである。「ゆっくり読んだり書いたり」した時期が図書館監督を兼任した時にあたる。思い出すのは前の占部監督も図書館を去って理事となって、初めて激務についたように述懐した。ところが田中監督のときはそうでなかったらしい。慶應義塾創立九十年祭のとき、義塾物故者慰霊祭に参列した田中一貞未亡人は図書館に立寄って、田中監督を偲ばせるものが何一つないのを不満とされ、「田中は身も心も図書館の仕事に捧げた」と語られたが、どうも其処には大いな相違があるように思える。図書館の創設期には身も心も打込まねば出来なかった監督の仕事も、建物が出来て軌道に乗れば、それ程、苦にならない役目であったのかも知れない。いや、建物やその他の障害があっても、学校の財政的基礎が堅固であるかぎり、監督は重荷にならない。監督の努力は予算を獲得して良き蔵書の充実を期せば良く、蔵書の選択権を握っていることは、学者としては寧ろ愉快な仕事であったと思われる。学部長などで教授間の調整に苦労するよりは、図書館で教授側から図書の買入れを頼まれ、購入すれば感謝される。配下に良き事務員がいれば楽しき役職であったのかも知れない。

 また次のようにも考えられる。図書館の学校内における重要性が極めて低かった。大学における講義は学生の図書館利用を必要とせず済ますことが出来た。次代監督高橋誠一郎は昭和十三年四月の東京朝日新聞に「詰まる所、我が国人の間に読書慾乏しく、図書館利用の要求少なきに由るものであろう。啻に一般人士のみならず、最も読書と研究の暇の多い大学生の間においてすら、図書館利用者の少ないことは真に驚くばかりである。大学図書館の閲覧室が満員となるのは、一個年を通じて学年試験の前ばかりである。この時期に図書館の閲覧室を利用する者の多くは、勉強の障碍の多い家庭や、下宿の自室を避けて邪魔の少い場所で、静かに教科書やノートの繙読をしたいという慾求に駆らるる者であって、彼れ等の中には一冊の参考書をすら借出していないものが、かなりある。」といっている。卒業式の日、卒業証書を手にしておづおづと図書館の受付にきて、内部を見せて下さいという。「一度も利用しませんでした。だが国へ帰って話の材料に困りますから」と、笑い話も繰返されておこる。また教授達も当時は私蔵書の多きを以て誇りとし、図書館の本を利用することは比較的少なかった。これは収入面の差違であって、この節の教授達とかなり違うところであろう。だから図書館は慶應義塾の看板だといった人がいるが、それはなまけ者の極言ではあろうが、大局的にいってそうであったかも知れない。美しい建物に、豊かな蔵書、価値ある貴覯書の保管が大学図書館であった。それは何も慶應に限らない、当時の大学図書館全般の傾向と思われる。

 閲覧者―特に学生に対する閲覧利用への努力は少いといってよかった。大雑把にいって大学図書館は研究図書館が主であったから、学生の閲覧は従であった。けれども利用する者は多くの中の僅かな人数ではあったが、殆んと常連であって、その中から優れた学者や人材が輩出した。「学生のときの私は図書館を多く利用した方です」「毎日のように図書館へ行って特別の便宜を図って貰いました」という老教授もいる。自分は懶けものだったので授業には出ないで図書館へ通ったという小説家もいる。野坂参三なども利用した方である。社会主義に関する和書は禁閲だったが、洋書は自由に読めたといっている。高学年になって卒業論文には入りびたりになる学生もいた。図書館へ行けば必ずいた主(ぬし)みたいな学生も多く数えることが出来る。図書館の図書の利用廻転に汲々とし、そうでない図書館は倉庫だときめつける人もいるが、図書館の倉庫時代も確かにあった。図書館員のいわば精鋭といわれる人は事務室にいて、閲覧台には給仕の外は、出納の仕事を監督する人がいれば足りる。学生が図書を探すのに相談する人もなかった。書庫に入れる教職員は事務室を通らねば書庫へ入れなかった。そこには事務員の多くの目がある。書庫の入口には館長名で、図書館の図書は慶應義塾の貴重なる財産であるから大切にして呉れ、という意味の文章が張られてあった。財産とあるからには一冊もなくしてはならない。館員はその財産を守る番人だという気分もあったことも事実である。しかしいやがる学生の首を押えつけて無理に図書を読ませるのがいいのか、講義だけに満足しないで自発的に読書を楽しもうとする学生に、ゆったりとした気分で勉強させる図書館がいいのか疑問である。しかし教育という以上、英才ばかりにかたよれない。読書に興味のない学生にも興味を湧き立たせる努力も必要であろう。どつちが優れているとはいえない。両方とも必要であろう。概して図書館の発達の初期は収書が中心であって、利用への努力は収書努力に一応の基礎が出来てから活発になる。

 小泉監督は自身何も語らないが、在任の十年は図書館史でも忘れ得ない数々のことを残した。小泉は教授兼任の片手間仕事であったが、今日から見て監督としての功績は没することが出来ない。それを探念に発掘して行くこととしよう。

 小泉監督の仕事には大きく分けて三つある。一は占部の残した洋書目録の完成であり、二には地震による災害の復旧と新書庫の増設、三には図書館蔵書の大幅なる充実である。監督に就任すると相談役会が先づ持たれる。ところが、初期の頃の相談役会の記録が見当らない。僅かに昭和三年十二月築地の錦水で行われた記事がある。それによると人数が大分増えている。三辺金蔵、幸田成友、占部百太郎、西村富三郎に加えて、西本辰之助、高城仙次郎、舟田三郎、伊藤吉之助、川合貞一、小林澄兄が呼ばれている。会は年末の慰労会に等しく、平生どんな諮問をうけていたかわからない。恐らく図書選定の助言位にとどまっていたのであろう。

 館内の事務員・雇員合同の事務打合せの相談会は、昭和二年二月から毎月聞かれ、二年程続いたが先細りして消えた。小泉監督は努めて館員に接触しようと事務員の食堂へ屡々顔を出したりしたが、古くからいる年老った人々は敬遠する傾があった。この頃のメンバーは就職の古さから云うと佐々木、岡崎、山木、安食、伊達、片倉(明)、楠山、国分、柳沢(徳鄰)、小池、高橋、加藤(元彦)、大村(武雄)、橋本(勝彦)、吉岡(紀道)の十五名で、安食が事務主任で、田中監督と同じ山形県鶴岡の人であることは既述した。この外に岡崎、国分、高橋も同郷、その他も田中の恩雇を蒙ったといって良い人々で、年齢は小泉監督より上か、或は同じ位であった。これらの人々は団結というと大げさだが、気が合っていたので、他からは「荘内閥」などど蔭口された。

 そこで小泉が頼りとしたの若手の事務員達であったようだ。それらは

田中千代松理財科卒大正十一・五〜大正十四・四普通部教員へ
平井新理財科卒大正十三・四〜大正十五・四高等部教員へ
加藤元彦独文科卒大正十四・四〜昭和十・四予科教員へ
大村武雄文学科卒大正十四・四〜昭和五・十退職
橋本勝彦高等部卒大正十五・四〜昭和十二・四高等部教員へ
三辺清一郎理財科卒昭和五・二〜昭和廿一・一退職

で、大学を卒業したばかり、年齢も十年程下であった。教員志望であったから短期間でやめ、既に在任中教員兼務の人もいた。これらの人々を小泉は自宅に呼んだり、木曜会と称する集合に参加させたりして歓待し、彼らからも信頼をうけていた。

 洋書目録は彼らの手によって完成された。占部監督当初の計画では大正十五年完成を目標としたが、原稿作成に従った恒松、田中、平井は次々に教職に去り、加藤、橋本、大村らが印刷に関係した。印刷所は震災後のこととて適当なところがなく決定が遅れ、京橋の三豊社と定まってからも、図書の校正に手間取り、又収蔵年代も二年延長の昭和二年迄としたため、原稿に加筆が多く、これも遅延を増長させた。その苦心を加藤は「何しろ大部の図書目録なので随分苦労しました。最初はこれ程の難事業とも考えておらず、短時日で出来ると思っていたのが、こんなに五年もかかり、頁数も予想の二倍にもなったのです。一番苦心したのは校正です。日本・支那を除いて凡百の国の言葉が出ているので、普通の書籍雑誌の様に簡単には行かず、中には五校、六校まで取ったのがある程です」(「三田新聞」昭和4・12)と語っている。

 発行は昭和四年十二月二十日。体裁は菊版、表紙はクロース張で、前面には図書館玄関正面の窓にペンの徽章を組合せた図案を金で入れたもので、本文は千七百一頁、索引二百十五頁の大冊となった。収録冊数五万、本文は分類目録で、同一分類の中は著者名順であった。索引は著者名よりする。金文字を入れた背皮製で上製で二百部、背が表紙と同様クロース製なのが並製で五百部造った。塾教員や有力者に配布したが、市販は価格七円であった。目録は評判が良かった。小泉宛の福田の手紙(小泉著「学窓雑記」)に

 「此度は新刷図書館目録御恵送難有御礼申上候、顧れば第一回の目録の時より第二回の目録を経て此度の大目録に到る、実に隔世の感あり、而して○○の目録すでに古く、××の目録は極めてみすぼらしき著者別のものに過ぎず、我邦における洋書目録の最大最新なるものが学兄の下において完成せられ候事、慶祝此上なき事に御座候、これに付ても田中一貞君と東野利孝君とを追懐するを禁じ得ず候、さるにても義塾が此の大事業を成就し、其経費を甘諾し、また助手諸氏が献身的に働かれたる様想像に余あり、一面美しき協力の結実として我々の意を強するに足り申候…分類は田中君時代のものを其侭引つがれ候様拝見仕候、存外無理少く出来上り居る様に存候、誤植などの見当らざるは嬉しき限りに御座候」

 福田徳三は昭和五年一月十七日慶應病院の中から、贈呈に対するこの礼状を書いた。「我邦における最大最新」のものと褒め、ゆくりなくも慶應義塾の教授であった頃の図書館の人々のことを回想している。福田は終りに「大したことではありませんから、必ず必ず御見まい下さらぬ様願上ます」と記したが、同年五月八日病歿した。田中監督時代の項で述べたように、教授の中でも福田は図書館に関心が深かった。図書を推薦したり、分類にも興味を持ったり、或はうるさ方に属したかも知れないが、図書館贔屓であったことは確かである。最後の病床にこの目録が送りとどけられたことは幸いであったといわねばならない。

三 建物の復興と新書庫

 小泉監督が就任して間もなく記されたと思われるものがある。岩波書店の便箋に

 「一 大学学生数及び授業料収入と図書購入費額との比例を調査すること
 一 応急危険予防設備をなすこと(緊急を要す)
 一 書庫増築と本館修繕との先後の得失を研究すること
 一 館内売店の位置及び学生出入口に関する件」

と記されてある。当時の事務主任であった安食使用のノートに挿み込まれていたから、安食に手渡されたものであろう。小泉がさし当って為すべきこと、知っておくべきことのメモと思われるから、以下これに従って記述して行く。これに対して安食がどう解答したかはわからない。ただそのノートに他の大学図書館との比較が記されているのは、それに対する検討が重ねられていたといえる。例えば大正十三年立教大学調査という表がある。

各図書館蔵書数及購入費其他

和漢書洋書図書購入費一日ノ
閲覧人
生徒総数に対す
る閲覧人の割合
備考
立教 二、八一〇 一七、二四〇 二〇、〇五〇 九九〇円 五〇人 六・六七
早稲田 二二五、〇〇〇 七三、一〇二 二九八、一〇二不明 一,〇〇〇 三・三七
慶應 六九、一五五 三七、八五六 一〇七、〇一一 一〇、〇〇〇 二五〇 四・一七閲覧人の多き時は
七、八百人あり
商大 一一、七七三 八七、二七一 九九、〇四四 二二、〇〇〇 三〇〇 二・〇七
法政 四、九七九 五、五〇〇 一〇、四七九 五、〇〇〇 一〇〇 四・七〇

 図書館に関する統計が不備であった当時では小泉監督の要求されるようなものを完全に示すことは困難であったであろう。以上の表は学生数、授業料がわかっていれば、その比例を見つけ出すのに幾分の貢献は出来たであろう。こうした数字上での他館との比較は安食ノートに屡々記されている。特に早稲田大学図書館との設備上の比較は丹念に行われている。小泉監督の念頭には他館との対比が常にあって、安食に諮問する。これは多分その準備だと推測される。

 第二項目以下は安食の用意した資料が見つからないので、其後実施されたことから推測するより仕方がない。大震災による建物の損害は約二十万円と見積られたが、亀裂を生じたのみで倒壊に至らなかったので、その部分の応急措置で当座を弥縫することになった。十三年三月の評議員会で震災に因る建物応急仮修繕工事費四千三百五十円が可決され、十四年にかけて修覆が行われた。その間二つの予備室を閉鎖し、大閲覧室も三分の一が使用を禁ぜられた。前述したように地震による被害は建物の向って右側に被害が大きく、書庫及び書庫寄り方は堅固であった。従って以上のような措置がとられたのである。予備室の閉鎖は展覧会の開催を不可能にし、閲覧室の縮少は試験時の学生に不便をかけた。

 応急修理の実施中にも、この建物の永続が可能かどうかの精密な検査が行われたらしい。検査の結果如何によっては今のを取毀し、全く新しい図書館を建てねばならぬかも知れない。その時、どんな建物が良いか、研究しておけと小泉監督は加藤事務員に語ったという。加藤の回想によると「私はすっかり興味をもって、外国の材料なども参考にして相当大きな夢を持ってプランを考えた。経済上、最初から大きな物が無理ならば逐次増築が可能であるようなものであること。財政上決して豊かでない私立大学であるから、図書館と研究室とが同一の書籍を何部も買うことは無駄なことであると思われるので、両者のつながりに十分な考慮を払うこと、これなどが私のアイディアの二三であった。しかし幸か不幸か、鉄骨を入れれば修復可能という結論が出て、書庫一棟増築することでこの夢は消えてしまった」(三田評論六五二号)

 書庫増築の必要は小泉監督就任の初めから考えられたことらしい。創立五十週年記念図書館は竣工当時、蔵書二十万冊を入れうるといっていたが、実際に使用して見ると書庫延坪三百三十八坪四合で、収容冊数は十五万冊と数えられた。そして小泉就任の頃の蔵書は十二万冊を突破している。新書庫増築は不可欠とされた。田中監督は新図書館の設計に当って、一時に大書庫を造るの不経済を説き、図書の増加と共に書庫を拡大し得るよう、その余地と設備を考慮されていた。田中時代は書庫に隣合せる西側には木造の寄宿舎があり、北側には旧幼稚舎の木造建築があったが、それらを取払って第二、第三の書庫を造ることを考えていた。ところがそれから十三年たつと、建物事情が一変した。図書館の西側に万里の長城のように連らなっていた寄宿舎は広尾へ移転してなくなり、その跡は西からいって大正七年竣工の木造二階建の医学科予科校舎、つぎに大正九年落成の鉄筋コンクリート三階建の大学予科校舎とが建ち、予科校舎と図書館の間に十間の空地が残されていた。その空地も大地震による塾監局の煉瓦建物が使用出来なくなった影響で、鉄骨組立式の仮教室、平屋建七十四坪が十三年四月作られた。だがこれは何時でも取払うことが出来た。旧幼稚舎の木造建築は白亜館と呼ばれ、学生のホールになっていた。極端に古くなって、学生が上下するたびにきしむような音をたてた。これも毀そうと思えばいつでも取り除けた。蔵書充実に熱意のある小泉監督は是が非でも新書庫の増築を実現したかった。

 書庫増築案には二案考えられた。第一案は仮教室を取払って、鉄筋コンクリート建、張り煉瓦、四階に、地下室及天井裏を設け、外観は是れ迄の書庫に並び同一であった。地下室も天井裏も書庫にして延六百坪、収容冊数二十五万冊とする。第二案は鉄筋コンクリート建五階に地下室を設け、外形は予科校舎と同様のものとし、将来上階に二層増築し得るよう基礎工事を堅固にする。七階完成の上は延坪が現在書庫と同等となり、優に十五万冊を入れ得るというから、この第二案は地坪五十坪である。思うに仮校舎はその侭にして学生ホールを毀して建てる案であろうか。従って外観も裏側だからということで粗末にしたのかも知れない。しかし結局縮少された第一案が採用された。

 書庫増築と本館修繕との先後の得失は、本館の一時的弥縫が出来たので書庫から初められた。大地震による復旧工事のための塾債募集は大正十三年三月に三十四万五千六百円と予定金額を超えたが、実際払込まれたものは二十五万余円と予定に達しなかったので、引続き努力が払われた。その間にも工事は着々と進められた。教室の不足を補う仮校舎、塾監の煉瓦館が全く使用にたえなくなって取毀しのため、演説館の稲荷山への移転、次で大講堂の修築完了、そして現在の塾監局の完成、それは大正十五年九月であった。最後が図書館で書庫増築のための予算は

「一金約八万円也」 書庫増築費概算
    内
  金七万三千八百五十円 増築費 延坪二一一坪坪当三五〇円ノ割
  金五千円 設計及設備費
  金壱千円 予備費及雑費
   計金七万九千八百五十円也」

七年完済の利率年八分五厘の借入金を以てすると、七月二十日の評議員会で可決された。本館の本格的修築もすぐ必要なため十二月二十一日、金十六万円、その支出は塾債残額を主とし、不足分は十五、六年度の経常支出を節約して捻出すると定まった。両評議員会には小泉監督も特に出席し、現状の説明とその必要を力説し、承認されるところとなった。

 両者合しての工事請負入札の結果は、最低見積が清水組の十八万四千九百四円五十銭(附帯工事を除く)であったので、設計の中条技師と精審の結果、清水組が取かかることになった。書庫は翌昭和二年一月四日着工、八月五日竣工した。ゴシック式鉄骨鉄筋コンクリート四階建、地階及び屋階があり建坪五十三坪、延坪二百六十八坪五合五勺であった。外観は田中監督のたてた書庫と全く同じであったが、内面は書庫を広くするために廊下を以て小部屋に区切ることなく、一層一室で、その点、防火に意を用いた田中と考えを異にしたといわねばならない。しかし建築の進歩から、屋根もコンクリート造りでスレートを張ったことは木造屋根の古い書庫と違っていた。

 図書館本館の本格的修築は新書庫の落成をまって、昭和二年八月十九日から着手された。その完成までは新しく出来た書庫が本館の代用に使われた。新書庫は将来再び増築する第三書庫との連絡を考えて、北側の各階に出入口が設けられていたが、その地階が閲覧者の出入口となった。地階に受付があり、食堂、小使室、物置があった。閲覧者は旧書庫と新書庫との間の階段を使って上へ登る。一階に事務室があり、二、三階が閲覧室で、二階閲覧室の壁ぎわにカード目録があり、二階階段の上りフロアに出納台があった。書庫としてたてられたものだから、天井が低く暗い。しかしこれも一時のことと学生もあきらめて文句をいうものもなかった。困ったのはスチームが無いことだった。図書館では火鉢を所々においたが、書庫の構造の上でからか、現在スチームが所々にあっても寒いのだから、堪ったものではない。外套の襟を立てて机にしがみついて本を読んだ。

 本館の工事は八角塔の上半分を切りとって、付け替えるという大工事でほぼ一年かかり、昭和三年八月二十五日に落成した。全く元の通りというのではなく、閲覧室を広くするために出納台の両側の目録箱を予備室に移し、その跡は新聞雑誌乃至特別書の閲覧場所に改めた。かくすることで閲覧室を静かにし、座席も二十四増加し得た。閲覧室の読書机の衝立てに、福沢諭吉の西洋事情や世界国尽し等、代表作の版木をはめ込んで、学生には遠くなった塾祖福沢を偲ばせる工夫をしたのも面白い考えであった。階段にキルクの粉末を加工して音を消したり、便所を汲取式から水洗に改めたのもこの時の変化である。

 学生は図書館の復旧落成の日を待ち望んでいたが、利用されるより前に問題が起った。昭和三年一月から学生の図書館入館手続に変更があった。従来は授業料の領収証と引換えに年間を通じての図書館入館券が渡されたが、学期毎に授業料の納入がないうちは認められなくなった。「当局の心を疑う」と題して三田新聞は「若し大学に図書館が無かったらその価値は半減する…塾当局の無慈悲なる手は貧困なる学生からこの信頼していた図書館を奪い去ってしまった」と非難した。当局としては授業料の未納を防ぐ方法として自然に考えられる手段であった。学生側の不平は尾を引いて、翌四年十一月の予科会主催第一回全委員会にも真先きに採りあげられ、「入館券と授業料を全く切離して、身分証明書あるものには入館券をあたえよ」と提案した。この結末はわかっていない。多分安食主任が三田新聞に「特に貧困な学生に対しては授業料を期日迄に納めなくとも、共済会長増井(幸雄)さんか誰かの証明があれば入館させる」と語ったので、折合ったのかも知れない。その後の三田新聞にはこれに関する記事は全く見出されなくなったから。

 図書館に売店を聞かせて呉れという願は十二年一月十八日からあった。塾出身で北海道炭鉱に勤務していた秋山某が死んで、その未亡人救済のために、元同僚であり当時医学部で会計課長をしていた倉井忠が奔走し、資金は友人福沢桃介が出そうという義侠の企てであった。十二年は大地震があって具体化されず、小泉監督のときになって「入館者及一般塾生のため、売店設置の必要を認む。但し販売品はパン、菓子、牛乳、コーヒー、紅茶類にして現場にて調理煮炊をせざるものに限る。使用人については図書館係員の指定に従うこと。」と好意を持って採り上げられ、その位置が安食主任に諮問された。入館者計りでなく、一般塾生の便宜にもなるようにとの考慮もあって、地階の新聞製本室を潰して小さな売店を作った。新聞は次の広間の一隅に移し、製本は出張して来た製本屋が独立店を持ったので、それに外注することになった。学生の出入口を片寄らせて、館内閲覧者ばかりでなく、一般塾生も利用出来るよう工夫された。品のよい未亡人と小娘が従業員で学生に親しまれた。小泉はそのころ、慶應義塾は男の学校であるから、女子はなるべく使わない方が良い。己む無く使う場合は、胸をドキッとさせない婦人が良いと平生語っていたが、そこへ秋山未亡人が毎日来ることになった。未亡人は四十歳台か、老けて見えたので学生にはおばさんとしか目に映らなかったが、図書館事務員小池益郎にはドキッとさせるものがあって、監督の平生の言葉に似合わないといったそうである。

 そして何時の頃か、ライスカレーが販売品目の中に加えられた。調理煮炊は禁ぜられてる筈であったが、館員と馴染むとなると断わり切れない。しかも営業的に好結果を生むとなると、未亡人の親類と称する男子が手伝いに来て、昭和の十年代になると支那ソバを手がけるという風に拡大された。食堂は戦災で図書館が焼ける二十年の春まで続いた。食糧が戦争で配給されるようになり、売るものが無くなり、しまいには乾燥バナナなどを並べた。すべてが不足していた時代なので、学生や教職員までがならんでそれを買ったりした。

 三田山上の婦人の話が出たので婦人従業員について触れておく。大正八年から十二年にかけて飛川つるえという老掃除婦がいた。毎日書架の棚を次々に拭いていた。婦人タイピストが置かれたのは大正十五年町田はる子が初めであった。又その頃、和漢書図書目録の筆耕に婦人を傭ったので、若い婦人の姿も数名いつも目につくようになった。目慣れてくれば小泉監督の考えも変るものか、だんだん美人タイピストが採用された。昭和初期の彼女達は三田の塾生ばかりでなく、街の若い者からもさわがれた。こうした美人も段々伝説的存在になる。「大したことはない。薬師寺の像に似ていた」などと回顧する人もいる。タイピストもこの頃は英文で、邦文タイプが採用されたのは次の高橋監督時代である。

 小泉監督の図書収集の苦心を語るに先立って、田中監督の力瘤を入れた展覧会のことを述べて置こう。予備室が地震によって使用できなくなり展覧会は永く開かれなかった。それが開かれたのは昭和六年十一月に福沢先生伝記完成記念のためのもので、資料六百余点、大閲覧室を会場に当てた。福沢諭吉伝は大正十二年九月に初まる。福沢晩年の側近であり、文章の上で福沢に最も気に入られていたという石河幹明が編纂主任に選ばれ、図書館内の一室を編纂室にしていた。石河は安政六年生れの高齢で、功程半ばにして眼を病み、視力衰えて執筆に困難する程であったが、一日も休むことなく精励するのを見て敬服せざるものはなかった。小泉は時々室を訪れ歓談し、或る時は休息にと長いソファを贈って慰めた。「小泉の先代(信吉)は少しキザであったが、息子は仲々良い」と石河も小泉を褒めた。展覧会は翌七年五月創立七十五年記念式典に合せて「西洋経済思想史展覧会」が開かれた。同月「百年祭記念ゲーテ展覧会」、翌八年六月には「星亨三十三回忌記念遺書展」が催された。

四 小泉監督の図書収集

 小泉は塾長になってから大学の近況という記事を毎年一回「三田評論」に掲載しているが、監督時代にも同誌の八月号義塾の近状の中に、図書館のその一年を紹介している。この近況によって小泉が図書館で何に力を入れていたかがわかって都合がよい。

 大正十三年八月号には「本館は啻に入館人員の多きを計るのみならず、内容の充実を期し、年々購入費を増額し、教授諸氏の助言により良書の購入に努めつつあり、最近購入の上整理済みのもの、又目下注文を発してその一部到着せるものの中、大部のもの二三を挙ぐれば左の如し」といって、四部叢刊二千冊、道蔵千二百冊、Philosophische Bibliothek,Parliamentary Debates 1066‐1919八百十二冊、十七世紀経済学古文書百冊、Haenisch Bibliothekをあげている。このうち小泉が手がけたものは最後のK・ヘーニシュの蔵書購入である。ヘーニシュは独逸民主党の領袖で、文部大臣を勤めた人である。その蔵書一万冊は主として社会問題関係の小冊子及び雑誌類であって、留学中の加田哲二がこれを吟味し、十三年十月追加予算五千四百五十円で購入が決定された。圧巻はカウッキーの創刊した雑誌「新時代」Die Neue Zeit 1883‐1920の揃などは文献価値の高いものといえよう。パリアメント・デベートは占部監督の注文したもの。四部叢刊は東洋史の講義を持つ学校には必需のもので別に異とするに足りないが、道蔵は道教の一切経で何処の図書館にでもあるというものではなかろう。共に上海の商務印書館から当時出版されたものである。独逸哲学叢書は千八百年末から継続出版されていたもので、この時揃で約百冊納入された。十七世紀経済学古文書というのは根津基金で購入した英国の重商主義に関する文献で、必ずしも十七世紀に限定されていたわけでなく、十八、九世紀のものもある。内容はマリインの「英国の癰」、カルペパアの「利率引下の諸利益を示す一論」、チャイルドの「貿易新論」、ベラーズの「産業の学院」、ダヴェナントの「英国の公収入及び貿易に関する論稿」その他、ピツトやデフオのものなどを含む。

 大正末年、図書館の復旧、書庫増設のごたごたしていた間は、主として雑誌の充実に努めたようである。Revue d'economie politique 1887―Archiv für Geschichte des Sozialismus und der Arbeiterwegung 1911―Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik 1888―Zeitchrift des Vereins für Volkskunde 1891―Entscheidungen des Rechsgerichts in Civilsachen 1880―昭和初年にはKant Studien Zeitschrift für de Gesamte Staatswissenschaft 1844―Bulletin de l'ecole francaiseそれに阿部基金によって保険専門雑誌が数種選ばれた。雑誌でない大部のものにはレクラムの「世界文庫」三百冊が到着した。

 以上が大正末年迄の主な図書購入で、寄贈のものには十三年十一月に和田豊治遺蔵四百五十九冊、十五年十一月に和田三郎遺蔵五百六十余冊があった。特種なものでは法学部学生矢野国太郎収集の十六、七世紀出版のラテン文書籍三十九冊がある。プラトンのラテン語訳集、テレンテイウスの喜劇詩、その他アリストテレス、ホラテイウス、ストラボの書などを含む。羊皮などを表紙に用いた荘重な感じのする大型本である。利子によって図書購入の基金の寄附には十三年三月岩永省一記念一万円がある。範囲を海運・交通に関する図書と限定され、主として増井幸雄教授が選書した。十五年には三神敬長、宮永万吉記念として四千五百余円が寄附され、主として南洋関係文献が選ばれた。基金による最大なものは十五年九月望月軍四郎による十万円であって、それは後述するであろう。

 三田評論の義塾の近況は昭和六年まで続けられたが、其後は編輯方針が変ったのか、図書館の年次報告などは数字のみあげた無味乾燥なものになった。ところがこの頃こそ、図書館の復興も成り、監督としての小泉の最も油の乗った時期に入る。良書の収集には全力をあげた。小泉の最も得意とする社会主義、社会問題に関する図書の収集には、若い助手を相談相手とし、小泉自身が卒先して外国の古書肆のカタログから選択した。昭和五年ベルリンのフーゴー・シュトライサンドへ三千八百マルクで注文した六十余冊の図書にはマルクスのものでは「仏蘭西における階級闘争」「ブルメール十八日」「経済学批判」「巴里コンミューン」など、エンゲルスものには「フオイエルバッハ論」「反デューリング論」「空想より科学への社会主義の発展」「ドイツ農民戦争」がある。その外にはリープ・クネヒトの「カール・マルクス追憶」やリスト、ロック、クリースの古版本なども含まれていた。マルクスの主著「資本論」は第一巻だけの端本であったが、これは昭和七年、全巻揃でスイス書籍販売取次店から購入し得た。

 この方面の文献収集は此処で一纒めにして述べよう。現在共産党の野坂参三は第一回小泉研究会の出身である。中学時代から社会主義に興味を持ち、大学の選択には社会政策の講座があるという理由で慶應へ入学した。留学から帰国したばかりの小泉から英文の共産党宣言を借りて、一日で写し、自身の方向を定めたと語っている。早くから実際運動に入り、獄に入ること屡々であったが、昭和五年眼を病い、治療のため仮出獄した。その費用捻出のために自分の蔵書を図書館に持参して買って貰った。その中にはオーエンの「自叙伝」やブレイの「労働の不当な処遇とその救済策」、マカロック版のリカルド全集、その他カウツキイ、ベルンスタイン、ヒルファデングなどマルクス以後の代表的なもの、英国の労働協同組合史文献、スチルナー、クロポトキンなどの無政府主義文献などの、代表的なものがあった。国分剛二の回想では最後の支払のときには、竜子夫人が姿を見せたという。野坂夫妻が潜行して入露したのはそれから間もないことであったという。本を売りに来たのは野坂ばかりではない。左翼関係の人がよく来た。子供を背負って来る女の人もいた。それらから買うのは東京では大原社会問題研究所か、慶應図書館位であったという。戦前こうしたことを口外することは禁物であった。勿論印刷されたこともない。

 資本論の完訳を日本で初めて出した高畠素之の旧蔵百八十四冊が寄附されたのは七年六月であった。ウイリアム・モリスの「社会主義」ホブソンの「近代資本主義の発展」それに福田徳三自署のある「日本における社会的経済的発達」(独文)などが目につく。マルクスの著書及びその研究に関する英・独書や独逸社会民主党の著作が多いようである。

 社会問題以外で纒った収書を二三あげる。三年にはオックスフオード大学編のEarly English Text Society Publications Original Ser.百三十六冊Extra Ser.百冊が小幡先生記念基金で購入された。英国の古典研究には欠かせないものだが、目録作製が面倒で整理は遅れた。翌四年にはゲーテのワイマール版百四十三冊が購入された。昭和七年はゲーテ歿後百年に当るので、丸善などの洋書店はそれを当てこんでゲーテ本を努めて輸入した。小泉は加藤元彦に「図書館の蔵書は経済に関してはまあまあだが、哲学や文学の方面は見られたものではないだろう。大いに買え」と激励した。事実「少くとも私と関係ある独逸文学書についてだけいって見ても、個人の蔵書と等しいか、それよりも貧弱でないかとさえ思える程であった」という。加藤は思い切って随分買い漁った。小泉は金のことは心配するなと購入した本を見せる度に言ったが、加藤の恩師である茅野儀太郎教授は気が小さくて、ハラハラしながらその位にしろ、いい加減でやめろと気をもんだそうである。ワイマール版はこの時の購入である。ぐんと変ったものに七年から八年にかけて徳川時代の草双紙、合巻類が高橋誠一郎教授の紹介で大量講入された。この頃の和装本の選択は安食主任がやっていたが、間々春本などが含まれるのを見て、高橋は小泉に注意したそうである。偶々、平六堂古書店が京城帝国大学へ草双紙を納入した後、再び集めているという話を聞き、「こんなものがあるが、どうか」と小泉に話したのが実ったもので、本は欠巻の少い、美本揃であった。其後黄表紙類にも及んだが、外題も揃った完全なものということで収集には苦心があった。春本の購入というと何か安食主任が卑しいように思われようが、一と頃風俗資料として収集された時期があったとは、図書館界の古老から聞かされたことがある。

 昭和五年、小山内薫旧蔵、洋四千冊、和漢二千冊、計六千冊が購入された。早大と東京帝大も触手をのばしていたが、水上滝太郎・水木京太の斡旋で塾の手に入った。価格は二万円で、一万円は臨時費として塾当局に支出して貰い、残りの一万円を福沢桃介、加藤武男、小林一三、高橋正彦、朝吹常吉、阿部章蔵、平田篤次郎、松永安左衛門、日比谷平吉と小野哲郎が分担して出した。小山内の永年にわたる近代演劇に関する収集なので、「小山内文庫」と名付け一括し、語学別に和、英、独、仏、其他とし、その中を小説・戯曲・演劇・その他の順にする整理方法を採用した。小山内は演劇の上演の際など、参考に図書を俳優に貸したが、借りて返さぬ者がいて、全集ものなどに欠巻が一冊二冊あって惜まれた。小山内が本を大切にしたことは息子の喬が「父の書斉」という本の中で語っている。偶々近所に失火があったとき、外出から馳け戻った小山内は消火夫が自分の本を二階から投げおろすのを見て、顔をきっとあげて、「投げる位なら本をいぢらないで呉れ」と怒鳴ったという。それ程大切にした本を借りて返さない人がいる。世の中には不徳義な人がいる。図書館の仕事を永くしているとそれに類した人の行為が目について仕様がない。

 昭和六年には堀江帰一蔵書が有志の寄附募集で購入された。また「福沢文庫」が創設された。それは学生の修養団体に養真会というものがあった。今でいえば合気道に類するものであったが、単なる修養団体ではつまらない。思想的バックボーンがほしいということから、福沢研究ということになり、福沢及びその門下の図書の収集にまで発展した。偶々滝本誠一教授が福沢本を多く所蔵していたので、それを貰いうけ、買増すことになった。資金は図書館が出し、集った本は図書館に入れるということであった。収書は東京のみならず、関西まで手を延すことになった。滝本教授が学生をつれて出かけられたが「滝本先生は一緒に行っても、口で古本屋の所在を教え、先輩の家へ行かせたりするが、御自身は一歩も外へ出ない。後で考えると大阪に愛人がおられて、先生はそれが目的であったようだ」とはその時学生でお伴した山本敏夫教授の話である。

 ここで「望月文庫」のことを話そう。望月軍四郎はこれ迄も慶應に数々の寄附をしているので、日吉校舎建設のための寄附を求めるつもりで、昵懇の小林澄兄教授が勧誘に出かけたが、望月はそれにはのらないで支那研究講座の設置をすすめた。望月はその前年中国を旅行し、中日親善の必要を感じ、米国にはハーバート大学其他にも支那講座があって業績を残しているのに、隣国である日本にそれがないのを残念に思い、早大には東亜経済講座創設のため五万円を、慶應には十万円を寄附しようというのである。そこで直ちに「望月支那研究基金規程」が定められ、科外講座、中国語講習、中国視察費補助、中国研究奨学金、中国文献の収集が企てられた。中国に関する文献購入は及川恒忠教授が主任となり選択し、「望月文庫」と名付けて図書館に収蔵した。国民政府の各種公報類や中国の時局物に重点が置かれたが、広東・広西・湖南…といった通志類や袁世凱時代の北京政府財政部編の「財政説明書」など、特種なものも可成り購入した。これらは本郷にあった文求堂書店の協力なくしては収集が出来なかった。時には予定額を超え、借金を重ねたが、文求堂は黙って次々と届けてくれた。文求堂との関係が深くなり、同時に橋本増吉・前川三郎・加藤繁など中国関係の教授の援助もあって「望月文庫」以外にも中国書が多くなったのはこの時期である。「大清会典」四百九十五冊、通典・通志などの所謂「九通」一千冊、「御選四朝詩」百五十六冊などその一部である。京城大学刊の「李朝実録」三百七十六冊も収蔵された。

 かてて加えて昭和八年、中国関係の史籍の多い「田中文庫」が収蔵された。原蔵田中萃一郎博士は塾の誇る東洋学者であったが、大正十二年新潟で遊泳中急逝された。生地は静岡県田方郡函南村であったが、東海道熱海線の建設のため、強制的に買収された土地代金で図書を買い、その蔵書二万に達した。ライデン出版の東洋学雑誌「通報」の大揃など貴重である。又、外見は騰写版の貧弱な小冊子の群れのようだが、中国共産党に関する資料として唯一無二といって良い資料が、昭和四年小泉監督から寄附された。その前年、小泉が中国旅行の際上海で手に入れたものである。国共分裂の当時の中国にあって、潜行した共産党の資料を得るのはむづかしい。相手方は拳銃を机上に置き、周囲を警戒しての受け渡であったという。この二百四十冊の資料は図書館の書庫でしばらく埋れていたが、戦後中国共産党の研究が盛んになると欠かせないものとして、複刻されたりした。

 「望月文庫」を初めとする中国関係書の豊富さは塾図書館の誇りでもある。米中関係の正常化されない現在、米国の中国研究は盛んである。中国研究にはモリソン文庫を包蔵する国会図書館支部東洋文庫の見学は欠かせない。米国の中国研究家は東洋文庫へ勉強しに来る。そして東京で東洋文庫に継ぐ中国文献を持つところは何処かと問われると、それは慶應の図書館だと答えるそうである。米人のみならず、台湾の人も来る。最近では中蘇関係の研究などをするには、豊富な収集を誇る米国でも、戦前の発行著作には及ばないらしい。「望月文庫」の蔵書が珍重される。

 最後にこの頃の寄贈図書中大部のもの、異色なものを紹介しよう。三年に福沢捨次郎遺蔵二千二百余冊、四年に朝吹英二遺蔵千六百四十三冊(国文学や茶道書が多い。)波多野承五郎遺蔵二千六百六十八冊、五年に成瀬正恭遺蔵千五百五十九冊、森田寛蔵遺蔵八百冊、六年には沢木四方吉遺蔵六百八十冊(美術・美学史が多い)七年には小田切万寿之助より九百七十冊(万寿之助の父盛徳旧蔵の「国憲」草稿や江藤新平の署名ある「民法第一人事編」など明治初期法制関係の資料が多い)八年には成瀬義春遺蔵千余冊が寄贈された。個々の貴覲書として昭和二年蘭領印度のローマー博士よりクルムスのターフェル・アナトミカがある。杉田玄白の「解体新書」の原書としてかねてから所蔵を希望していたもので、秦佐八郎医学博士の斡旋によった。同年、名古屋の安藤次郎からウエーランドの経済書の寄贈を得た。「福沢氏図書記」の朱印のある、まさしく第二回の渡米のとき福沢が持返った本で、上野の戦争の最中に福沢が講義していたという由緒ある本であるにも拘らず、散佚されて塾には一本もなかったものであったので喜びも大きかった。これは尾佐竹猛博士の仲介による。五年には木村喜毅日記がその子息浩吉から寄贈された。福沢は明治前にはこの人に恩顧を蒙ることが多く、その日記は福沢研究には欠かせない資料である。

 小泉監督の図書館在任時期の大正十三年から昭和八年の間は、社会不安の顕著な時期であって、第一次大戦後の不況から大震災、次いで銀行恐慌から満洲事変への突入となり、その克服のため左右両翼の思想が激突し、混乱状態といえた。その中から思想の国家統制が徐々に進行して行った。まだ読書の統制や図書の没収などの強行手段は行われなかったが、研究の殿堂図書館にもひたひたとおしよせる波が感ぜられた。社会主義、社会問題の図書でも公然と購入出来ないものもあったことは前にも述べた。また刑事に追われる人への便宜にもはばかりがあった。「日本資本主義発達史」の刊行で名声を得た野呂栄太郎は小泉門下の逸材であったが、大正十四年四月陸軍現役将校学校配属令の公布で、学内の軍事教練が始れられるのを反対して検束され、十五年には京大事件に関連して検束されるという風に学生時代から警察の注意人物であった。既に共産主義に共鳴し、小泉の講義には屡々立って反論を試みたりしたが、小泉は野呂を愛し、卒業後は助手に推薦する程であった。資本主義発達史の執筆の際にも「先生(小泉)は私に野呂が何か調べたいことがあるらしい。図書館へ君をたずねてくるかも知れないから、その時は頼むとそっといわれた。その後彼が来た時、その頃は教員の読書室であった玄関を入って右側の部屋へ招き入れ、彼の便を計った」と加藤は語っている。野呂は図書館や塾に迷惑のかかるのを恐れて、人目につかない所で立ったまま頁をくったりしていた。野呂の謙譲な態度は他の館員にも好感を持たれ、殊に橋本勝彦はソビエット経済の研究をしていたので、思想的にも近く、野呂を書庫内に入れ閲覧させ、館外貨出の便も図った。日本の古い時代の知識に乏しかった野呂は、橋本に頼んで滝本教授から聞いて貰ったり、館員国分に資料を探して貰ったりしたということである。

 他方、満洲事変の発生以来、英米に対する猜疑が強くなる。七年五月創立七十五年記念式典へ秩父宮が参列されたが、それに併せて開かれていた西洋経済思想史展にも案内されて見て廻わられたが、宮はただ一語、「英国の本が多いですね」といわれた。「思い過しかも知れないが、殿下のお顔には幾分御不満、御不快の色が漂っていたように感じられた」と説明申上げた高橋教授の感想である。その時、古い塾出身の首相犬養毅も出席していたが、その宴席の中の写真が犬養の生前最後の遺影となった。その日から六日目の五月十五日犬養は蜂起した軍人の一団に射殺された。そして同年十月アジア協会図書の委託解約があった。日独会館が独逸大使館湾に建設されるからであったが、何を感違いしてかその数日後、憲兵隊本部特高陸軍憲兵曹長和田喜代治が館を訪れた。詳細は記録された日誌にもないのでわかり兼ねるが、押し寄せる初期の跫音ともいえようか。協会図書の返還は翌八年六月完済された。

五 四代監督高橋誠一郎

 昭和八年十一月林塾長の任期が切れて、後任には小泉信三が選ばれた。評議員会の選挙によるものであるが、それは評議員会中の有力者の意見が通ることが多く、この時の改選は日吉キャンパス建設のための三百万円の資金募集を成功させるため、清新なる人材を以てしたいという要望から、鎌田・門野の両長老の一致した推薦によって四十五歳の若い小泉が当選した。それを補佐する常任理事には堀内輝美と槙智雄が就任した。

 小泉の塾長就任にともない。図書館監督の後任には高橋誠一郎が押された。高橋は明治四十一年の政治科卒業であるから、小泉より二年先輩で、留学も、大学教授としての講義も、小泉より早かったのであるが、明治四十四年十二月より当時難治と称せられた結核にかかって、留学中の大部分はサナトリアムで治療に明けくれ、帰国後も健康上の理由から都心を離れた大磯に生活して、読み且つ書くの業に費し、半ばは上京して講義する生活をつづけ、そして昭和八年図書館監督になったのである。高橋が突然喀血して結核を自覚したのは、明治四十四年十二月十八日の夕方であった。サウス・ケンシントンのインピリアルインスチチュートのなかにあるロンドン大学のヘッド・クオーターに属する図書館で十八世紀の古書を繙いているとき、突然激しい咳に襲われ、何か喉から出たようなのでハンカチにとって見ると血であった。驚いて洗面所に駈けこみ、洗盤(ベースン)に向って思うさま血を吐いた。そして閲覧室に帰って中年の館員に本を返えし、軽く会釈して出ようとするとき、館員が軽く咳を二つ三つしたのに気が附いた「おれも肺病になったら図書館員になって一生読書を続けよう」と冗談半分に考えて往来に出たという。それは一九一一年、それから二十二年たった一九三三年の十二月一日、母校の図書館監督に就任したのであった。

 高橋の家は明治年代まで十四代続いた新潟の廻船問屋津軽屋次郎左衛門という旧家であったが、父の時代に没落して横浜に出て、貿易を営む茂木商店に身を寄せた。息子の高橋は四歳のとき呼びむかえられて、それからずーっと横浜で生活したが、明治三十一年普通部に入学してから寄宿舎生活に入った。丁度その頃は福沢諭吉が第一回の大患の後であったので、足ならしに朝の散歩に出かけ、学生・先輩がその驥尾に付して麻布広尾界隈をゾロゾロ歩いた。高橋はその中の常連でもあったし、福沢家の三男三八、四男大四郎、孫の中村愛作などと友達となって、毎日のように福沢家に遊び行って、晩年の福沢に親炙した。悪戯がすぎて「途方もない馬鹿野郎だ」とどなられたこともあったという。

 小泉信三もその頃は三田に住んでいて福沢の若い人達とは遊び仲間だったようだ。けれども高橋とはあまり接触していない。二年の隔たりが、そうしたのかも知れないが、高橋は学生自治会の機関雑誌「三田評論」に三十二年から投稿し、普通部四年の頃には編輯を担当し、巻頭の論説は毎号書かされたという。「三田評論」は創刊当初より、義塾当局に対し抗争的であり、匿名論文は屡々編輯責任者への詰問となった。また高橋自身も辛辣な批判を掲載してはばからなかった。そこえ行くと小泉は坊ちゃんであり、好きな庭球も勉強のために放棄するという優等生ぶりであった。小泉の庭球に対して高橋の水泳は在学時代から部内で名人といわれた。そのころは学校間に競泳がなく、専ら遠泳が行われたが、葉山逗子間、葉山鎌倉間、葉山江の島間のいづれにも参加して、常に先頭を泳いだ。殊に三十九年六月十二日の江の島遠泳は逗子の田越川から流れ込む水の冷たさに震え上がり、小坪沖の逆潮に悩まされ、落伍者が相次いだ。この遠泳は出発から上陸まで七時間四十分を費し、監視船から高橋の姿が見えなくなって、「高橋君が死んだ」といって泣いたものもあったという。遠泳のような技術に加うるに、強靭な精神力を必要とするスポーツに秀でていた高橋は、ひとり水泳の場合ばかりでなく、闘病生活にも、専攻の経済学史の研究にも、根気と勇気と精神力とが貫らぬいているように思える。見かけはいかにも痩身だが、骨太な強さと昔ながらの反骨が、図書館監督時代にもうかがわれる。

 大学を卒業して先づ普通部の教員になった。時の塾長鎌田は憲法の教授に仕立てようと考えたらしいが、高橋は教室で使用した仏蘭西の経済学者シャルル・ジードの「経済原論」に興味をおぼえ、ジードがそれ以前における経済学上の労作の最良果実を、その著の中に保持しようとした努力に共感して、経済学古文献の渉猟に遭進する覚悟をきめた。そこで四十二年大学予科で経済原論を担当し、四十四年欧罹巴留学となった。経済学の古文献の渉猟といっても日本にいる限りでは思うに任せないものがあったが、何といっても本場の英国には今迄到底見ることが出来ないと諦めていた十六、七、八世紀の経済古書の原版が、図書館や古本屋の店頭で手にすることが出来た。高橋は英国のに渡っても学校に入ることをせず、図書館と古本屋で明けくれた。図書館はロンドン大学のヘッドクオーターに附属するゴールドスミス図書館を多く利用し、古本屋は博物館書房やジョージ・ハーデイング書店の常顧客となり、そこの主人とも馴染んで、ほしいと思う本はそれらの人に探して貰うことにしていた。永い療養生活の後、帰国してからも外国の古本屋のカタログには目を皿のようにして注視し、自分の力で買い切れないものは図書館に買って貰うことに努めた。高橋は図書館の相談役などにはならなかったが、相談役以上に図書館の図書の収集には努力した。田中監督時代の十七世紀以来の東印度会社関係文献も、小泉監督時代の草双紙・合巻類の収集も高橋の口添えから初まったことは既述のとおりである。

 高橋監督在任の時期は昭和八年十二月から昭和十九年三月までであった。小泉監督時代に満洲事変が起こり、上海事変となり、満洲国承認、国際聯盟の脱退と抜きさしならぬ方向が打出されつつあったが、それでもまだ大学図書館には政府の干渉がなかった。ところが高橋監督の頃となると戦争ははてしなく拡がり、国策遂行への強化は大学図書館をして大学内の政策遵奉のみにとどまらず、国家の制約を直接うける。人事にも、図書の収集にも、更らに敗戦色が濃厚となると図書館運営自体それにつながる。実に厳しき時代となるのである。

 先づこの頃の図書館人事から筆を進めよう。監督の就任と共に相談役の依頼があって九年三月初顔合せがあった。文学部から間崎万里、橋本孝、西脇順三郎、経済学部から野村兼太郎、増井幸雄、法学部から峰岸治三、潮田江次であり、図書館側から高橋、安食、橋本が出席した。主な仕事は図書の推薦で、初めのうちは熱心であったようだが、怠り勝ちになり、後には年一回会合して意見を述べ会う程度になった。

 図書館の事務員はこの時代は変動が烈しい。大きくわけて昭和十六年事務主任安食が軽い悩溢血になった頃が境界になる。前半は大体小泉時代と同様で、監督の信任を得ていた大学出の人達は早め早めに教員に転出して行った。加藤元彦は昭和十年に、橋本勝彦は昭和十二年に去った。三辺清一郎を残して後は

下田博 経済学部卒 昭和九・四〜昭和十三・四 予科教員へ
戸鞠雅彦
 法学部卒 昭和十・四〜昭和十三・四 予科教員へ
伊東弥之助 経済学部卒 昭和十・八〜
小林宗三郎 経済学部卒 昭和十二・四〜昭和十四・四 退職
太田咲太郎 文学部卒 昭和十三・五〜昭和二十三・六 死亡
石川博道 文学部卒 昭和十四・五〜

三辺、伊東、太田、石川らが永く図書館にとどまった。前述のようにそれまでは教員への踏み台であったが、この頃から自然発生的に司書(ライブラリアン)が出来て来たといえよう。まだ図書館学は発達していなかったから、図書館技術を図書館協会主催の図書館講習会などで学び、あとは年季奉公的経験が司書たらしめて行った。この外に「福沢諭吉伝」で石河幹明の助手をしていた富田正文が昭和七年から九年にかけて、又早逝した伊藤秀一助教授の未亡人肇子が昭和九年から十一年まで短期間勤務した。

 当時の職務分担は昭和十年五月三辺が残した表がある。補助的兼務を省いて記すと

庶務 安食 (各種統計作成・往復文書・用度品保管)
受入 安食 (図書・雑誌注文・寄贈依頼)
 国分 (購入図書雑誌の受贈・郵便物仕分け・製本事務)
分類目録
洋書
 三辺 (洋書分類・カード目録作成及検査・洋書調査)
 橋本
 下田
 (洋書分類・カード目録作成・洋書調査)
 古川(衛門) (洋書カード目録作成補助・タイピスト)
和漢書 井上(芳郎) (和漢書分類・カード目録作成及検査)
 木島(久子) (和漢書カード目録作成補助・邦文タイピスト)
 楠山 (和漢書印刷目録編纂)
 幡(利吉) (和漢書印刷目録編纂補助)
登録配列 佐々木 (原簿の保管・和漢洋カード目録検閲及配列・書庫整理)
 伊達 (洋書原簿記入・和漢洋書新着報告作成)
 吉岡 (和漢書原簿記入)
 三辺 (雑誌整理・貴重書禁閲書整理保管)
貸出 山木 (教職員館外貸出・貸出簿記入保管・欠本に関する事務)
 伊藤
 戸鞠
 (学生・外来者貸出事務・閲覧統計作成)

この他、給仕七人、小使五人である。永年勤続でこの表に見えない高橋(秀)は八年に、岡崎は九年、小池は十年にやめた。井上・幡は臨時雇員で、十四年に事務員に昇格する。

 三辺は分担表と同時に事務系統による一覧表も作成した。その意途は図書館の事務機構を改革したい意図を持っていたことによるらしい。この頃は退職者が出ると大学卒業生を新規に採用していたから、そしてその退職者の職務に当てたので、従前のように大学卒は洋書整理というのでなく、例えば戸鞠のように単なる貸出業務だけに終ってしまう。能力あるものを適所に置けない弊害を指摘したものと思える。そして事務の重要ポストを握っているものは田中監督以来の人々であるといい、俗に庄内閥といわれていた。昭和十年の三辺の意図は学校出の最古参である橋本が中に入って、各人の意見を調整して起りかけた悶着も不発に終ったが、やがては爆発するものであった。

 昭和十六年三月十七日安食事務主任は図書館で突然、ペン持つ手が動かなくなった。翌日は休んだが、折から第一回全国図書館綜合協議会が聞かれていたので、その方に出席したものと思って皆気付かなかった。ところが十九日、令息に助けられて出勤した主任の姿は半身不随そのものであった。学期末の多忙事期なのでせめて判だけでも押そうと、家族の反対を振り切って出勤したとのことであったが、館員になだめられて三十分程で帰った。果然その日から、庄内閥と三辺との反目が表面になった。庄内閥といっても代表選手は国分剛二である。国分は明治二十五年鶴岡生れ、大正八年雇員として就職、大正十三年事務員に昇格した。学歴は高等小学卒業後、正則英語学校に一年ばかり在学したのみであったが、勉学心に富み、羽柴雄輔に近づき山形県の郷土史を中心に幅広い趣味を持っていた。筆がたつので郷土史ばかりでなく、図書館雑誌などにも投稿し、昭和三年発表されて急速に普及されつつあった森清の「日本十進分類法」に対する批判を執拗に繰返し、図書館界にも名を知られていた。

 三辺は明治三十年富山県生れだから、国分より五歳年下、大正九年理財科を卒業して古河商事や米井商店などの貿易商社に勤務し、シベリヤ出兵に駈り出されて退社し、帰国後小泉教授のマルサスの経済学原理翻訳を手伝っているうちに、図書館に就職した。従って大学出の事務員が教員を志望して比較的短期間で図書館から去るのとは違って、永く在職した。国分を中心とした庄内閥が結束していたのに対して、大学出の館員は必ずしも三辺を支持していたわけでなく、学歴からいって安食の後任は三辺だろう位にしか考えていなかったから、二人の抗争があまり露骨になると顔をしかめる向きが多かった。高橋監督はその中間策をとって佐々木良太郎に後任をすすめた。佐々木は明治四十二年就職し、田中監督の知遇をうけてはいたが、庄内出身ではなく、人と争うことを好まず、地味な仕事を誠実に、十年一日の如き態度でいた人である。この人なら三辺も国分も文句のない処であったが、佐々木は固辞し続けた。そこで八月十一日三辺が臨時図書館事務主任心得に就任した。しかし三辺の在任は一年に終った。十七年九月応召の赤紙が来た。これより先、十二年八月にも召集されたが即日帰京であったので、今度も多分…と本人は思っていたらしいが、終局の苛烈は前回の比でなく、その侭軍隊にとどめられた。お鉢は国分には最早行かず、太田が仕事を引継いだ。戦局は逼迫し応召は相次いだ。図書館からの最初の出征は十三年九月、給仕の町田敏治が中国へ出発した。翌十四年十月には元給仕で退職した松島義弘戦死の報が入った。十六年七月には石川が応召、十七年九月三辺応召、それから図書館へ就任するもの、退職するもの複雑となり、落付いて仕事が出来なくなった。

就任退任
岩崎恒雄 経済学部卒 昭和十七・三 木島久子 昭和十七・八
中尾愛子  昭和十七・九 安食高吉 昭和十七・十 休職
板谷勘兵衛 高等部卒 昭和十八・六 幡利吉 昭和十八・五
保坂三郎 文学部嘱託 昭和十九・一 板谷勘兵衛 昭和十九・三
柄沢日出雄 高等部教授 昭和十九・四 楠山多鶴馬 昭和十九・三
佐々木暁秀 商工部教員 昭和十九・四 山木徳三郎 昭和十九・三
中丸平一郎 商工部教員 昭和十九・四 伊達良春 昭和十九・三

昭和十八年七月には首相東条英機により、補助業務の男子就業禁止の声明が出され、給仕・小使の退職が余儀なくされた。十九年一月二十五日、給仕達が工場へ去るため送別会が催され、図書館は益々無人の図書館となった。

 戦争の進展は日本の教育界全般に大いなる変動がおこり、慶應義塾もそれに超然たることは出来なかった。既に十六年に大学・高専の修業年限短縮問題が起り、卒業の繰り上げが実施された。十八年には「教育に関する戦時非常措置方策」が十月十二日の閣議で決定され、学生の兵役徴集猶予の停止、理工系学校の拡充に対して文科系学校の整備統合、学生の徴用強化が打出された。兵役や勤労動員により学業放棄の学生は増え、他方入学定員の定めによって学生数は減少する一方で、次第に正規の授業が不可能になった。義塾は実に「開塾以来前例なき難局」(小泉報告)に遭遇したというべきで、それに対処して高等部は廃校に、商工・商業両学校の工業学校への転換が企てられ、更らに教職員の人員削減のため六十歳以上の教職員は退職を予儀なくされた。十九年四月一日付で、高橋監督は現役から退いた。館員も山木、楠山、伊達がそれに該当した。ひとり佐々木だけは人手不足の折から生字引視されていた彼を失うのは、後の支障を考えて除外された。それらの後任には廃校になる高等部教授の柄沢日出雄、工業学校に転化される商工学校教諭佐々木暁秀と中丸平一郎が転配された。

六 戦時下の図書館運営

 高橋監督が経済学古文献の収集に熱心であり、図書館にもその点で今迄にも貢献してきたから、正式に監督となって業績をあげるとすれば先づその方面であろうが、それに先立って、小泉時代から引続きである印刷図書目録作成について語って置きたい。

 昭和十年の職務分担表に印刷目録の専任には楠山・幡の名があげられているが、和漢図書分類目録の準備に入ったのは、洋書目録の刊行間近しと思われた昭和三年の頃である。図書目録原稿整理員として臨時に井上芳郎が雇われ、和漢書分類係の楠山の配下についた。完成は昭和九年と予定され、先づ最初の年にカード一万五千枚を数人の雇で原稿に筆写せしめ、次の三年間に一名の専任者と手伝いとでカードの読合せ及び増加分の差加えをなし、後の二年で印刷・校正を完了する内容の計画をたて、五ケ年継続の予算案を提出した。印刷目録作成の困難は洋書目録の作成で充分図書館内では知られていても、会計の権を握っている学校当局には中々わかって貰えない。五ケ年計画の当初、原稿整理の筆耕料として七百五十円を計上した。一枚(十六行)五銭として一万五千枚分であったが、五ケ年計画とあることから五で割った百五十円分で承認の通知が来た。これでは五分の一しか出来ない。又洋書目録は洋書係を中心として行われたが、和漢書は洋に比して組みし易しと考えられたのか、臨時雇で行わせる予定であった。ところがその為に雇われた井上芳郎は採用して見ると適材とはいえない。井上は明治二十一年東京に生れ、早稲田大学政治経済科専門部中退、坪内逍遥主宰文芸協会研究所第二期生として入り、病気で中退、其後は本人談によれば沢正の一座にもいたことがあるという変った経歴の持主なので、到底綿密さを必要とする目録編纂などにはむかない。とうとう昭和六年楠山専任、幡補助ということで進められた。ところが楠山は明治三年高知の出身、仙台の東北学院本科中退し、時事新報に勤務し博学であった。綿密さには事欠かないが、少し度がすぎる綿密さで、頑固一徹、変り者でもあった。校正を幾度もとって納得のゆくまで続ける。目録は遅れに遅れて、とうとう退職までには出来あがらず、残った原稿(第三巻歴史・地理)は戦災で焼けた。刊行されたものは

慶應義塾図書館和漢図書分類目録 第四巻 政治・外交・経済及社会問題・統計・法律 昭和十一・五刊
 第一巻 哲学・宗教・教育 昭和十二・七刊
 第二巻 文学・語学 昭和十四・九刊
 第五巻 科学・技芸・辞書及類書 昭和十七・八刊

 以上のうちの最後の第五巻は目録の完成の遅きにいらだった安食主任が、別働班を作って完成したもので、安食、国分、伊東、古川、木島が昭和十二年二月から、原稿にとりかかり、校正、印刷までを本務の余暇に行ったものである。

 さて図書館本来の業務にかえって、高橋監督の収書について語ろう。高橋は留学中からの馴染みの古書肆や、カタログで海外から図書を購入しようとした。英国ではジョーヂ・ハーデイング、ジョン・グラント、ヘンリー・スチブンス、仏国ではマヂス、ベルンスタイン、独逸ではフーゴー・シュトライサンドなどで、九年から十二年にかけて注文した。そしてそれを助ける館員には三辺がいた。三辺は洋書係として高橋のチエックするカタログの外国の書店に大急ぎで電報を打ったり、為替の計算をしたりしていた。三辺は経済学史にも興味を持っていたので、高橋監督の手助けになり、このコンビで平和が永く続けば必ず業績があがったことであったろうに、不幸にも戦争の進展は欧米からの珍籍は元より、普通の図書も購入することが出来なくなってしまった。それは日華事変勃発の昭和十二年頃から怪しくなり、洋書不足のため日独書籍交換の噂が出たのは昭和十四年のことである。この時、欧羅巴では第二次大戦が初まった。

 「昨年(十四年)は西洋の古書市場に珍籍稀書を発見して、大急ぎで注文を出し、本は来たが金を払うことが出来ずに困りぬいたのであるが、本年になってからは注文は出しても、現品は勿論、有無の返辞さえも来ぬという有様である」心淋しい限りであるが止むを得ない。そこで「前回の欧洲大戦後には生活難に駆られて、泣く泣く其の貴重なる蒐集図書を売り払う学者達が、戦敗国には特に多かった。斯くて経済学関係だけでも、メンガー文庫、ブレンタノ文庫、ゾンバルト文庫等が我が国の大学図書館若しくは個人の所有に蔵したのである。此の度の大戦終結後においても、斯うした売立が多く行われることになりはしまいか。若しそうとしたならば、これ等の場合に最高の札を入れて相争う買手は恐らくアメリカと日本であろう」と高橋は思う。洋書不足によって剰し得た金を蓄積して、そうした大物の売立てに備えねばならぬと覚悟するのであったが、それから間もなく日独伊三国同盟が調印され、十六年十二月には米英に対する宣戦布告となり、日本も世界大戦に捲き込まれてしまったのである。

 其後の洋書は丸善と三越に依存した。丸善は福沢門下の早矢仕有的の創立で元々慶應とは深い関係にあったが、文房具や洋品から洋書に重点が移り、国内需要を殆んと独占する程の実力を持ったのは第一次大戦以後であろう。新刊書のみならず、古版本なども海外に直接注文せずとも一応丸善でこと足りた。大正十二年には三田出張所が正門の脇に出来て、店員が日々出入し、しかも支払は掛けであったから、知らず知らずのうちに借金がかさんだ。昭和十六年四月には丸善からの負債は五万円に達し、稀覯書買入れのために蓄積するどころか、月々丸善に支払って消却に努めた。これは十八年末皆済された。三越洋書部との取引は大戦のための洋書飢饉を補足するためで、塾出身者がそこに勤めていたので初まった。また、国際文化振興会の斡旋によっての購入も僅かだがあった。

 洋書にくらべて稍入手し易くなったのは中国書である。予科教員であった奥野信太郎は十一年から十三年に、西川寧は十三年から十五年に、杉本忠は十五年から十七年にかけて、外務省在華特別研究員として北京に留学したから、彼等の手を通じて中国書を購入し得た。殊に奥野は琉璃廠(リウリイチヤン)や降福寺街の古書肆を堪念に歩いて文献発掘に努めたので、「円明園雑項則例」のようなものも手に入った。円明園は康煕・乾隆両帝造るところの大築造物であったが、英仏連合軍に焼払われて今見ることは出来ない。その見積書で、これによって施工及びその費用を知ることが出来る珍しい文献である。その後、北京には北京慶應公館が開設されたので、輸入図書の支払などには便宜があった。

 洋書の輸入の困難に加えて、和書の出版も制限されるようになり、昭和十六年六月日本出版配給株式会社が創設されて、自由競争の時代は終った。配給会社からの割当てのみでは、大衆の需要には応じ切れないので、今迄のように各書店が競って新刊書を持ち込み、図書館がその中から自由に選択するという方法が採られなくなった。図書館から書店に頼み、懇請して、配給図書を確保してもらう時代に変って来たのである。そうなると実績のある大きい店に配給量が多くなる。三田通りの本屋である岸田書店、福島屋、慶應書房との取引は無くなり、和書も丸善や三越、それに塾出身の主人を持つ銀座の三昧堂などに限られてしまう。

 こうした時期には図書の纒った寄贈や一活購入が一層重みを加える。年代順に主なものをあげよう。昭和九年故滝本誠一博士の蔵書が購入された。滝本博士の古書収集は知られており、大正年間には「日本経済叢書」が、昭和になってから「日本経済大典」「日本産業史資料」が博士の手で編纂発行された。これらは其後の日本経済史・思想史に欠かせない基本資料となったことは明瞭である。これらの原本の一部は生前京都帝国大学に譲られたが、其後入手のものや未収文献の多数をまだ所蔵していた。「瀧本文庫」と名を付せられたこれら図書が図書館の異彩を添えたことはいうまでもない。また同文庫には英独仏に渉る洋書、それも稀覯書に価するような図書も見出されるのは、専攻を日本経済史とした学者として不思議と思えようが、博士が明治三十年代に貿易論で田口卯吉と争ったことなどから思うと、その所蔵は当然のように考えられる。

 昭和十年門野重九郎が蟹逎舎左文の蔵書七百二十三冊を寄贈し、更らに十六年秋農屋望成の蔵書百余冊も追加寄贈された。合せて狂歌ものの集体成が出来た。前者は写本が多く、後者は刊本が多い。これらは既収狂歌の蔵書を加えて、十六年の秋「慶應義塾図書館狂歌書目録」が出版された。同年ミュンヘン大学の刑法学者ラインハルト・フランクの蔵書が厳重な木箱で送られて来た。フランク文庫と名付けて直ちに整理にかかったが、専門的な難解なものが多く、ために法学部の教授が手伝うからという口約束が初めからあったようである。その教授は恐らく永沢邦男であり、その入手の斡旋も同人の尽力があったろう。量は多かったが、学問の範囲が狭かったためか、専攻の人以外あまり知られず、整理も遅れた。十一年には尾崎行雄の第六回以降の衆議院議案書類約五百冊の寄贈があり、同年松永安左衛門還歴記念として図書及び図書購入費の寄附があった。図書は和千九百八十四冊、洋は五百九十三冊に上る。又、花房孝太郎子爵から千九十一冊の寄贈があった。この頃は二・二六事件の後であり、戦火拡大の徴候も著しく、多分に蔵書整理の傾向が出て来たように思われる。十三年には茂木惣兵衛の蔵書を購入することが出来た。茂木は実業家から学界に移り、英国へ留学して若く死んだ人で、フエデラリズムの歴史を書くために収集した洋書六千冊である。中には十八世紀の哲学者ピエール・ベールが和蘭で発行した新聞「雑纂」、フーゴー・クロチウスの「戦争と平和」など珍らしいものも少くない。同年には古い塾出身の高橋義雄が水戸学及び茶道に関する写本千八百冊の寄贈があった。高橋は箒庵と号し晩年は茶道に凝った。朝吹英二の寄贈本と共に、茶道に関する特殊な収書をなした。慶應茶道会編「慶應義塾大学図書館蔵高橋箒庵文庫目録」は二十八年三月騰写版で刊行されている。

 昭和十四年以降、戸川秋骨、水上滝太郎、馬場孤蝶歿して、その遺蔵書が寄贈された。三者とも批評家乃至作家であって、純然たる蔵書家ではなかったから、稀覯書と称するものは殆んと見られないが、「秋骨遺蔵」の蔵書票ある図書はトマス・モア、アイザーク・ウオールトン、サミュエル・バトラ、ラムなどは原典からその研究書の主なるものが収められており、一九二〇年代から三〇年代の英文学、伝記文学の作品評論が網羅されているのは流石である。水上滝太郎は久しく三田文学の実質上での主宰者であったので、水上への献呈本は三田派作家の作品全部を集めていたといって過言でない。殊に久保田万太郎が贈った著者のすべてには、それぞれ異なる献辞と署名があって今となっては貴重であった。馬場孤蝶所蔵本は小寺謙吉を介して申出があり、鈴木信太郎画く蔵書票が付せられていた。秋骨と違って南欧・北欧の小説家、劇作家の作品が多く、しかしその大半は英訳書で原語本ではない。明治から大正へかけての外国文学咀嚼の研究上の好資料といえた。しかし残念なことに水上、馬場の二蔵書は終戦末期の寄贈で、図書館は人手不足に苦んでいた頃であるから、積重ねられて平和回復を待つうち、戦災で失われてしまった。三田文学の作家ではないが三田派に愛好者が多く、本人も三田に好意を持っていた泉鏡花も歿後、未亡人の手から原稿及び遺品一切が寄附された。それは慶應大学の一隅に鏡花を記念する部屋を建てて、生前の俤を残そうということであった。予定は図書館の八角塔の最上層を改装してあてる筈であったが、戦災はそれを空しくしてしまった。しかし鏡花の原稿は鏑木清方画伯の染筆になる題僉をつけて、戦災のときは綱町にあった倉庫に隔離されて無事であった。

 幕末より明治にかけての啓蒙者を主としたものに十五年寄贈の早矢仕四郎旧蔵と、十六年寄贈の内藤政道旧蔵書がある。早矢仕は丸善創始者早矢仕有的の長男で、幼稚舎からの生えぬきの塾育ちであるので、塾関係の資料・教科書に恵まれ、内藤は九州延岡藩主の子孫で、同藩は福沢諭吉と関係が深かったので明治初期の啓蒙書が豊富であった。この二蔵書も半ば未整理で、その一部分は焼けた。

 十八年五月フランク・ホーレイ文庫が購入された。ホーレイはロンドン・タイムスの記者であったが、永く日本に住み、日本の婦人を妻とし、蔵書家として知られていた。ところが戦争で彼は帰国し、蔵書は敵産として政府が没収し、その売却を三井信託に依託した。三井信託ではその価値の大さを認めて、散佚を避け、一括購入者を探していた。偶々当該担当社員が塾出身であったので、慶應に話を持ち込み、図書館が六万円で購入し、その整理のため文学部嘱託保坂三郎を招いた。これが戦後問題になったホーレイ文庫の発端である。

 高橋監督になって最初の展示会は、昭和九年六月に催された「ナチス文献展」であった。ナチスの正式名称は国粋社会主義独逸労働党といい、一九二〇年(大正九)成立し、永い雌伏時代があった。ナチスとは同党を侮蔑した呼名であったが、広く通用された。昭和八年ナチス党首ヒトラーは正式の手順によって独逸国総理の位置にのし上った。まだヒンデンブルグ総統のいる頃であったが、新興独逸のホープとして名声嘖々たるものがあった。この展示会は時局紹介という意味のものであったが、独逸大使デイレクセン初め参観者がきわめて多かった。十一月には福沢生誕百年並に日吉開校記念祝賀会と合せて「福沢および物故先輩に関する展覧会」、慶應独逸文学会主催の「シルレル誕生百七十五年記念展」、理財学会主催「マルサス歿後百年記念展」が相次いで開かれた。そして戦争の激化を気にすることなく、それから以後も展示会は次々と開かれたのである。但し主催は塾内の学会が受持ち、図書館は場所を提供するか、後援となることが多かった。

 昭和十年以降の展覧会の名だけをあげて置こう。「徳川時代経済資料展」「欧州交通史料展」「明治社会経済思想文献展」「慶應義塾学生調査及三田街社会調査展」「原始及古代文化資料展」「第十七世紀刊行経済文献展」「支那考古学展」「浮世絵西籍展」「アダムスミス歿後百五十年記念展」「水上滝太郎展」「月岡芳年五十年忌展覧会」「東亜文化資料展」「福沢先生資料展」などで、年一回乃至二回であったが、内容は充実し、規模は大きかった。十七世紀刊行経済文献及びアダムスミス記念展は高橋監督の得意とする分野で、三辺が懸命に作った目録があり、学界でも好評であった。月岡芳年記念展は高橋所蔵の芳年作品六十三点初め、小林きん子、鏑木清方など由縁の人々の出品などもあって、暗胆たる時局を忘れしむる好展覧会であった。時局の進展はこうした会をも妨げがちとなる。第二回日本教育学会に併せて開かれた福沢先生資料展は十八年の四月に行われたが、開期五日の予定が警戒警報発令のため三日にして中止となった。

 十八年には欧羅巴戦線が愈々急迫して、その九月にはイタリヤの降伏が発表された。日本への攻撃激化が必至であるとき図書の防衛はどうあるべきか。高橋監督は稀覯書の疎開を一応考えた。慶應の医学部は伊豆月ヶ瀬村に温泉研究所を持っていた。其処へ疎開しようかということであったが、温泉の湿気が皮製の図書の保存に却って悪いかも知れないという説もあって立消えた。この頃の考え方は図書館の書庫は他のいづれの民家よりも安全と思えるから、極力館外貸出書は回収しよう。勿論、百瓩級の命中弾であれば不運とあきらめる外はないが、焼夷弾位であれば書庫内に設備されたる金庫、それに次いで書庫最下層に稀覯書を集める。もっと切迫すれば土嚢でその半地階を囲えば安全を期待出来よう。図書館を枕に防戦おさおさ劣らないといったことであった。

七 拘束された時代

 高橋監転の在任時期は昭和八年十二月から十九年三月までであった。国際聯盟も脱退し、全く世界から孤立しても戦争を続けようとしていた。九年に文部省思想局が出来、日華事変も拡大し、十三年には国家総動員法が公布され、十五年日独伊三国同盟が結ばれ、翌十六年十二月には大東亜戦争にまで捲き込まれて行った。食糧管理が行われ、米機空襲への備え、学生の徴兵猶予徹廃へと追いつめられて行った。こうした時期であるから、高橋監督は図書館で自由に腕を振えるわけはなかった。館員にしてからが既述のように出入が繁しくなって落着かない。その上に日常業務の中に戦時体制が組み込まれる。昭和十二年日華事変の勃発と共に、九月には慶應義塾にも特設防護団が出来た。「塾内の諸施設生命財産を非常の危害より防護せん」とするためで、団長には小泉塾長がなり、防護地区は三田、四谷、日吉、天現寺及び特別地区の五つに分けた。図館書は当然、三田地区の中にあってそれのみで一組織を作った。分団長に高橋、副分団長に安食、監督として佐々木、伊達、楠山、整理に山木、国分、戸鞠、防火に吉岡、井上、幡、三辺、下田、伊東、小林、古川、木島が割当てられた。十日に結成式があり、十五日から十九日にかけて第一回の防空訓練があった。そして毎年一回位宛、演習が行われたが、何んといっても日華事変のうちは航空機の来襲などは考えられなく、いわば暢気であった。ところが十五年三月「学校特設防護団要綱」に基き改組されるとなると、団長小泉、分団長高橋の外に警察署長、消防署長、区長の指令の下に動かなければならなくなった。その上十六年八月頃から、所謂日本を包囲するABCDラインの完成が人々の心に脅威をあたえ、時あたかも年老いた安食事務主任から、壮年の三辺主任代理への交代があったので、図書館防衛強化が採用された。「慶應義塾図書館非常時防護要領」というものものしいものであるが、要するに空襲警報が鳴ると、分担が定められた館員が、重要書類を安全な場所へ移し、閲覧者を安全地帯に誘導し、書庫の窓の鉄扉を完全に閉鎖し、電源を切って退去し、慶應義塾防護団に合流して活動するというのである。それらの練習は屡々行われ、書庫の閉鎖が前より一分早かったとか、二分遅くなったとか三辺主任代理が時計を見ながら叱責した。斯様な有様であったから高橋監督は図書館に新規の事業を行うことも出来ず、極端な言葉を使えば、図書館自体の仕事からいうと、在来の継続より一歩も出なかったといえるかと思うが、高橋時代の特徴はそんな処にはなくて、戦時下文教政策の反動化に抵抗する高橋の姿勢にあったように思える。

 昭和七年五月創立七十五年記念式典に参列して秩父宮が、同時に行われた西洋経済思想史展で案内役の高橋に英書が多いといって不興であった話は既述した。秩父宮は陸軍の急進派の若手将校と密接であった。彼ら若手将校の一団には福沢諭吉は嫌われている。自由主義の慶應義塾の存立は危いとささやかれた。殊に図書館のスティンドグラスは女神の前に、老髯の武士が忙然と立っているのが気に喰わない。「ペンは劔よりも強し」の文句は言語同断であると噂された。高橋監督はそれを聞いて「では、ペンを筆にかえましよう」と真面目な顔して語ったという。

 余談であるが、この若手将校が引起した二・二六事件には図書館がかかわりがある。二・二六というのは昭和十一年二月二十六日、麻布三連隊の将兵が蹶起して、斎藤実、高橋是清らの重臣を殺し、議事堂を中心とする霞ヶ関から赤坂に連らなる丘陵地帯を占拠した事件である。交通は一部が遮断されただけなので、教職員・学生の通学には不便はなかったが、新聞は休刊となり、風説紛々として人心が落ち着かなかった。そして二十九日は愈々反乱軍を掃討する日と定められたので、学校も図書館も休みとなった。教職員は待機して議事堂方面に砲火の挙るのを見つめていた。慶應四年福沢が上野の戦争中に講義をやめなかった話は有名であるが、上野と新銭座塾の距離より、霞ヶ関・三田間の方が遥かに近い。金杉方面にあがる汽車の煙にも恟々とした。しかし掃討は降伏の勧告によって銃声を聞かずしてやんだが、図書館との関係はこれからである。事変から暫く日を経た一日、憲兵が数人ドヤドヤと事務室に入って来て、安食主任と応酬を繰返して引きあげた。反乱軍の青年将校の中に、普通部の英語教員安藤栄次郎の息子輝三大尉がいて、彼の部屋から慶應義塾図書館の蔵印ある北一輝著「日本改造法案大綱」が発見されしによる。この書は「その思想の根抵において絶体に我が国体と相容れざるもの」(判決原本)であり、図書館では第二特別書として一般には禁閲の扱いをしていたが、教員は許可を得れば見ることが出来た。息子の頼みで父親の教員が借り出してあたえたものらしい。憲兵隊に没収された本は図書館には戻ってこなかった。剽軽なところがあって「アンちゃん」と仇名されて学生に親しまれていた父親の安藤も図書館へ詑びに来たが、息子の行動には弁護するところがあって、その硬骨さには意外の感を人々にあたえた。事件は北一輝ら国家社会主義一派の処罰が行われたが、青年将校には及ばなかった。安藤大尉は秩父宮と最も近いと噂された人物である。

 第二特別書という言葉が出て来た。これは国体に添わないもの、国策遂行上害のあるものと見做され、一般の閲覧は禁止される本のことである。当時図書館には特別書が二種類あった。一は稀覯書に属するもので第一特別書といわれ、その基準は社会思想史の上で、ある役割を果した著者の作品、そして大体一八四八年―ジョン・スチュアート・ミルの原論公刊の年―以前のものとされ、この項は経済部門で五百七十余冊、社会問題部門に百余冊がそれに数えられていた。これは閲覧者が監督の許可を得て、閲覧台のそばで見ることが出来た。第二特別書という閲覧者に公開されないものは初めは風俗関係の猥褻本か、限られた思想―共産主義・無政府主義のもののみであったが、高橋監督時代には国策遂行に害あるものと認定されたものが加わり、文部省や警察署から月々騰写版に刷られて、そうした禁閲本ははてしなく拡がって行った。

 昭和十年には美濃部達吉事件が起きて、これまで権威ある必読書とされていた美濃部の憲法に関する書物一切が第二特別書に組み込まれ、十三年には大学教授グループ事件、十四年には自由主義者河合栄治郎まで鎗玉にあがって、それらに関する図書が禁閲となった。他方、文部省に教育振興協議会が出来、大政翼賛会が成立し、日本出版文化協会が創立された。その頃―十五年―が最も厳しい図書行政の年となった。七月十二日マルクス・エンゲルス関係図書二百冊(和訳書のみ)の閲覧禁止命令が出た。高橋監督は後年回想して「三田の警察署員がやって来て、部厚な禁制書目を館員につきつけ、これに登載されているような書籍が一部でも図書館に所蔵されているならば、至急、警察署に供出するようにと命じた。まさに、始皇の焚書が行われようとしているのであった。慶應義塾図書館は不幸にして、これ等の書籍の殆んど全部を所蔵して居った。」出張して来た私服の署員は図書館の書庫を一巡して驚いたようであった。多分、これまでは区内の公共図書館を巡察していたものらしく、数冊を抜き出せば役目を終えたのであろう。ところが慶應図書館の書庫では「どれもこれも駄目だ。皆んな駄目だ」といいながら、本を手にすることなく早々に去って行った。其後、交渉が幾度か重ねられ、高橋監督の頑張りと抵抗とが功を奏して、辛くも供出を免かれることが出来た。そこでその年の十月一日から五日にわたる防空演習の真只中、館員は演習の合い間に全員が、これら「危険図書」の目録カードを撤去する仕事に精をだした。夜は交替で宿泊し、模擬爆弾の始末をし、昼はカード作業の連続で疲労はしたが、大量の図書の供出を免れたことは有難い限りであった。これらの図書はカードの撤去によって学生及び一般閲覧者の利用は出来なくなったが、隔離されなかったので教職員は書庫内で見ることが出来た。終戦後、大学の独立が高らかに叫ばれるに先立って、これらの書籍はいち早く日の光に浴し、広き読書子の前に姿を現わし得たのも、硬骨監督のいたお蔭であるといわねばならない。

 戦争の激化は禁閲本の範囲を益々ひろくした。今日では考えられないような普通の本が、敵に機密を知らせるということで、閲覧カードが取り除かれた。十七年七月防牒週間の指令で統計書、官庁の報告書が見られなくなった。更らに航空機から写した都市の俯瞰図のある普通の地理書もその中に加えられた。反対に教学局より推薦図書が選定され、その利用を充分ならしめるため、図書の出版飢饉のさ中にあっても、余分の冊数が配給された。国策に便乗したそれらの図書の利用状況を知るために、私大図書館協議会では調査表を作ったりした。

 思想問題が厳しくなって、各大学の教授が職を奪われる。そしてそれらの教授が元の学校の図書館を利用することさえ、はばかられ、迷惑がられる風潮になって来たとき、慶應の図書館が一般公開を続けるということも、勇気の要ることであった。高橋監督はこうしたときこそ「大学図書館の社会奉仕」が必要であり、一般読書人への便宜を図り続けようと決意する。「学校をはなれたまずしい一読書生にとっては、図書館こそが命の綱である。しかし私の勉強目標のためには、日本の首府東京の図書館の状況は、先進文明諸国のそれにくらべて、問題にならないほど、不備、偏狭、不親切、非人間的、かつ役人的であった…三田の慶應大学の図書館は当時、日本におけるたった一つの公開大学図書館であって役所風のくさみがなく、気もちがよかった。」(大塚金之助著「解放思想史の人々」)図書館では試験期になると学生の入館が多くなって、外来閲覧者の入場を一時停止するのが永年の慣例である。その時に偶々来たある外来者は、その張り紙を見て、慶應図書館もとうとう公開をやめたのかと落胆したという話も残っている。外来者は戦前戦後を通じて、大部分が他校の学生であるのが常であるが、この時期は他校の元教授達が多く姿を見せた。そのことが十七年頃には警察の知るところとなり、私服の刑事が図書館玄関脇の神代杉の蔭にたたずむ風景も見られた。

 閲覧学生は相対的にいって相変らず少なかった。大学の講義は大部分ノートであった。その頃学生であった池田弥三郎教授は回想する「大学の講義というと、筆記する学生の側からいうと、はなはだしく「らく」な講義が多かった。…一番らくだったのは先生が、先生自身の著書を学生に買わせて、御自身もその本をひらいて読んでいく、文字通りただ読んでいくという講義であった。…次に「らく」だったのは先生がノートを作ってきて、それをゆっくり読んで筆記させるという講義であった」そして「ノートのとりにくい先生の講義はフリー・トーキングの先生の場合であって」そうした教授は寥々たるものであった。池田教授は文学部であるからその寥々たる教授には西脇順三郎と折口信夫両教授の名をあげている。他の学部も殆んと同様であったろう。どうしてこうした講義が普通になったのだろう。教授の多くは当時欧羅巴留学の経験を持っていたのに。野村兼太郎は大正年間英国のケンブリッヂ大学のキングスコレッヂに学んで「日本の学校制度と違って、講義と試験とはまるで別のものだから、講義を聴く者は数においても少なく、日本の学生のように教師のいうことを一から十まで筆記しようとする熱心さはない。然し皆、ゆっくりと謹聴しているから気持はよい。この方が本当の学問の致方のように思われる。」そして「図書館を主として、たまに講義をききにゆく」(「欧州印象記」)生活が繰返された。それなのに日本に帰った野村は日本の習慣に従った。しかも初めの数年間は英語で話してノートにとらせたという。ノートが採れないのではない、発音が悪いからだなどと学生にささやかれた。ノート講義の発生考証はここでは省く。ノートさえ出来ていれば図書館はいらない。試験期に満員となって外来者を拒るのは、参考書を読むためではない、友達から借りたノートの引写しの忙殺と、図書館内がスチームで暖いからであった。

 他方、図書館側の学生に対するサービスが十年一日であったことも、閲覧不振の一因に数えられよう。明治末期の大学部図書室係のように、学生の要求する本をとり出した後は、なたまめ煙管でスパスパやっていた閲覧係と全く同様な人達がこの事務を継承していた。閲覧室は禁煙なので煙草こそ慎しんでいたが、高い閲覧台の上にいて出納する給仕を監督するのが関の山で、学生に本の質問をされても答えられなく、漢書など面倒なものになると、自分で行って持って来てよろしいという位で、そうした人が却って話がわかるとされていた。永く閲覧係を勤めた人には変り者が多い。山木徳三郎は明治四十五年から昭和十九年退職まで、三十一年間をこの係で殆んど過した。明治十六年生れで慶應の商業学校を卒業し、東洋汽船や尾城汽船の乗務員を七年程経験した。後、余戯として細字を書くのに巧みであったことから、筆写生として図書館勤務を思い立ち、戸川明三教授の末弟であったことから、その紹介で図書館員になった。船に乗って日本の各地を知っているので話題は豊富で、世故にはたけていた。給仕のあつかいも、学生との接衝も円滑であった。続いて永くこの係を勤めてた人に小池益郎がいた。明治三年生れ、日清戦争に従軍して勲八等であった。明治画壇の雄、橋本雅邦門下で、師の歿後、影写が巧みということで謄写の仕事を求めて図書館に就職した。後、閲覧係の欠員からその係になったが、結局、頭の中は良い絵を描きたいということで一杯であった。従って閲覧台にいても本の配架すら知らない。分類も知らない。それでも十三年七ヶ月退職までじっと辛棒した。雅邦門下といえば横山大観・下村観山ら日本美術院の綜々たる大家と同門である。彼の語る閲歴話は面白い。雅邦は池の端の先生といわれて、酒宴が華美であった。小池は常にその酒宴に侍って重宝がられていたらしい。学びとったものは遊びであって、絵筆からのではなかった。大観らが旭日昇天のように名声が高まるのを横目に見て、今に見ろ、今に見ろと閲覧台の上で構想を練っていたのである。彼が高橋監督や妻子の留めるのを振り切って図書館を退職したのも、なまじ収入があっては後世に残るような絵が描けないと背水の陣をしいたつもりであった。それでもとうとう絵は出来なかった。

 昭和年代に入って世は不景気で、就職難から大学出も図書館に職を求めた。そして閲覧係にもなった。山木・小池などという人達と違って、学生の相談にも或る程度乗れる。館員と学生との断層がなくなったことは偶然ながら好結果を生んだ。思想問題で追放された知識人に慶應図書館が評判が良かったのも、こうした新人が最前線にいたからでもあった。大学出の中には永く図書館に勤務する者も出て来た。司書(ライブラリアン)らしい者もこの中から出て来るのであった。高橋監督の時代は戦争末期のてんやわんやの時であったが、古いものから新しいものへの芽ばえが見出される時期でもあった。


第五章 罹災から再建へ

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一 初代館長野村兼太郎

 昭和十九年四月一日付で「開塾以来前例なき難局」によって老齢の教職員が退職を勧告された。就任すれば終身雇傭であった筈なのに、突然退職をいい渡される。教授によっては塾長と激論をした人もいたといわれる。高橋監督もそのリスト中の人物で、名誉教授にまつりあげられる。当然図書館監督の地位も去らねばならない。しかしその後任の任命には手間どった。発表は六月であった。当時経済学部長であった野村兼太郎が後任と定り、発表には四月一日付とあった。公式発表でいうなら、間髪を入れず後任が定まったようであるが、その間二カ月の選衡の合い間があった。小泉塾長の考えたあげくの結果であったといえよう。小泉も野村も故人となったからには推測による外はないが、野村は小泉にあまり信頼されていなかったようだ。元々小泉は慶應義塾では毛並のよい家柄であり、野村はその点、東京日本橋の名は通っていたが、商家の出身でまるで肌合いが違う。野村については野村より先輩で、しかも野村より長命である高橋誠一郎が、野村の生涯を見つめてそれを随筆風に書いている。「私は野村君がその学生生活を終るころから知つているように思い出される。痩せて小さい愛嬌のない青年だった。学校の成績は無論、悪くはなかったが、決して級中で一、二を争う秀才とはいえなかつた。しかし向学心の熾烈さは他に類がなかつた。教授会が君を助手に採用したのは、その熱心な学問好きに動かされたのであろう。研究会では阿部秀助君の指導を受けた。」助手の頃は経済哲学に興味を持っていたようだが、大正十一年五月欧羅巴に留学し、十二月バアミンガムでサー・ウイリアム・ジェームズ・アシュレェ教授に会った。野村はその著「欧洲印象記」で語る。「アシュレエ先生は好々爺と云う感じがする。現在の社会や制度に就いても、その外いろいろな点で私達とは考え方が随分違うようだ。その点に於いて極端に云えば隔世の人と云つてもいい。然し未だ二回ほどの面会でよくは解らないが、後進の者には親切であり、話の間々に傾聴すべき言葉も少なくない」そのアシュレェの助言によって、欧羅巴各国を数カ月づつ費やす初めの予定を変更して、ケンブリッジ大学キングス・コレッジに入学し、英国独特の学園の雰囲気の中で「英国の社会的発展に於ける都市の発達と資本主義的経済組織との関係について」を纒めて見る気になった。

 痩せて小さな愛矯のない野村は英国にきても孤独であった。小泉・高橋のように留学生同志の交歓はあまりしていない。バアミンガムでアシュレェに会う日にも、時間までは美術館でロセッチの絵を鑑賞した。そして「どんな人間でもある特殊の瞬間、ごく短い、そして極めて稀ではあるが、我々に与える淋しい、たよりないような印象」に感動していた。ところがその直後のアシュレェ教授は人なつこい。異国の青年にも親切な指導をあたえたので、それへの傾斜が甚しかった。経済史専攻の端緒はこの時に始まる。大正十四年二月帰国してからは英国経済史、日本経済学説史、日本経済史、ロシヤ経済史と広い分野にわたっての研究がなされた。それは絶えまない攷々とした努力の結果であった。英国留学中、風邪で病臥中の感想に「先日読んだガルスワアジイの短篇に、老年の美に対するあこがれを書いたものがあつた。人生観でも社会観でも本当に解つて来るのは五十以上になつてからではあるまいか。書物の上でいろいろな知識を得ても、要するにそれは知識に止まり、又同じ文字に対する解釈にしても、二十台や三十台の理解は、やはり二十台か三十台かの表面的のものに止まりはしないだろうか。それと同じように社会や人生に対しても思索が熟せず、体験に浅いような気がする。人生五十を越して始めて思想は成熟する…常に精進と刻苦とを必要とする。安住に堕することが最も禁物である。体質もあるだろうが、日本の学者はあまりに早く学問的生活を終り過ぎるようだ。」この感想をそのまま、波瀾激動の戦中戦後を通ずる六十四年の生涯を貫ぬき通した。そこが野村の最大の偉い所である。

 昭和の初期、慶應義塾の経済学部は小泉・高橋・野村・加田といわれた時代があった。まだ堀江帰一、気賀勘重、滝本誠一、高城仙次郎などの老教授が健在だった頃であるから、前者は花形若手教授の代表というわけであったが、これが小泉・加田、高橋・野村に次第に別れて行った。戦争激化への世態の中で迎合、といっては酷かも知れない。慶應義塾を存続させるためにはそうならざるを得なかったかも知れないが、小泉・加田、それにつづく多数の主流派に対して、高橋・野村は野党的立場にたたされて行った。昭和十八年七月の慶應義塾亜細亜研究所の設立は、人文・社会科学系統の大学の落ち目を救うためであったが、幾分かは軍部に媚びるものでもあった。そして多くの主流派教授は役員となったが、高橋・野村は名目的に顧問たるにとどまった。野村の反骨振りは高橋の回顧にもある。「野村君は戦争直前から戦時にかけて、経済学部長として、慶應義塾の軍国主義化に反抗し、かなり強く義塾当局と争つたようだ。空襲警報などが出た時には、慶應義塾の教職員たちは慶應義塾におれば必ずここに残り、よそにおつても慶應義塾にはせつけて、この建物を火災から守るべきだ。慶應義塾の建物は、尊い先輩の寄附によつてできたものだということを、かたく塾長から申し渡されたそうである。…野村氏はこの厳命に抗して小泉塾長に向い、こういうさいには学校に残つている先生がおれば、むしろ、早く家に帰れというべきではないか、何といつても一番尊いものは人間である。ことに大学の生命は、たとえ全部ではないかもしれないが、教授にかかつている。その教授たちの尊い生命を尊重して、空襲警報が出たら、ただちに家に帰すべきではないか、建物はむしろ二の次ではないか、こう抗弁したそうである。そうすると、小泉君は居丈高になつて申される「自分はいまの慶應義塾の教授の中で建物より価値があると思われる人物は、不幸にして発見することができない。」野村君はこの一言に憤慨して、私に不平を洩していた。」これは昭和十九年三月頃のことであろう。学生や教職員の応召や勤労動員やによって、人員が減少したため、特設防護団も改組され、教職員も交替で警戒にあたり、三田の山上にも宿直する非常手段をとった。国民服にゲートルをつけた教職員がゴロ寝をして空襲に備えた。この最中に野村が高橋の後任となったのである。うがって考えれば小泉塾長が、その反対派への口封じのためとも考えられる。しかし野村は図書館長として存分の職責を果した。本が好きだったということがその成功の最大原因でもあろう。時に応じでの活躍振りは見事であったという外はない。

 野村は図書館長になったと書いた。辞令ははっきりと図書館長といっている。それまでは監督といっていた。野村が館長辞任の挨拶に「実際に申しますと、慶應義塾の図書館長というのは私からなのでありまして、それまでは図書館長と言わないで、図書館監督といつて居りました。その意味では以前の館長はつまり、責任が軽かつた様であります。」野村を指名した小泉塾長も図書館にいる頃は監督という名称であった。それを敢えてこの時から館長と変えたのには小泉としての考えもあったことであろう。それは後述するとして、監督の名のできた田中一貞時代にもすでに他の図書館は―東大でも早稲田でも―皆館長と呼んでいた。慶應だけが例外であった。それは長と名付けるものは塾長だけだという慣習があった。その他は大学部法律科主任、普通部主任という風に、外では部長と呼び、校長と呼ぶのを慶應義塾では主任と言っていた、長などという肩肘の張った名前は塾長だけで沢山である。教授を先生といわないで君という、先輩にはさんをつける、先生は福沢先生ただ一人であるのと同じ考えからきていたと思われる。塾長以外にも長がつくようになったのは大学令という法律で法学部長とか、文学部長とかいう言葉を強制的に使わされた以後、やたらに多くなったそうである。(小沢愛圀談)

 「発行される本も極めて少い。外国からは勿論まいりません。最初にやりました仕事が、そこの前に爆弾除けの土手を造るという様な仕事で、理事に、その時は西村富三郎さんだつたのですが、その交渉をしたのが館長になつて最初の仕事だつたのであります。誠に館長らしくない仕事でありました」(退任挨拶)稀覯書を地下室に集めて、その前に爆風除けの土手を造ろうというのは高橋時代の構想であった。それをまづ実行したのである。次いで図書館の書庫の最上層にある図書を階下に降ろし、書架を取除いた。焼夷弾による可燃物を無くそうというのである。「屋根裏にあります書架を毀さないと外へ出ないがどうするか、毀しても良いのですかという。まア仕方がない。毀すという事になつたんですが、柄沢さんの英断であれを外へほうり出しました。そのおかげで屋根に爆弾が当つて、上は燃えちやつたんですけれども、書庫を救う事が出来たんであります」そしてその次が、図書の疎開であった。それらは図書館員の仕事というより、兵隊のやる、労務者のやる仕事の連続であった。そしてそれを無人と混乱の中で行ったのである。

 まづ図書館の中に働く人を見よう。十七年中風のために休職になった事務主任安食は遂に回復することなく、十九年九月在職期間三十三年六カ月で正式退任となった。安食の後任となった三辺は十七年九月応召して留守であった。しかし内地勤務で千葉あたりに駐屯していたので時々顔を見せた。来るたびに肥って見えたので、軍隊は餌が好いのだろうとうらやんだ。これより先、伊東は十七年七月大学予科図書室係として日吉に勤め、十八年九月一度復帰したが、十二月藤山愛一郎が慶應義塾に寄附した白金台にある藤山工業図書館に再転出した。石川は十六年七月応召、すぐ満洲に渡って、ずーっと姿を見せなかった。保坂は十九年三月横須賀に入隊し、五月に帰ってくる、太田も同年七月応召して岐阜で訓練をうけ十月帰った。岩崎も二十年四月に一時横須賀に入隊した。

 三辺の後任の形をとった太田は明治四十四年生れ、仏文科を卒業して、雑誌三田文学の編輯を手伝い、水上滝太郎に知られ、身体が丈夫でないことから図書館勤務がよいだろうと推薦された。自身は仏文の教員が志望であって、欠勤の教員の代講などには早くから喜んでしていた。性質が温厚で敵がなく、上長のうけも良かったが、あまり事務には秀づるといった型の人ではなかった。であるからだろうか、十九年四月高等部教授から図書館勤務に移った柄沢は図書館主事ということであった。主事という言葉は図書館ではこれが初めてである。もっとも、伊東が十八年藤山工業図書館へ移ったときは、図書館主事ということであった。財団法人藤山工業図書館に主事という役職があって、それを踏襲したのであろうか。

 従って野村館長就任当時は柄沢主事、太田、佐々木(良太郎)、国分、井上、吉岡、保坂、岩崎、佐々木(暁秀)、中丸、木内(佳子)、北村(光子)、古川(青香)、といった顔触れであった。柄沢は主事といっても初心であり、実際上の運用は太田がなすべきところであったろうが、太田は虚弱体質であり、しかも七月召集となると館内の統制が乱れ、柄沢に反抗する者が出た。保坂は史学科を卒業して、助手になり、日吉住居址の発掘などを手がけ、また図書館の南洋文献分類目録を望月基金の援助によって、松本信広教授を援けて作るなど、若いが勉強家であり、自信家でもあった。それがホーレイ文庫の購入により図書館の嘱託になり、次で正式に事務員になった。中丸は東洋史学科卒業後、中国に二回に渉って留学し、中国の劇の研究をした。帰国後は商工部で支那語を教えた。この二人が柄沢に反抗した。一ぱしの侍であったので、素人の柄沢主事の指図などおかしくて聞けないといったところであろう。あまり反目が激しいので野村館長は十九年十一月保坂を普通部の教員にした。中丸も面白くなく翌二十年三月退職した。その間、古川・北村の両嬢もやめる。二十年二月には井上芳郎が突然死んだ。風呂屋で発病し、九日目に歿った。井上は前述したように、変った履歴の持ち主で、和漢書係に永く籍を置いたが、業務のかたわらというより、本業そっちのけでバビロン・アッシリアの研究をしていた。遅れて勉強する者は人のやらない分野をするに限るというのが、彼の主張である。彼は大言壮語するたちの人なので信用できないという人もあったが、彼の主著「シュメル・バビロン社会史」は戦後再評価され評判になった。二十年四月太田も主事になった。主事は柄沢と二人になったが病身の太田は欠席勝ちであった。柄沢と仲良くやって元気が良かったのは佐々木(暁秀)位であろうか。

 図書の疎開については塾監局総務課の昆野和七がその必要を力説していたが、実現することになったのは七月七日、慶應義塾内で図書に関係ある部処の責任者を図書館に集めての会議の席上である。疎開に積極的に賛成なのは書庫を持たない亜細亜研究所、三田の研究室などであり、図書館の決意はやや遅れた。疎開先の見分は九月頃から始められたが、まづ最初に行われたのは新潟県中魚沼郡十日町にある西脇寛三郎所有の倉庫で、十月の終りに日通の手を経て発送され、柄沢主事が用務員二人をつれて現地に行った。疎開図書の大部分は亜細亜研究所と研究室の図書であり、図書館図書としては十六七世紀のラテン図書類や、解部存真図、憲法草案などであった。

 十九年の末から二十年の初めにかけて空襲がしきりに行われ、図書館も地下室ばかりに頼っていられない。塾の誇る経済古典書をいよいよ疎開することになった。疎開先は甲府市和田平町寺田重蔵宅の土蔵であった。品川辺の運送屋の親爺を拝み倒して、車二台で三月八日汐留駅に運び、三号ホームに積まれた。ところが翌九日午後十時半警戒警報が発令となり、十日の払暁B29約百三十機が来襲し、汐留駅がやられたという報があった。万事休すと思われたが、九日昼積込んで、夕方発車したとの喜ばしい回答が十二日駅からとどいた。そして十八日、甲府安着の電報がきたのである。他方、甲府の方では用度課長の羽磯武平が待っていたが、荷物がなかなかこない。宿屋の支払も無くなりそうになって心細かったそうである。この頃は空襲は東京・大阪の大都市に限られていて、甲府など地方都市はやられるとは思ってもいなかった。ところが五月をすぎると地方都市も危くなる。甲府からの再疎開を考えているうちに、七月甲府市空襲となり、寺田家も焼けた。倉庫だけは猛火の中に持ちこたえ、軒だけを焼いてやっと助かった。佐々木暁秀が見舞金二百円を持って挨拶に行ったが、いかにも気の毒であった。

 図書の疎開はまだ続いた。次節で述べる。

二 被爆から終戦へ

 慶應義塾図書館が空襲で被爆したのは、二十年五月二十六日であった。慶應義塾特設防護団本部総務班長奥井復太郎の「三田本塾空襲戦災状況報告」によると、次のごとき状況であった。二十三日夜から翌日朝にかけての空襲においては、三田山上では西北隅の診療所、山下の考古室、普通部校舎、それからの飛び火と見られる亜細亜研究所の一部の焼失を見たが、すべて木造建物であった。一日置いた二十五日の午後十時十分警戒警報が発令、つづいて二十分空襲警報となった。その時は山上の南側校舎(当時東部第六部隊に貸与中)に被弾し、火は東西に燃え拡がった。その飛び火が図書館の中央屋上北側の屋根に落ち、煙の挙がるを発見し、警防本部員永沢邦男、非常参集者庶務課長富田正文、鈴木良蔵らに学生数名が駈け登って、本館への延焼を防ぐ工作をなし成功を見たのが夜半十二時頃であった。ところが二十六日の零時二十分、第二次爆撃が始まり、無数のエレクトロン焼夷筒は新館西北側から図書館にかけて撤布され、木造の教職員クラブ・食堂・調理場は火焔に包まれ、煉瓦建ての大講堂、図書館八角塔、書庫の屋根等よりも漸次火を噴き出し、大講堂のごときは一時頃に屋根は抜け落ち、三十分にして全焼した。図書館は永沢・富田らが再び挺身して屋根裏の発火場所をその部分だけで喰いとめるのに再び成功したのは一時二十分頃であった。

 「シカルニ図書館ノ火ハ執拗ニシテ容易ニ鎮火セズ、殊ニ永沢・名取(塾員)等ハ五時頃、書庫ノ安否ヲ点検セル際、屋根裏ヨリ書庫ニ通ズル書籍昇降口の木柱ニツタワリテ、火ノ庫内ニ及ブヲ発見、直チニ消火シタルハ頗ル機敏ナリトイフベシ。八角塔・西側新書庫コンクリート屋根ノ如キハ間モナク一応鎮火シタルモ、中央部ノ火ハ漸次下ニ及ビテ、水利ノ悪シキト手不足ノタメ、遂ニ二十八日正午マデ燃エ続ケ、閲覧室・事務関係ノ諸室、地下室ヲ悉ク全焼セシメタリ。此ノ間官設消防隊ノ応援ヲウケシコト四回、軍隊ノ応援二回、隣組ノ応援一回ヲ得て、ポンプ消火ニツトメタルモ、遂ニ此ノ結末ヲ見タルハ頗ル遺憾ナリ。惟フニ二回ニ亘ル被爆トソノ被弾範囲ノ広汎ナルト、火勢ノ熾烈ナリシトハ、人手ノ不足、水利ノ不良等ト相俟テ、右ノ結果ヲ招来スルニ到レルモノノ如ク、僅カニ図書館書庫、新館、塾監局、鉄筋校舎ヘノ延焼ヲ防止スルニ止マリタルハ、平素警防ノ任ニアルモノトシテ全ク恐懼ニ耐エズ」

 当日の警防宿直および非常参集者に図書館員が一人もいなかったことは、宿直の順番が全塾の教職員による割当てによったものであるから、止むを得なかったが、残念な点も無くはない。藤山工業図書館勤務であった伊東が工業図書館の無事を見届けて帰宅し、三田の災害を聞いて駈けつけたのは二十六日午前十時頃であろうか、焼けているのは大階段の辺から記念室へかけてであり、消防ポンプが一台前にとまって二人の消防署員がホースを操作していた。竹梯子が閲覧室から地面に下されて、兵隊がカード・ボックスや机や椅子などを運び出して、前の広場に積み上げていた。まだ事務室も地下室も無事であったから、本館の館員がいたら、もっと効果的な運び出しが出来たかも知れない。カード・ボックスは二階から投げられて散乱しているのもあった。記念室の火も方々で燃えてはいたが、下火であるように思えた。もう少しの水と人手があれば消えそうに素人には思えたが、水槽は空であり、昨夜からの人々は疲労して、語るもものうげに腰をかけていた。消防署の本職二人が僅かな希望であった。ほとんど鎮火しかけた火が、大火後の雨と風とによって、再びあふられて大事になったようである。正午頃、雨が降り出した。折からきた国分と伊東は塾監局の広間に、投げ出されたカード箱や書類を運んだが、二人ではとても切りがないように思えた。

 永沢・富田などの活躍によって書庫が焼け残ったことには感謝せざるを得ない。しかしそれは報告にもあるように事前処置が良かったからだ。「図書館書庫ノ屋根裏ニアリシ図書書架等ノ可燃物ヲ事前ニ撤去疎開シオケルコトモ図書館ノ大半ヲ烏有ニ帰セシメタリト雖モ、書庫ノ安全ヲ護リ得タル最大ノ原因ナリ、事前ニ於ケル是等工作ニ関係セル人々ノ功又大ナリトイフ可シ」屋根裏の図書・書架の撤去に努力したのは柄沢主事で、書架を破壊して焚木とするのに反感を持った人も多かったが、それをやり遂げた英断は「柄沢君の大きな功績であろうと思とります」と野村館長も讃えている。

 この空襲にはなお偶然ながら幸運がともなった。二十三日から二十四日の朝にかけての空襲では、木造建築に大型焼夷弾(二五〇キロ)が落ち、二十五日から二十六日にかけてはエレクトロン焼夷筒の被弾であったことで、もしこれが逆であったら、図書館の書庫もあやうかったことの様に思われた。第一日の大型焼夷弾は約十六発、二日目のエレクトロン焼夷筒は建物の屋上や地上の通路に無数に落下した。

 この時、野村館長は自宅にいた。柄沢主事は高等部学生八十名が愛知県豊川海軍工廠に勤労動員されていたのを、監督するため出張していた。図書館の重複図書をリュックにつめて「巡回文庫」と名付け運搬し、休憩中の学生に読ませようとしたが、仕事は閑暇であっても工廠長清水中将は本を読ませる許可をしなかった。一日、学生と豊川稲荷に参詣しておみくじを引いたら、柄沢だけが凶と出た。帰って学生達と座談会を開いているとき、工廠本部から手紙がきたと知らせてくれた。封書だったが開けたら電報で、「トショカンヤケタスグカエレ」とあった。工廠で切符を貰って、座談会に出したふかし芋を背負って、終電車で出発した。豊橋まで座れたが、豊橋からの大船行の列車は満員で立ち通しであった。大船から藤沢の野村宅へ立寄ると横浜が大空襲で全滅だというから、君の家も危いと心配された。程ケ谷から歩いたが、横浜はまだ火災が消えず臭かった。慶應の学生に途中で会って学校のことを尋ねたが、わからない。その学生の世話でトラックに乗ることが出来て、無事だった鶴見の自宅へ帰った。疲労で横になるとすぐ眠った。目が醒めて三田へ駈けつけると、図書館の地下室からまだ時々ボーッと煙があがっていた。これは柄沢の回顧談である。

 書庫の火は屋根裏で喰いとめ、新書庫および旧書庫の四階から地階に至る図書は無事であった。不幸中の幸というのはこの事であるが、それが完全に保存されたとはいいえない。屋根をうばわれた書庫は、トタンで遮蔽された四階から上は、火で焼けてまがった鉄骨の上に空があった。平たい屋根裏に溜まる雨水はコンクリートのひび割れや電線を伝って階下に降りてきた。屋根裏の和装本や漢書類は事前に地階に棚板を敷いて横に積まれていたが、火災の際の消火の水が鉄扉のすき間から流れ込むのを、どう防ぐすべもなかった。要するに完全な形で無事であったわけではない。書庫以外の空き室、物置、廊下などにも様々な種類の本が積まれてあった。重複や廃棄決定の本なども処分が遅れて館内にあった。早く始末しておけばいくらかでも火の拡大を防げたかも知れないが、愚痴というものであろう。太田主事の焼失図書リストが残されている。それによると三階予備室に水上滝太郎、馬場孤蝶旧蔵書。泉鏡花・フランク・ホーレイ旧蔵書一部。三階物置に茂木惣兵衛旧蔵書の一部。八角塔三階に望月文庫未整理定期刊行物。同二階物置に図場館和漢書印刷目録。地階ホールに内藤文庫、フランク文庫の一部、地階食堂に時事新報、未整理雑誌類。地階給仕室に廃棄決定本とある。水上・馬場両旧蔵書は既述した内容のものであったが、全焼であった。泉鏡花は原稿・遺品類は綱町倉庫で無事だった。焼失のものは鏡花の手許にあった洋装本類である。ホーレイ蔵書は大部分書庫内にあって無事だったが、洋書の一部が失われた。茂木文庫も未整理のものが失われた。八角塔の望月文庫の定期刊行物と一括されている中に、ブルーブックの未整理のものが含まれている。八角塔は印刷目録の編輯室であった。従ってここにおかれた既刊目録の焼失は残念ではあるが、それより続いて発行予定であり、すでに出来ていた第三巻歴史・伝記・地理の部の原稿が失われてしまったことは痛恨のかぎりである。この部門は遂に印刷目録が無く、図書館の和漢書分類目録は今日に至るまで完成を見ないでしまった。内藤文庫の一部や時事新報の揃などは被災よりさほど遠くない時期に入ったので、未整理も止むを得ないといえばいえるが、フランク文庫やブルーブックの整理などは永い年月があったので、怠慢といえば怠慢ともいえる。しかし得てして図書の購入や寄贈の受入れには熱心であっても、その後の整理にはそれに伴う人員と費用とが必要であり、内容がむづかしいものには更に優れた人材が要求される。それは当然のことであるが、慶應に限らないだろう、どこでも見逃しがちである。時事新報の揃いは一部は従前からある。焼けたのは重複ともいえるが、都内版と地方版との相違があったのだそうである。福沢の創立したものであるだけに、そうした違いのあるものも揃っていて良かった筈である。

 五月に東京と横浜に空襲があって被害が出たが、その後しばらくは地方都市に攻撃が加えられて東京は無事であった。空襲警報はたびたび発令されたが、それは地方都市攻撃の帰りの敵機が東京近くを通る警戒のためであった。しかしその間にも東京への再度の空襲は予想された。敵機から撤布された宣伝ビラには虎刈りから丸刈りにするぞとあったと噂された。図書の疎開が引続いて急がれた。これよりさき図書館に寄託されていた南葵徳川の音楽文庫の解約通知があった。この文庫は昭和八年三月寄託され、二万五千冊、新書庫の屋根裏全体を占めていた。音楽書は型に大小あり、厚冊もあれば一枚刷のものなどもあって取扱いには困難した。利用者は従前からの人々が多く、塾教職員、塾生の利用は少なかった。徳川頼貞よりの解約通知は二十年四月十二日にあったが、とやこうするうち爆撃に会った。幸い新書庫は無事であったので、罹災後始めて館長・理事らが書庫を見分した六月四日の翌日から、二日に亘って搬出された。搬出先は千葉県下の呉服屋の倉庫であった。なお同文庫は終戦後散佚されたと伝えられた。或は米軍に接収されたといい、或は古書肆の手に渡ったとも言われたが、終戦後二十五年を経た今日、大木(九兵衛)コレクション南葵音楽文庫という名の下に、日本近代文学館にほぼ完全な形で保管されていることは何より幸である。

 図書の疎開には色々な手が打れた。分散疎開という意味から、比較的戦災の懼れ少なき地域に居住、もしくは疎開されている教職員に、無期限の貸出を慫慂した。「義塾図書館所蔵重要図書の大部は疎開を完了致しましたが、残留図書について研究の利便と兼ねて、危険分散の意を含め、左記により特別長期貸出を行います」の掲示が張られ、細目が規定されていた。これによって茅ケ崎、鎌倉、鵠沼、大磯方面に住む教授が協力して、図書を自宅に持帰った。又、白金にある藤山工業図書館はその建物の半分以上をその時、海軍省法務局に貸していたので、海軍に頼んでトラックを調達して貰い、医学部の月ケ瀬温泉研究所に図書を運ぼうという案も出されたが、これは海軍の応諾が得られなかった。又、慶應義塾幼稚舎生の疎開は伊豆修善寺町であったが、その上空を屡々敵機が通過するので、二十年六月青森県西津軽郡木造町へ再疎開することになった。その列車が品川駅にとまったとき、慶應義塾の古記録類を教員に手渡して保管を依頼した。児童への別離にごった返す父兄をかきわけて、列車の窓からの受け渡しであった。

 図書の第三回目の大量疎開は長野県稲荷山。高村象平教授の父君の生地で、その邸内の倉庫であった。今度は稀覯書の撰択などと悠長なことはいってはおられない、書庫の四階にあった図書、大体星文庫や田中・望月といった特殊文庫類が主であったが、手あたり次第に荷造りされた。小島栄次、小高泰雄、高村象平などの教授連も手伝わされた。運送の苦労は前より倍加されたが、それでも順調に進んで、柄沢主事が用度課員二人を連れて出立したのが七月二十七日である。高村教授は先方にいて荷物の着くのを待っていた。稲荷山駅に荷物が着いたが、馬力が雇えない。当時、軍需物資の再疎開といって木綿や革製品などの輸送のために軍がそれらを握っていた。やっと頼んで三台の馬力を借り、駅から門まで運んだ。門から庭を通って倉まで相当の距離があるが、車はそこまで入らない。そこで小学校の校長に頼みこんで、小学五、六年生にきて貰って、手送りで倉に積んだ、生徒にはお礼といってあんずを掌一杯ずつあたえて喜ばれた。仕事は三時間位かかって、やっと休息していると、駅から線路の間に本の包らしいものが一つ落ちていると知らせがあって、また引取りに出かけたという。これは高村教授の回顧による。稲荷山疎開が無事終って、出張旅費が各人へ手渡されたのが八月十一日、天皇の終戦放送が行われる僅か二日前であった。

 他方、図書館自体はどうであったか。戦災で閲覧室、目録室、事務室、記念室すべてを失い、さし当って事務室を大学の第一校舎一番教室に移した。閲覧室は十九年五月には千代田生命保険相互会社に貸与されていた。学生数の激減もあるが、戦時非常措置として文部省から指示されたことである。従って図書館は事務室のみあって、閲覧室は無かった。焼け残った書庫の図書を教職員と大学院生に館外貸出するのが僅かな仕事であった。図書館の被災と共に館員中にも自宅を失うものが出た。吉岡、岩崎、中丸、それに用務員二人も数えられた。応召も相次ぐ。館員の出欠も定かでなく、信頼感も前に触れたように薄らぐ。焼け残った書庫の中の乱れも、教室に乱雑につまれた什器類を見ても、さすが勤勉を誇る佐々木(良太郎)老人も手をこまねく程ひどかった。こうした状態で終戦を迎えた。

三 戦後の混乱時代

 終戦をむかえた時の慶應義塾はまさに廃墟の感があった。刻々本土にせまる敵影を充分承知しながらも、大本営発表を待ちわび、後から考えれば馬鹿らしい勝利の情報を流す男の話に、聞き耳をたてていた人々はがっくりきた。すべての人が半ば虚脱状態にあった。そしてそれを倍加するものは慶應義塾の惨憺たる現状であった。塾長小泉信三は図書館被災の同夜、綱町の自宅で大火傷を負い、焼け残った慶應病院の一室に仰臥していた。焼失建物は塾全体では半途(ナカバ)に達した。焼失坪数は三田が五、二〇〇坪(焼失率五三%)、日吉四、二〇〇坪(三一%)、四谷九、二〇〇坪(六四%)その他を含めて計一八、六〇〇坪(四五%)となり、全国私立大学中、最も戦災被害の大きなものとなったといわれる。

 三田山上は鉄筋コンクリートの建物を残して、全部被害をうけた。木造校舎は灰となって、土台だけが輪郭を残していた。ことに廃墟の感を深くしたのは煉瓦造りの大講堂と図書館であった。大講堂は屋根が崩れ落ちて、それをささえていた鉄骨が地面にとどくかのように打ちひしがれていた。不思議に残った前面のユニコーンの表情が、却って無気味さを増していた。しかし何より惨めさを示しているのは図書館の外形であろう。十九年に名誉教授になり滋賀県に疎開し、終戦後東京に帰った幸田成友は「焼けた書庫の最上階の鉄骨が三田通附近から、中天にかかつて見えるのは如何にも非惨だ」(文芸春秋昭和21・8)と嘆いている。釈迢空は悲しみを歌って「赤羽の橋のほどより、歩み来てふとぞおどろく―。灰燼のうへに波たつ図書館の屋根の鉄骨―。いららぎて空に向える恐竜の背鰭なせども、古生紀の岩に凝(ココ)れる―然(シカ)古き智識ならめや」(三田新聞昭和22・2)恐竜の背鰭のような鉄骨を露出した屋根と、煤けた煉瓦の色は、山の上に来るまでもなく、赤羽橋のほとりより、それよりさらに遠い処からも眺められた。戦災をうけた街が広いだけに、国電に乗れば新橋駅から品川駅までの永い間、車窓からその情けない姿が見られた。

 だが図書館は焼けても図書は無事だった。昆野和七の回想記に、災害の翌朝、三田通りの方から身ごしらえを厳重にした紳士が登って来た。折口信夫教授であった。「まだ焼えつづけている図書館をじっと見つめていた。やがて私を振り返って、ただ一言、本はといった。書庫には火は入っていない筈だと答えると、はじめて笑顔になって何かと話しかけてきた」(「塾監局小史」)教職員の誰れしもが図書館の図書が無事だったことを心から喜んだ。それは平生、図書館には厄介にならぬと豪語していた人にとっても、書庫が無事であったことは救いであったであろう。建物は焼け、木々も緑を失ってしまい、人も放心状態にあったとき、図書館四十万冊の本が無事でいたことは、大学が生きていることを知らせる鼓動が、ここから聞えてきたといって過言であるまい。前にも述べたように屋根を失った書庫は漏水で本を痛めた。しかし終戦まではまだ、それ程大事とは考えなかったが、八月をすぎ颱風襲来の季節がやってくると、もう漏水どころではない、潅水といって良い位だ。折角守り得た図書をこの上汚してはならない。館長の説得もあったろうが、学校当局も財政困難時にも拘らず、書庫の屋根復旧工事には進んで取り組んだ。十月に初まり、廿一年二月に終った。設計は斎藤誠二、株式会社中野組が請負い、工事費用八十六万六千余円であった。しかしこれでも完全ではない。樋がつまったといっては水が書庫に流れ込む、焼けた本館の鉄枠からも水が入る。要するに図書館全体を復興するのでなければ、水の被害を絶やすことができなかった。そこで図書館再興に取組むのであるが、それは後節に譲って、さし当っての終戦直後の状況に筆をすすめよう。

 「更にその後の仕事というのは、実に不愉快な仕事が沢山ありまして、その間、館員諸君に非常にいやな仕事をさせていた訳であります(中略)殊に終戦後シビル・カストデアンの中から交渉され、GHQからやって来たり、いろんな事でアメリカ人イギリス人が入り込みまして、いろんな事を言ってくるのが、実に不愉快でありまして、実に敗けるのは嫌だなと思いました。敗けた国というのは、如何に惨めであるかという事を私はしみじみ感じました」(野村退任挨拶)当時の惨めさはその時生活していた人でなくてはわからない。敗戦国民の非惨さが、大学は勿論、図書館の隅々まで行きわたっていたからである。戦災による校舎の喪失によって、比較的鉄筋校舎が多くて焼失率の少なかった日吉が当然、戦後中心となるべく考えられていたのが、九月二日の降伏調印の僅か一週間後に、日吉校舎は剣付鉄砲に武装された進駐米軍に接収されてしまった。接収校舎は日吉のみに限らない。戦災によって校舎の半ばを失い、接収によって更らに残りの半ばを失った。慶應義塾は僅か戦前の四分の一から立ち上らなければならなかった。終戦の秋は評議員・役員の改選期に当っていたが、社会の混乱で連絡がとれず、任期は延長された。もっとも塾長小泉は病臥して不在であり、槙・西村両理事が終戦直後の激しい変動期の処理にあたっていた。

 図書館の事務室は既述のように第一校舎の一番教室にあった。終戦時には野村館長、柄沢・太田両主事、それに佐々木(良)、佐々木(暁)、岩崎、吉岡、国分、木内に用務員一人がいた。そのうち給仕で、十九年の初めに就労禁止令によって去った青木安勝が復職した。十一月には石川博道が三ヵ年の兵役を終えて姿を見せた。石川の回顧談を載せよう。

 「復員して出勤したのは二十年十一月一日でしたが、それからまた半ヵ月程休んだように思う。何しろ罹災していたので…。一番教室が事務室で、二番・三番教室は壁が打抜かれて本が置いてあった。仮整理のものや、ホーレイのや、未整理本であった。太田君は出勤が少なかった。本の購入を担当しており、洋書は三越に頼み、和書は三昧堂に頼んで、風呂敷を持って出かけ、自分で運んで来た。それを整理したのが佐々木(暁)君。岩崎君は雑誌をやり、佐々木(良)・吉岡両氏が和書の原簿やカード書きをやっていた。何しろ本の新規購入は全く少かった。図書館の書庫はしょっ中、雨が漏るので、濡れる本を二番・三番教室へ運ぶのを柄沢さんと自分がやった。ホーレィ氏は初め本が残ったのを喜んでいたが、後に慶應は本を隠くすといって怒った。GHQとの折衝は柄沢氏がやっていた。学生の姿が見えるようになったので新館の二階西側の広い教室(三十三番教室)が閲覧室となり、とり合えず巡回文庫に使った本が並べられ、国分君青木君が出づっぱりで閲覧台にいた。戦争中、台湾拓殖株式会社に貸与した教室が連合国軍に接収され、西側の階段がその出入口になっていた。閲覧室の真うしろの踊り場にドラム罐が置いてあって、そこで進駐兵士が煙草を吸いながら女とふざけて閲覧室がうるさい。自分がビー・クワイエットといったら、オーケーといって上へ登って行ったことを記憶している。」ホーレィ文庫の話が出たが、それは後回しにしよう。接収した兵士は濠洲軍で風紀が悪かった。学生が静かに本を読む部屋の前で、プロフェッショナルな女とふざけ散らすなどとは、考えただけでもなさけないことではないか。

 この頃佐々木良太郎が歿くなった。休職届を出したのが二十一年一月でそれから間もなくである。在職期間三十六年八ヶ月、図書館の生字引として、長老として、昭和十九年の老齢者退職からも特別に除外されたこの老人も、其後に起った空襲による図書館の大破、敗戦、物価の高騰、生活の苦しさはその意気を沈ませた。幾分むくみのきた青白い顔で私生活の不平を言う老人を見るに堪えなかった。だがどうしようもなかった。

 焼失や接収などによって校舎が少なく、教職員の過剰を一時、図書館に割あてる政策がとられて、予科教員から田中市郎衛門、語学研究所研究員から川上宏一郎、亜細亜研究所図書係から杉田久雄などが相継いだが、短期間で塾内の他へ転任した。人が増えても仕事がない実情にあった。田中は語る。「一週間に二、三日授業のある日に出た。図書館では何にもしない。弁当をたべるだけ。まだ新しい本も出ないし、洋書も入らないので選書なんて仕事はなかった。主事である柄沢氏は書庫にある古い教科書を抜いて廃棄しろと言う。私は教科書をなくすということには反対だったのでしなかった。本当は太田主事が指図役だっのかも知れないが、殆んど出て来たのを見たことがない。何にもすることがないので、ライブラリアンはブラリブラリアンかと言い合った。そんな訳で自分で仕事を探がした。未整理のカードが山と積まれてあったのを誰も手をつけないので、私はそれにタイプした。」川上は教職員の館外貸出係であったが、その頃の状態で一日何人の出入があったろう。杉田は受入れとホーレィ文庫の処理が仕事であったが、ホーレィはたまに顔を出すだけであったから閑暇が多い。閑暇の多いところには不平が出る。当時の不平には生活問題もからんでいたから、堪らない。不平の対象となった柄沢主事は不運な時代の責任者であったと言える。

 二十一年十一月「大日本帝国憲法」が廃されて「日本国憲法」が公布され、とうとうたる民主主義の風潮は世の中を明るくする筈であった。二十一年十月には男女共学制実施の指示があり、男子のみの学園だった慶應義塾にも、華やいだ女子学生で賑う筈であった。ところが戦後の混乱は永く続いた。公職追放令は拡大されて、国の指導層にも安定がなかった。焼け跡にバラックは建ったが、衣食に欠乏して人々は右往左往した。学園は復員の男子学生と色彩の乏しい僅かな女子学生が見えた。それは戦争末期、男子の就労を禁止された頃の学園の方が余程、華やかであった。徴用逃れに教授達の令嬢が勤めにきた。モンペ姿ながらも華やかな衣裳で、一時は百花揺籃とまで思わせるものがあったが、戦後の女子学生にはあまり目のつく服装のものは見当らなかった。教職員も意気が揚らない。給料は物価に追いつかない。学校では焼け木を炭にして配給したり、日吉や志木で作った芋を配ったりしたが、焼け石に水というもの。他の学校と掛け持ちしたり、リュックを担いで物を売ったりした。いそがしい、いそがしいが口癖の人も、教室や研究や事務での多忙でない人もいた。世は麻のように乱れというと大袈裟だが、学園の中も夕方から風俗が怪しくなる。図書館の焼け跡に見張りが懐中電燈を向けると、女の叫びにかえって驚かされる。盗難も頻々とあるので事務室には物も置けない。タイプライターは毎日用度の保管室に預けて帰宅した。図書館の邦文タイプは学生局へ一時貸してそこで盗まれてしまった。

 医学部には労働組合ができた。それを一つのイデオロギーによる偏向なるものとして、職員の地位向上、生活安定を目指して全塾的な職員会もできたが、職員会の当初の最重要問題は最低生活維持のための給与体系の確立であった。図書館からも伊東、石川、国分が委員として出席したが、教員と職員との格差はさる事ながら、職員間でも塾監局と図書館とでは差があるのに驚いた。しかし、ただ袋をあけて初めて知る終戦前とくらべて何という相違であろう。この時代は格差といってもそう大して開いてはいなかった。誰しもが最低生活を確保しようとしていたから。野村館長が伊東の給料を見て、自分は三十年勤務して、その間、君を教えた。そして図書館長であるのに僅かこれだけの差であると慨嘆したのを聞いたことがある。二十三年四月の野村の給料は五千五百八十円で、伊東のは三千二百八十円であった。

 伊東という名が出たので図書館人事の変化に触れておく。二十一年三月慶應義塾規約改正によって、学部長の更迭が行われ、野村は館長兼任一本となった。主事は柄沢、太田の二人であったが、太田は二十一年四月待望の予科教授になって主事は兼任となったが、出勤はますます少くなり、二十二年三月には長期欠勤届が出され、二十三年六月死去した。もともと丈夫でないところへ、兵役の苦労やら食糧不足やらで、死に追いやったものと思われる。病名は肺結核であった。

 三辺清一郎は臨時事務主任心得の昭和十七年九月応召し、終戦と同時に除隊となり、二三度顔を出したが、郷里に一度行くといったまま消息を断った。図書館では彼の帰任を待って、二十二年一月以降、給料は送らなかったが席はとってあった。いつでも復職できるよう準備されていたが、遂に音沙汰がなかったので、二十五年四月に二十一年十二月に遡って退職と定められた。三辺はその後、関西の諸大学で教授になった。

 太田主事の長期欠勤が定まり、三辺の復職も危ぶまれるので、柄沢主事は後任を物色し、藤山工業図書館の主事であった伊東を二十二年十一月迎えた。伊東は当時としては珍らしく、慶應義塾内の図書館を異動させられ、所によって違った経験を甜めさせられた。殊に白金の藤山工業図書館は特殊図書館であると共に、公共図書館であり、館員の気風も、閲覧者の種類も全く三田と違っていた。前にはやや喧嘩っぽく、むきになる性質だったのが、大分改められたようであった。伊東の三田への転任の直前に、田中が研究室主事になった。

 この頃の館員数は十六名、その職務は

館長 野村 図書選択
主事 柄沢 GHQ交渉、図書館協会、私大図書館協会連絡事務
 伊東 総務、書庫整理指揮
 太田 (病気欠勧中)
 国分 仮閲覧室監督
 吉岡 和漢書原簿記入、ラペル貼布
 石川 洋書原簿記入、書庫整理
 岩崎 雑誌受入、配架
 杉田 図書受入、配架、ホーレイ文庫後始末
 川上 教職員館外貸出
 青木 書庫整理
 前田(悦子) タイプライター、カード書入、製本背書き
 伊東(栄二郎)
 毛利(信吾)
 白田(勝已)
 仮閲覧室出納、書庫受付、書庫整理
 高橋(豊) 掃除、茶給仕

 戦前と戦後と比較して大いなる変化は、戦前は館員といえば事務員まであった。給仕(出納手)、塾僕(用務員)は事務員に比較して給料の格差がはなはだしかった。それが戦後の民主化で平等になり、給料も生活給を基準としたので給与体系に大幅な変動が見られた。戦前は盆暮には教職員から募金して、彼らの手当とされたのが廃止となった。図書館内の親善旅行に全体が参加するようになったのも、戦後からである。

四 図書館復興まで

 昭和二十一年四月に学校首脳陣の交替があった。小泉塾長病気のため代理に高橋誠一郎が就任し、理事に永滝松之輔、橋本孝、小島栄次が選ばれた。それは二十年秋改選の筈の評議員選挙が行われないための臨時措置であって、二十一年十月改選が行われた挙句の首脳人事は、塾長に潮田江次、理事に永沢邦男、神崎丈二が定まり、二十二年の一月から本格的な復興事業に取組むことになった。長期復興計画に基づく資金の寄附募集は、戦後の困難なる経済事情にもかかわらず、強力に推進され、塾員も呼応して復興協力会が組織され、また維持会も拠金額を改めて加入者の増加を呼びかけ、さらに金融機関からの長・短期の借入金、「私立学校建物戦災復旧貸付金」や「私学振興会長期資金貸付金」などの低利資金の導入、塾債の発行、寄附保険の採用など、考え得るあらゆる手段をつくして資金確保に努力した。

 そして施工の第一着手は図書館の復旧工事であった。戦災をうけた学校中、一番さきに図書館から手をつけた大学が外にあるだろうか。多くの場合、本部をさきにするとか、収入源の校舎を優先的に考えるのが普通であるが、野村館長は大学の生命は図書館にありと主張していた。研究優先、教育次善の考え方の野村館長の主張は貫ぬかれた。しかしこれは独り館長の説得によるばかりではない。図書館の建物は前々から義塾の象徴のように考えられていた。それが鉄骨をむき出しにした哀れな姿は、塾に関係ある誰しもが、この建物こそ復興をさきにせねば…と考えた上のことであろう。加えてたび重なる水漏れの被害で、改修費を少しづつ支出し続けるよりは、一挙に大改修する得策を財務理事は考えたのかも知れない。五月に義塾創立九十年祭を終えた二十二年九月の評議員会で、図書館の復元工事が決定された。工費五百万円で、翌二十三年八月竣工の見込みの下に安藤組に請負わせることになった。十二月二十六日建築許可がおり、二十九日に上棟式が行われたが、戦後のインフレの真っ最中であり、資材物資の不足の折であったので、工事は難航を極め、遅延を重ね、二十四年五月までかかった。そして当初の予定と精算後の費用とを比べると六百万円の差が出た。いかに困難な工事であったかがわかる。

当初予算
精算費用
主体工事費 五、〇〇〇、〇〇〇・〇〇 九、〇九六、七六一・四五
設 備 費 二、四九〇、一〇一・九四  四、二四四、四三四・一一 
資 材 費 五六五、三二四・一三  五六五、三二四・一三 
什 器 費 二、八一三、〇八〇・〇〇  二、九三六、六三四・七〇 
 一〇、八六八、五〇五・〇七  一六、八四三、一五四・三九 

設計者は、斎藤誠二、主体工事は安藤組、電気は東光電気、衛生関係は城口研究所、閲覧什器は佐藤商店、装飾什器は高島屋が施工した。

 新しい図書館が出来るまでにもいろいろ準備が必要であった。まづ焼け残った書庫の整理が緊急であった。前節の館員の職務配置長を見ても多くの人が書庫整理に回されている。既述のように上層階の書架は防火のため撤去され、毀されていたから、まづ書架を作らねばならない。そして上層の図書は階下に降したり、別室に積んだりしてあったから、書架の出来次第、それを並べなければならない。図書の配架作業は根気が必要であった。それこそ二階以下の書庫には床といわず、廊下にも階段にも本が山と積まれてあった。それを取り崩し、番号を揃えて階上に運ぶ。伊東、石川、岩崎、杉田、青木などが仕事の合い間に手筈を決めて従事した。屋根裏に書架が出来ると地階に積まれた和装本をそこに配架したが、それには体育会の学生をアルバイトに使って柄沢主事が指揮した。地階から五階への階段を多人数で手送りしているうちに、若い学生は面白がって放り上げる。それを取り損んじて下へ落す。大量の移動だから止むを得ぬといえばいえたが、図書を取扱う者には苦痛でもあった。図書館は本を粗末にすると、良く愛書家は言う。こうした光景を見たら当然そう思うだろう。

 火の入った旧書庫の屋根裏は鉄骨を飴のようにまげていた。従って復旧後も床がもろいとあって書架を元のように多く入れることが出来ない。そこで従来の図書がそのまま、整頓出来るかが危ぶまれて、使用度の少い本の除籍が計画された。かつて田中が拒否した教科書の除籍がこの段階でも始められた。しかし結果的に見て大した効果をあげなかった。教科書は大体薄いものであるから、容積をあまり節約出来ず、却ってその後、教科書を作る教員たちから参考書を奪った形になって非難された。

 書庫の整備の進捗は疎開図書の返還を早めることが出来た。図書館の本を入れた倉の周囲を焼野原にした、甲府の寺田重雄邸のものは最も早く、二十一年の春、石川と杉田が出張して持ち帰った。二十三年六月には稲荷山のものを柄沢が、新潟県十日町は石川が手配して無事戻ってきた。まだ輸送には困難が伴う時期だけに、それだけそれぞれ苦心があった。稲荷山からの荷物は、その付近は林檎の産地であったので、林檎箱につめられて送られてきた。焚木に不足していた頃なので用務員が荷解きを手伝い、そのかわり争って箱は持ち帰った。大量の疎開図書は割りと早く戻ってきたが、分散して教授宅に少しづつ預けたものは戻るのが遅れた。館外貸出並みに督促すると、頼んだくせに失礼だとおこられた。

 図書館復興までの、も一つの大事業は和漢書分類目録カードの焼失を復旧することである。幸い分類した基本カードが一揃書庫にあって無事だったので、それを基に、夏休みを利用して筆写させようというのである。そこで書架と一緒に目録箱の製作がいち早く認められた。これよりさき、分類カード箱の焼失によって、図書館の分類を改正しようとする動きがあった。太田主事が二十二年に基礎案を作り、教員の意見を聞く会が二回開かれた。しかし分類替えするより、書庫内の整備を早くしてくれという声が圧倒的多数で、分類は従前のままとなった。この時の太田案は一橋大学図書館と義塾図書館の分類表を基にして作成したもので、既に出来ているN・D・CやU・D・C或はL・Cなどに基くものではなかった。それに教員に諮問したので、発言の多い分野と少い分野など精粗が出来て、今日から考えると実行しないでむしろよかったと考えられる。

 分類カードの筆写は一枚五十銭、それにタイプが一枚十二銭五厘と定められ、二十三年七月から始められた。館員に限らず、職員の収入を補う目的で、百枚一束で、自宅で黒インキのペン書きで筆写させた。物資はあっても、給料では買えない時期だったので応募者は大勢いた。自宅でも出来るというので家族がこぞってやる人も出てきた。百枚一束を一日に何束も請求した。当初は字の巧いまずいは別として鮮明に書く人に頼んだつもりが、本人でなく家族が書いたのを持ってくるとなると、初めの取極めが守られない。丁寧に見好く書くと、その筆写料は婦人職員が自宅でする裁縫の内職の金額と、ほぼ見合う程度であったのが、一枚いくらとすると多く書くために達筆の人程、崩し字が多い。これでは駄目だというと婦人職員は泣いてしまう。さらには図書館を知らない人が書くのだから、形が変ったり、誤字が多かったり、表題のままの字を普通のものに改めてしまったり、予期しない障害が出て、筆写とタイプの外に校正の必要が出来、これも一枚十二銭と定められ、タイプと校正は館員が行った。休暇中にと考えていたが到底出来ない。校正が遅れるので、翌二十四年三月までに十万枚が出来たにすぎない。大勢の人への仕事の割当て、回収、それに料金の支払など事務も面倒であったので、その後は館員中専任者一人を定めて残りを消化することになった。閲覧者が多く見る分類は十万枚のうちに入っていたから、残りは多少遅れても苦情も出まいと考えたのである。なお、この時採用したカードは標準カードであった。在来のものは慶應独自の大きさで、標準カードよりやや小さかった。標準カードは世界的に定められたものであるから、その後LCや国会カードの導入への便宜にもなる重要な変革であった。それというのも戦時中、カードの購入には図書館協会の斡旋があったが、慶應はその恩恵が受けられない不便が、身にしみていたからである。

 図書館における終戦処理期間中の最も不愉快な仕事は、前にもたびたび触れて後述を約したホーレィ文庫の返還事務である。昭和十八年三井信託から購入した猶太系英国新聞記者フランク・ホーレィの文庫は、二十二年二月四日付の連合国軍最高司令官からの命令により返還することになった。前述の石川の談話にあるように、終戦になって間もなくホーレィは日本に戻ってきた。そして自分のかつての蔵書が慶應の図書館に纒めて収められているのを知って喜んだ。その夫人―日本の女と一緒にきたこともあった。そのうちに慶應は自分の本を隠すといっておこり出した。図書館からいえばホーレィ文庫はまだ未整理であったから一カ所に纒っていない。戦災から守るために応急的に書庫の中や、ほかの部屋に積んだりした。また戦後は雨漏りのため移動したものもある。購入した図書だから、他の図書と区別して取扱わないことは当然であった。従ってホーレィ旧蔵書が焼けたものもあれば、残ったものでも書庫の中や、それも一カ所でなく、此処彼処に…そして新校舎の二、三番教室や一番教室の地階にもまぎれて入ることはありえた。ホーレィは初め書庫の中に纒められている本を見て喜んだ。そのうち勝手に書庫を歩いて自分の旧蔵本を見つけ出して、慶應は返すのを惜んで隠していると言いだし、何の本がない、彼の本もないと騒ぎ出した。英国公使館員がくる。GHQからも交渉にくる。館長の「敗けた国というのは、如何に惨めであるかという事は私はしみじみ感じました」は心の底からの感慨であろう。「氏(ホーレィ)は、大きなトラックを持って自己の書籍の箱詰を取りにこられるので、数回にわたってリストをつけて返す。ところが、その数日か一、二週間後にまた見えて、揃っていた本が一冊欠けている。一冊でも欠けていては、全部ないと同様だと私をどなりつける始末、全く泣いても泣ききれない話である。しまいには塾の図書館と教授の私宅をM・Pと日本の警官を使って家宅捜査をするとまでいう。」(柄沢回顧「三田評論」昭和36・7)

 慶應図書館が善意で三井信託から買って保存したのに、ホーレィは悪意で慶應が隠くすように宣伝するのは実に心外であった。もともと、買った当初から目録と図書とは一致しないで、スタインの本などは明らかになかった。三井信託から買ってもホーレィの夫人の父と称する人から、あれは自分の買った本だから、慶應でいらないものは夫人の生活のために返してくれの交渉が再三再四あった。それにもし応じていたら、なお慶應は悪人になったであろう。それらの本が終戦前、架蔵されていた書棚は、図書館が直接夫人から買ったので、夫人にも幾分かの金が渡った。ともかく分散されず、戦災で損傷はあったものの、相当の分量が纒って残っていたことは慶應が買ったればこそで、感謝して然るべきであるのに、教授の家を捜索させろとか、図書館に元から所蔵されていた本―津田左右吉のものなど―を自分のものだと強引に持ち返ったりした。また昭和八年に慶應図書館寄託を解約した亜細亜協会の旧図書を古本屋で見つけ、この通り慶應は預った本まで売るなどといい触らした。戦勝国人のホーレィの言い分は皆正しく、慶應の主張は全部否とされた。

 交渉は永くかかった。「三井信託からこの件について最初に私を訪ねてこられたのは、同社の長岡美一君であり、その後森本文夫、池田正男、伊藤正孝等担当者も変り、シヴィル・プロパティ・カストディアンの係官も幾度か変った。その係官の方々も私を訪問される度毎に、「本当に困ったことだ。アメリカ人同志なら良いのだが」といわれた。これはホーレィ氏が英国人だったためであると思われる」(柄沢回顧)二十二年二月二十一日付のシヴィル・プロパティ・カストディアンへの報告では「一、総数買入和漢書一四、六四三冊、洋書二、六三〇冊。二、既に返還せる冊数和漢書八、五三九冊、洋書七四二冊。三、疎開中のもの和漢書二七冊」洋書の返還冊数の少いのは大部分、三階予備室に置かれて焼失の憂き目を見たこと既述のとおりである。

 「尚現在調査探索中の図書にして来る二月二十八日迄に判明せるものは当日これを返還すべく努力中なり」戦災をうけた後の混乱せる書庫の中の状態は、当時いた人でなければわからない。従ってその探索が長びいた理由もわからないだろう。整理は空間があってこそ整理が出来るのであって、空間の全くないところは、積み重ねの移動にすぎない。「敗戦国民は総司令部の命令に従え」とホーレィに怒鳴れながら、その積み重ねの山をひっくり返して探し、二十八年八月末返還図書のないことを正式に解答した。ホーレィ文庫の全決済は三十五年八月、日本政府から補償金が八十五万七千九百五十二円、本塾会計課に入ってやっと終了したのであった。

 ホーレィが慶應から強引に持ち去った本は三十六年四月東京美術倶楽部において展観入札が行われ、慶應義塾図書館の蔵書印のある本が日本各地に散ばって、他の大学や愛書家から問合せがきた。それらの本は調査した上、ホーレィ旧蔵のものはその旨記した符箋を張るとか、消印を押すとかの対策を施した。ホーレィへ返却の際、せめてそうした措置がとられなかったかの問もあったが、以上のようにホーレィ自身強引に持帰ったものもあるし、また一方、当時の図書館は生え抜きの図書館員がいなくて教員たちが主要部分を占めていて、気付かなかったともいってよいであろう。

 最後に三十三番教室の仮閲覧室の状況を報告しておこう。二十年十一月、初めは巡回文庫本をならべたが、おいおい教養書・新刊書なども閲覧に供した。しかし二十二年三月調査では和漢書五百三十三冊、洋書百十三冊、計六百四十六冊という僅かさであった。にも拘らず、学生の利用は漸増した。多くは字典を借りて勉強するとか、住宅事情の不便のためであって、閲覧時間の延長を求め、三時が四時閉室に改められたのは、同年十一月であった。十二月にはGHQより米軍兵士用図書二箱が寄贈になった。赤や青など色彩のケバケバしいチャチな本ではあったが、内容は英・米の現代作家の小説などあって、文学部の学生に喜ばれた。翌年三月にはその図書の利用状況の報告を求められた。こういうことは在来の日本の慣習にはないことである。閲覧室に置いて自由に閲覧せしめ、特に学生には雑誌類が喜ばれている旨返答した。

 焼け残った書庫の図書は教職員と大学院生には館外貸出された。さすがに終戦を境に貸出が増えた。十九年度は三千二百四十五冊であったのが、二十年度には五千四百二十二冊にはね上った。図書の新規購入書は多くない。にも拘らず物価の騰貴は図書費を倍加させている。十九年八、三三五円。二十年二一、三三二円。二十一年三五、〇六〇円。二十二年一五一、八九七円。二十三年六八四、五八二円。二十四年一、三八三、七一〇円。塾図書館の窮乏のどん底とでもいうべき時期にも慶應義塾を愛する人からの寄贈は絶えない。大島雅太郎の香果遣珍千三十一点、加藤郁二の漢詩関係書二千二百十六冊、小島順三郎から徳川時代の和本を主とせる千四百余冊などは大部のものである。

五 戦後図書館の発足

 慶應義塾図書館の大修築工事が終って落成式が挙行されたのは昭和二十四年五月五日であった。この時から図書館の戦後が始まったといって良いだろう。書庫の整頓や目録の整備もまだ引き続いてはいたが、慶應義塾図書館規程も定められ、大学図書館として相応の蔵書の充実という野村館長の抱負も着手された。それらを述べる前に再建された図書館を概観しておきたい。

 五月五日の落成式は木造校舎四号、五号館の新設披露を兼ねて行われ、塾生主催の復興祭にも重なっていたので賑やかであった。午前十時三十分から大閲覧室で潮田塾長の式辞、野村館長の挨拶、続いて工事関係者への表彰・感謝状の贈呈があって、完成披露の茶話会が催された。会するもの東京三田会々長金沢冬三郎ら三百名、進駐治下の事であるから、GHQの軍人家族の顔も多く見えた。招待者には「図書館並大学校舎落成記念」絵葉書が配られた。

 再建された図書館は復旧ということであったが、こまかなことでは数々の相違が見られる。黒田鵬心が褒めた入口広間の大理石の柱と大階段の間に、コンクリートに蛇紋石をはった二本の柱が補強のために建てられた。そして階段の突あたりの見上げるようにそそり立ち、荘厳な感じをあたえたステインド・グラスが無くなって、その跡には透明な硝子が張られてあった。「ペンは剣よりも強し」を象徴した美しいものであっただけに、それを知っている人には寂しい限りだが、半面明るくなり、内部の淡青色の壁面と相まって爽快な気分をただよわせた。後年東京タワーが芝公園に建つと、その全容が真正面にこの硝子窓に入って一幅の絵ともなった。再建された当座しばらくわからなかったが、毎日そばの石段を登り降りするうちに、「八角塔の形が変らないのだろうか」と不審がる人が出てきた。図書館の外形は焼け落ちたわけではないから、形そのものは変るわけはないが、言われて見ればその通りで、あれかこれかと考えた挙句、それは八角塔の上の避雷針が前のより太く短くなったことが原因らしい。旧のは細く長く、そして方向を示す装飾が添えられていた。また正面二階の露台の遥か上方に、煉瓦の中に丸くふちどられた白いペンの浮彫りがあるが、その周囲が脱落していて、完成された外観と何やら不調和なものが感じられる。しかしこれは戦火から再建された建物たることを記念するために故意に作られたものだそうである。さらにまた、建物の背面から図書館を見て気づくことは屋根の形が変ったことである。旧は前と背のスレートの急な斜面の間に、ゆるい傾斜のトタン屋根があって、その周囲に鉄さくがあった。そこへは屋根裏から垂直の長い梯子がかかっていて、蓋を明けて人が屋根の上に立てた。戦前はよく館員がここから遠く両国の花火を見たものである。今はスレートがトタンに変り、登れる仕掛けもなく、背面から見ると何か不自然な突起したような屋根に変っている。またこまかいことだが閲覧室の机には福沢諭吉著述書の木版がとり去られて、ただ単なる衝立てに変り、その上に立てられた青い傘の電燈は、机の隅から隅まで照らす横に長い螢光燈に変った。福沢先生の木版が無くなったことを惜しむ人もいる。だが半面、摺られた黒い版が無くなったことは陰気さを少くし、螢光燈は青白いが落着いた光が、心をなごませ、夜の読書を快適なものにしたと言う人もいる。

 ここを屡々利用する人でも、ちょっと気づかない気の配りようを再建設計者はしている。ゴシック式建築の気分をそこなわないよう、内部の装飾や色彩に細かな注意をしている。閲覧室の円輪型のシャンデリアのその円輪の中に四つ葉のクローバーの模様の透し彫りがある。出納台の木彫にも、閲覧机の縁飾りにも、記念室の椅子にも、それらが変化を見せて鏤ばめられている。背面の光を考えて、階段のドームの天井が淡緑色、四壁が淡青色と変化を見せている。こうした点は数々ある。「仕上工事を良心的、高級なるものとした」設計者斎藤誠二の功績であろう。

 だが、八角塔の避雷針の太さは建築学の美観の上からその後も問題となり、改造を望む声は絶えず起っている。またスティンドグラスの復旧も古い塾員の気にするところで、東京タワーが一幅の絵ともなろうが、江の島土産の硝子の中の竜宮城みたいにも見え、嫌がる人もいる。しかしその再建には四十五年度の計算でも二千万円かかるそうである。

 建物の復旧と同時に館員の復旧もすみやかに行われた。太田主事を失って、その後任に石川がなった。川上・杉田は高等学校と幼稚舎に教員となって去った後も、すぐ埋められ、一挙に戦前平時の人員になった。大学を出たばかりの館員が、仮事務室から新しい建物に、机や椅子や図書などを手おくりで運ぶのは楽しい仕事であった。建物も新しい、人も新しい、新規採用には坂本典、坂本幸児、内田貞夫、大谷愛人、雇員には太田正子、落合喜久子、古沢美和、小林久子、三輪田知子、それに出納手四名、傭員三名増員され、館長以下用務員まで二十九名を数えた。

 五月九日開館。開館と同時に学生のデモがあった。図書館の入館には二十四年度の学生証の提示を求めたのである。つまりその年の学費を納めたものに限るとしたのであった。この事は小泉時代にもあった。学費納入をすみやかならしめんとする学校当局の要請に共に基づくものであったが、小泉時代は自治会が騒いでも結局はうやむやに終った。しかし二十四年のときの学生は戦場帰りの復員者が多く、また左傾化のはなはだしい時代でもあった。主として柄沢主事が矢面てに立って接衝したが、収まらない。館長が図書館入口で学生に取り囲まれて、結局、塾生たる証明があれば新学生証でなくとも入館出来るということで決着した。学費未納の学生も継続の意志あるときは、教務で証明書を発行するというのである。

 六月三十日記念室で落成の祝宴が前館長を招いて開かれたが、出席した客人は高橋誠一郎のみであった。小泉信三は火傷もいえて外出できるまでに回復していたが、野村館長の招聘には応じなかった。散歩の途次いつも見ているから…というのが拒絶の理由であった。野村に対する個人的反感であるのか、その頃学内に反小泉の風潮のあるのを知ってのことか、今となっては知る由もない。

 七月十八日「慶應義塾図書館規程」が制定された。従前の図書館規則は閲覧者に適用される閲覧心得にすぎず、図書館自体の管理運用に関するものではなかった。図書館規程が利用規則にすぎないのはひとり慶應義塾ばかりでなく他大学もそうであったから、此度の組織に関する規程はその点、画期的なものと言えた。そしてこれが昭和二十五年三田情報センター成立まで、多少の改訂は加えられたが、基本線としては存続していたから、全文を掲げよう。

 慶應義塾図書館規程

   第一章 総則
 第一条 本塾に慶應義塾図書館を置く
 第二条 慶應義塾図書館(三田)を本館とし別に分館を置くことが出来る
 第三条 本館の管掌する図書は次の通りとする
  一、本館備付の図書
  二、分館備付の図書
  三、大学附属の研究所及び研究室の図書
 第四条 慶應義塾図書館に図書館商議会及び図書館連絡委員会を設ける
 第五条 分館の規程は本館の規程に準ずる

   第二章 職員
 第六条 本館に館長一名を置く。その任期を二年とする。但その重任を妨げない
 第七条 館長は学部、附属学校若しくはその他の附属機関の長を重ねることが出来ない
 第八条 館長は館務を管掌し館を代表する
 第九条 館長は図書館商議会に諮り塾長が之を任命する
 第十条 慶應義塾図書館に副館長若干名を置くことが出来る。その任期を二年とする。但しその重任を妨けない
 第十一条 副館長は館長を補佐し、館長事故ある場合には館長の職務を代行する
 第十二条 分館に於いては副館長は常時館長の事務を代行し、対外的にはその分館を代表する
 第十三条 副館長は教授、助教授若くは主任司書中から館長が推挙した者を塾長が之を任命する
 第十四条 副館長は学部、附属学校若くは他の附属機関の長を兼ねことが出来ない
 第十五条 慶應義塾図書館に館長及び副館長の外に左の職員を置く
  一、主任司書
  二、司書
  三、司書補
  四、書記
  五、出納手
  六、技手
  七、傭員
 第十六条 主任司書は司書として在職三年以上の者とする
 第十七条 司書となることを得る者は左のいづれかに属するものとする
  一、高等学校程度の図書館学校を卒業し、本館又は分館に五年以上勤務した者
  二、大学に於いて図書館学を専攻し、且つ卒業後一年以上の実務の経験を有する者
  三、大学若くは専門学校を卒業し且つ図書館事務に相当期間従事した者
  四、その他図書館事務に相当期間従事し館長の特に適当と認めた者
 第十八条 司書輔、書記等に就いては別に定める内規に依る
 第十九条 慶應義塾図書館に嘱託若干名を置くことが出来る

   第三章 図書館商議会
 第二十条 慶應義塾図書館(三田)に図書館商議会を設ける
 第二十一条 本商議会は館長の諮問機関とする
 第二十二条 本商議会は各学部からそれぞれ推挙された二名づつの教授若くは助教授、館長、副館長及び主任司書によって構成される
 第二十三条 本商議会は毎年一回これを開催する。但必要ある時は臨時に館長これを開催することが出来る
 第二十四条 会員の任期は二年とする。但その重任を妨げない

   第四章 図書館連絡委員会
 第二十五条 本館、分館(研究所、研究室等)の相互の連絡のため図書館連絡委員会を設ける
 第二十六条 本委員会は館長、副館長、主任司書(研究室主事)その他、館長の必要と認めた者をもって構成される
 第二十七条 本委員会は年三回これを開催する。但必要ある時は臨時に館長これを開催することが出来る

   第五章 事務分掌
 第三十八条 本館に左の部、課を置くことが出来る

 一、
慶應義塾図書館(三田)に図書館学研究会を設ける
 二、
本会は司書養成の機関とし本館及び分館に勤務する者を主たる会員とする
 三、
本塾教職員であって図書館学に興味を有し館長の適当と認めた者は本会の会員となることが出来る
 四、
本会は随時これを開催し、会員相互の研究発表を行い又塾外から講師を召聘して随時講義を行う等会員の資質の向上を図る
 五、
会員中本館若くは分館に勤務する者は研究調査のため出張することが出来る。出張しようとする者は予め研究主題を館長に届出て、館長の許可を受けなければならない
 六、
研究題目によっては小委員会を設けて研究審議することが出来る

この規程の分析や説明に入る前に、この規程の成立過程を語ろう。昭和十九年六月野村館長が実現した直後、既にこの構想があって、規程案が作られた。それは三規程に別れる。「慶應義塾図書館図書管理規定」「慶應義塾図書館職制」「慶應義塾図書館協議委員会規定」で野村館長就任して柄沢主事らと協議して草案が纒められ、もし承認されれば館長就任と同様に四月一日制定となる予定であった。この時の草案と二十四年の規程とは異る箇所も多いが、根本思想は一つである。それは図書館監督という名称を、図書館館長と改めて任命した小泉塾長の考え方が反影していると思われる。「実際に申しますと慶應義塾の図書館長というのは、私からなのでありまして」という前述した野村の自信は、「高橋先生がおやめになる。でその後一寸小泉さん考えておられまして、私、実際図書館にたづさわりましたのはおくれまして七月だったと思います」小泉塾長がしばらく考えての挙句に任命された。小泉塾長はこの時、野村にじっくり意見を述べたのであろう。小泉の口からは何も語られていないが、野村が館長就任と殆んど同時に作製された、全塾的な図書館構想を打ち出した規定は、それを物語るものと思われる。

 小泉塾長の図書館観の変化の動機をなしたものは昭和十一年八月から十一月にかけて、ハーバート大学創立三百年祝典に参列のため渡米し、その機会に米国の主な大学を見学したことにあるだろう。その時の見聞は「アメリカ紀行」に収められているが、小泉はかつて留学して見た欧羅巴の、研究・保存の図書館とは違った図書館があることをこの時初めて知った。米国のカレッジの学生は授業時間は少ないが、自分で読書すること、殊に図書館を利用することが多いこと、そしてそれに対しては「よく教え、またよく奨励している」つまり利用者へのサービスが行きとどいているのに感服した。そして「大学の図書館に恐ろしく立派なものが多い」と言っている。九十九日間の旅程では、そうした外見的なことの観察のみで終っているが、各地で大学に関する書類を渡されたから、その後アメリカの図書館の大学内における地位などについても知ることが多々あったことであろう。チーフ・ライブラリアンの重要性などという言葉を小泉の口から聞かされた何人かが今日でもいる。野村は小泉の意を体して、慶應義塾内におけるチーフ・ライブラリアンとしての抱負を実行しようとしたのである。

 十九年七月一日に図書館協議委員会が開かれ、七日には図書館連絡会議というのが開かれた。それには三田の図書館の外に、藤山工業図書館、医学図書館、それにアジア研究所や三田の研究室の主な人を集めた。議題は図書の疎開の意志があるかどうかということであり、あれば協力してやろうという、野村館長の三田の図書館は本館だという意識から催されたものであった。また慶應義塾のものになった藤山工業図書館には十九年四月に、工学部長谷村豊太郎の館長兼務が発表されたが、その後野村は慶應義塾から派遣されて工業図書館に勤めていた、佐藤信彦や伊東弥之助に向って「本当は自分が館長なんだ。小泉塾長からそういわれた」と語ったことがあった。伊東は一つの図書館に二人の館長がいるということに戸惑ったが、明敏な佐藤は中央図書館長(当時はそういわなかったが)として、藤山工業図書館長の上にある館長だと、すぐ理解したと言う。

 この時の三規定案のうちの「図書管理規定」は、二十四年制定された規程の中の第一章に当り「職制」は第二章に「協議委員会規定」は第三章に相当する。制定規程の第一章は簡単であるが、「管理規定」は詳細である。第一章は簡潔すぎて後々まで論議を呼んだ。例えば「本館の管掌する図書」とはどういうことをいうのか。それが草案で終った「管理規定」には詳しく語られていて、求むる処を説明している。煩瑣にわたるが全条を記す

   慶應義塾図書館図書管理規定(案)

第一条
 慶應義塾図書館ハ慶應義塾大学所属ノ図書ノ管理ニ関スル事務ヲ掌ル
第二条
 図書館ノ管理スル図書ヲ分チテ左ノ二種トス
一、
本館備付ノ図書
二、
研究室研究所備付ノ図書
三、
第三条
 研究室研究所ニ於テ図書ヲ備付クル場合ニハ当該研究室研究所ノ主任又ハ部長ヨリ所定の図書備付証書ヲ本館ニ差出スヘシ
第四条
 前条ノ図書備付証書ニ記載ノ図書ノ購入ニ対シ、図書館長コレヲ承認シタル場合ニハ本館ハコレカ代金支払ノ手続ヲ取ルヘシ
第五条
 研究室研究所備付ノ図書ハ当該主任又ハ部長ソノ保管ノ責ニ任ス
第六条
 図書館長ハ管理上必要アルトキハ本館職員ヲシテ、前条ノ図書ヲ調査セシメ又ハ一時コレガ交付ヲ求ムルコトヲ得
第七条
 本館ハ第三条ノ図書備付証書ニ基キ図書原簿・索引目録等を作成シ、館内ニ備付クルモノトス
第八条
 研究室・研究所ハソノ保管ニ属スル図書ニ関スル事務ヲ掌ラシムルタメ、一名以上ノ図書委員ヲ置キ本館トノ連絡ニ当ラシムルモノトス
第九条
 慶應義塾北里記念医学図書館及ヒ同藤山工業図書館ハソノ購入図書ノ「カード」ヲ一葉本館ニ送付シ、本館ハコレヲ館内ニ備付クルモノトス

この草案の第二条の三の内容が空白であるのは医学と工業図書館を加うべきかどうかが、未確定であったからであろう。また第八、第九条はその後削除されたようである。

 これを見ると全塾に渉る図書管理を慶應義塾図書館が行おうとしたことがわかる。しかし十九年という戦況の逼迫した実情から、三田から遠く離れた医学と工業図書館をその傘下に入れることを迷い、また人員の少い折から図書委員を強制的に置くことをためらったものと見える。従ってこの時は三田の図書館と三田の研究室、綱町の亜細亜研究所に限り、その三カ所の図書購入には図書館長の承認を必要とした。そして図書館で図書原簿に記入し、索引目録を作成し、この限りでの綜合目録を館内に備えようと計画した。図書原簿などは新たに注文され、用意が出来ているところから見て、研究室・研究所の同意が得られたと解されるが、戦局の推移は実現までには至らしめなかった。せっかく作られた原簿類も書き込むこともなく、白紙のまま、今に残っている。

「職制」(案)は規程第二章より簡潔である。八条に別れ、館長は任期二年とし、その職掌は「図書館ノ事務ヲ監理ス」と簡単に書かれ、職員には主事、司書、司書補、それぞれ若干名を置き、それぞれ職掌を定め、なお事務上の必要から嘱託、雇員を置けるとあるのみである。従前の監督、事務員、雇員の名称からいえば、館長、主事、司書、司書補の名称の採用は非常な変化であり、館長の任期を定めたのも画期といえる。「協議委員会規定」も規程第三章より簡単である。協議委員は館長の依嘱に委ね、「館長ノ諮問ニヨリ館務ニ関スル事項ヲ協議ス」とあるのみである。

六 「慶應義塾図書館規程」

 昭和二十四年の「図書館規程」は、戦後の革新的な条項にみたされていたから、常務会・評議員会でも論議を呼び、説明のために柄沢主事の出席を求められた。この規程の革新的な点は三つある。一は中央図書館制度の確立、二は司書・司書補の身分、三は館長を選挙による推薦である。

 まづ第一章総則において三田の慶應義塾図書館が本館で、別に分館があることを言い、管掌する図書の範囲を本館・分館の外、大学に付属する研究所・研究室とし、図書館商議会と連絡委員会を設けて全体の統制を図ろうとした。しかしこの中央図書館的構想はこの時はじまったことではなく、野村館長就任当初よりのものであり、それは小泉塾長の意向に添うものであったことは前節に詳述した。本館分館との関係は

慶應義塾図書館館長は図書館商議会に諮って塾長がこれを任命する。任期二年。各図書館には副館長がいて、館長を補佐する。館長は三田の館長を兼任し、分館の副館長は対外的には館長と称する。副館長は館長が推挙したものを塾長が任命する。連絡委員会は相互の事務連絡のために設けられ、館長・副館長・主任司書および研究室主事を以て構成された。

 規程第三条の図書の管掌という言葉は曖昧であって、後々論議を呼んだが、十九年の規定では管理という言葉を使って、図書購入の承認と支払の手続、図書原簿記入、目録作成を図書館が行い、研究室・研究所の長はその保管の責任を持つのみであった。ところが管掌は単に図書購入の承認権をのみ図書館長が持つということで、本館は館長に図書の選定権があったから問題はないが、分館では副館長が選定し、会計支払請求証のみ本館に回ってきて、館長の承認を求め、その認印を得て確認とされた。研究室・研究所にあっては購入決定図書の請求証を主事が取纒め、館長に提出して、決定の認印を得た。つまり全塾にわたり館長の承認がなければ図書が備付けられないわけである。しかしこれは原則であって、遠隔の地にある医学図書館や、後に出来た日吉研究室などは当該地区の副館長が館長代理として、承認印を押した。図書購入に図書館長の承諾を必要とするということは、図書の重複を避けたい。図書館が遠く離れている場合は止むを得ないとしても、同じ三田の山に何冊もの同一図書を所蔵するのはもったいない、という考えに基づく。例えば一と頃アメリカン・ヒストリカル・レビューなど三田に五部もあったことがある。そうしたものを少くして、購入費を有効に使用しようという理屈は誰しも分っていても、思想統制だなどと反対する教員もおり、同じ研究室でも日吉は館長の承認を得ないで済むのは不公平だなどと言われた。

 十九年の規定は全塾的なものから始まったが、時局の切迫から三田とその付近にある本館、研究室、研究所に限られ、ともかく成文としては未確認であったが、事実としては認められ実行された。ところが二十四年の規程は本館と分館には図書の管掌ばかりでなく、副館長の人事なども規定されたが、研究室は中央図書館制度につかず離れずの関係に立って、絶えず図書館に反撥する立場になった。

 十九年にはすらすらと通過したものが、二十四年以降難航を重ねたのには研究室の成長ということが考えられよう。三田の研究室は大正六年に富岡甲子郎が係に任命された。場所はもと、図書館があった煉瓦の旧塾監局の二階北側の東に面する一と部屋であった。大学を真理の研究所たらしめるには、この貧弱な研究室ではだめだと主張したのは、幹事石田新太郎であった。「研究室のない大学は宛も鼻のない顔面のようなもので、奈何にも間抜けに見えてなりませぬ。復旧工事(大震災の)を終えたならば、西北から今の図書館を抱擁する堂々たる研究室の出現に努力すべきであろうと思います」(三田評論大正13・10)とまるで今日の三田情報センターを予言しているようなことを述べている。震災後、煉瓦の塾監局は取潰され、今の塾監局が建ち、研究室は初めは二階北側に、次いで三階北側に移った。昭和十二年現在第一校舎と称する建物が完成した次には、それと並行して同程度の大きさの研究室棟が建つ予定であったが、戦時下の不急建築と認定され、鉄材が下付されなかったので実現されなかった。その間、図書の増加もあり、部屋も狭くなったので、空襲が始まる直前、第一校舎二階二十一番教室に引越し、三学部が一室に書棚で区切り、共同使用した。十九年九月研究室設備委員会幹事に気賀健三が任命され、二十年三月には整備委員として松本正夫、島谷英郎、池田弥三郎(語研)伊東岱吉(亜細亜研)柄沢日出雄(図書館主事)がなった。事務員には富岡が大正十三年異動してからは、しばらく欠員であったが、この頃は女子一名が勤めていた。十九年の規定のときはこの様な状態であって、図書館に委せる態勢であったのが、戦後二十二年十月には平山栄一が研究室主事になり、数日にして田中市郎衛門と交代した。二十四年には田中主事の下に人員も整備され、図書選択の教員数も増加したので購入請求証の取纒めも煩雑になり、かてて加えて田中主事は図書館の柄沢主事とは仲が悪く、図書館長は「野村天皇」と呼ばれて若手教員から怖れられていたので、図書館と研究室との間は阻隔されて行く傾向にあった。

 しかしその間にも図書管掌はまがりなりにも続けられた。少額の予算を最大限有効に使おうとするには綜合目録が必要である。目録カードは各館および日吉研究室では一枚余分に作って、本館に送付された。三田研究室は人手不足を理由に拒んだので、購入請求証を基に図書館でカード一枚作製し、各館別著者名順の綜合目録が第三事務室の一隅に並べられた。

 本館分館の関係は図書管掌の外に、人事の選定・交流を行う意途を持ち、進んでは従来まるで無関係であり、疎外さえあったお互いの壁を漸次取払うことを願っていた。その具体的説明に入る前に、各館の成立過程を語っておきたい。

 四谷の北里記念医学図書館は初代医学部長北里柴三郎の死去により、その同志門下生の間に企てられた記念事業として、募金三十万円で、昭和十二年十月七日竣工したものである。義塾は北里博士との密接な関係から、医学部構内の土地を記念会に提供し、建物落成の上は管理経営は義塾にまかされるが、北里記念医学図書館の名称は永久に保存し、その利用は学内に限ることなく、医学関係者すべてに使用させることを約束した。このようにこの図書館は義塾に委託されたという形を永く続け、昭和十九年三月十七日になって初めて正式に、義塾に帰属した。館員は初め医学部事務員豊島金松が兼ね、建物竣工の十二年五月には高木武之助が招聘され、基礎作りをした。義塾帰属後は監督として鷲巣尚、谷口虎年を経て、二十四年四月草間良男が就任した。この頃、図書館規程が成立したので正式には草間は副館長、対外的には館長と唱え、図書館商議会の構成メンバーの一人として、発言に大きな力を持っていた。それというのも草間はスタンフォード大学医学部出身で、慶應では公衆衛生講座を担当し、古くからロックフェラー財団と関係があったが、終戦後、連合国軍の衛生福祉局のサムス准将と親交があって、医学部の復興には貢献する処が大きかった。図書館の修復、雑誌類の整備などもロックフェラー財団やチャイナ・メディカル・ボードからの基金によって賄い、図書館のアメリカナイズも急速に進んで、利用されやすい図書館としての道を順調にたどって行った。

 慶應義塾藤山工業図書館は大正四年藤山雷太の計画せる財団法人藤山工業図書館が基である。計画は古かったが、建物は震災などで遅れ、昭和二年九月竣工した。藤山は慶應卒業後、三井系の工業会社数社に関係を持った関係から、工業報国の志を以て、晩年この図書館の建設になった。雷太歿後は藤山愛一郎がこれを継ぎ、建物を増築し、十九年三月二十八日慶應義塾に寄附された。財団法人時代は中島睦玄が主事となり、同館内に科学知識普及会を設立し、外国の技術関係雑誌の論文抄録などを速報し、専門図書館として異色ある存在であったが、慶應に併合されると初め監督に佐藤信彦、事務員に伊東弥之助が派遣され、公開図書館であるとともに、工学部付属図書館としての色彩を強めて行った。戦時中は建物の三分の二は海軍省法務局に貸与したが、それがため楼上に焼夷筒の落下があっても、水兵らの消火するところとなり、無疵で終戦を迎えた。終戦後は連合国軍の接収を避けるため、模様替えを急ぎ、日吉で校舎を失った工学部の教室や三田の考古学研究室をいち早く導入するなどの苦心をして、保全を全うした。しかし工学部が溝口や小金井などの遠隔の地に移転するとともに、公共図書館としてしか存在の意義がなくなったので、二十三年末にはこの建物は売却して、三田の旧福沢邸跡に再建して学生らの便にしようとする案が可決されたが、買手が見つからぬまま、二十四年になった。この時の副館長は野村が兼任した。

 図書館規程が出来たときは分館はこの二つであったが、その後増えたものも一括して述べよう。

 図書館日吉分室が出来たのは二十五年五月であった。終戦前までは日吉に大学予科があって、その第二校舎の西北側一階全部が図書室であった。書庫二十坪、閲覧室百二十坪のものである。これは仮のものであって将来はもっと大きな図書館を建てたい。十三万坪を越える日吉の敷地に大学経営者は当初色々な空想を馳せた。小泉監督であったというから、昭和の初め頃であろう。「この時、小泉館長はじめ館員たちがつれだって、図書館建設地の下検分に出かけたことがあった。デコボコした丘の雑木林の中には松の大木が生え、栗林もあり実などがなっていた」と国分剛二は回想する。(塾監局小史)はじめは今日の記念館のところに大図書館をという意見であったようだ。しかし時勢が悪く、戦争は激しさを増す一方で、大図書館は遂に夢に終った。第二校舎は鉄筋コンクリートであったので、戦火も無く完全な姿で終戦となったが、すぐ連合国軍に接収された。そして図書室の図書や器具の撤去を求められたのは、翌二十一年三月であった。第二校舎を米軍のインフォメェション・アンド・エジュケェション・スクールとするからという理由で、即刻米軍の自動車が図書や器具を登戸仮校舎に搬出した。

 二十四年十月日吉接収が解除されたが、旧図書室は書架も机も椅子も何もないガランドウであった。復旧工事は戦前この図書室に勤務していたことがあるということで、伊東主事が派遣され、本館から岩崎、登戸で図書を保管していた江田範保がスタッフとして予定された。工事は万事元の通りということであったが、伊東が意図したところはなるべく明るい、気安く入れる図書室ということを念願とした。旧図書室は窓外に神代杉が植えられ、部屋を薄暗くした。器具の色も濃褐色であった。これは恐らく本館のゴシック様式の影響であったろう。それを変えて黄色にしたり、閲覧台を緑色にしたりした。又、本館でも藤山でも閲覧台は閲覧者よりも高く位置していて、裁判所の如く、風呂屋の番台の如くであったのを、閲覧者と係員の顔が同一になるよう低い閲覧机に改めた。それは多分マッカーサー司令部によって作られた日比谷映画劇場前の、日東紅茶のグリルが図書館となって開放された様式の影響が頭にあったことに依ろう。開室の時の図書は登戸に保管された旧図書室のものの内の和書のみであった。

 登戸にあった図書のうちの洋書は、日吉に新しく造られる日吉研究室に振り向けられた。研究室は二十五年上田保が主事になり、元の寄宿舎北寮を改造し、二十六年四月開室した。日吉分室は初めから分館として出立したので中央館との連絡は充分とれた。日吉研究室もこの時からの出発で、範を日吉分室に求めていたので、分館ではなかったが、中央館には協力的で、綜合目録用のカードも送ってきた。

 も一つは、小金井に本拠を定めた工学部の図書室である。工学部が日吉にあった頃、徳川武定旧蔵の戸定文庫を中心にした図書室があり、教授松山武秀が監督をしていたが、閲覧開始を見るに至らず、空襲で失われてしまった。そこで一時、藤山工業図書館を利用していたが、二十五年から二十六年十一月にかけて小金井に機械工学科教授室と同居した建物が出来た。鉄筋コンクリート二階建の書庫二十四坪と木造モルタル塗の閲覧室三十六坪、事務室十三坪のもので、監督は梅沢純夫教授であった。この方は新しくはあったが、三田と遠く離れており、教授の意向が強く、独特の目録カードなどが採用され、同一歩調に欠けた。

 この様に分館・分室は成立過程を異にし、本館とは全く別箇に運営されていたから、人事の構成・予算規模・施設や目録・分類に至るまで、何一つとして相違しないものはないといった状態であったから、こうした制度が確立されたからといって、始めから統制のとれたものが出来よう筈がない。しかし、この制度を育てて行こうという意志は各館にあった。思惑の相違もあり、時々の首脳によって消長の差はあったとしても成長への努力は絶え間なく続けられたといってよい。殊に人事において分館の主事はおおむね本館の斡旋によった。医学図書館の佐野輝夫、工業図書館の安食高武、工学部図書室の大鐘誠一など皆、分館の要請に答えたものであったし、人事刷新のための交流も多かったとはいえないが、話合いで行われた。図書の適切なる配置の相談も行われた。工学部図書室に工業図書館の洋雑誌を、語学研究所に市河文庫を、医学図書館に小泉丹旧蔵書を、斯道文庫へ平岡好道蔵書を移譲せる如き、又重複図書を書き上げて、慶應義塾内の適当な場所へ分譲するなどの仕事は本館の努力に挨った。

 中央図書館制度を発足させるに当って、分館が最も希望する処は、予算の拡大を本館に努力によって得たいということであった。しかし分館は、分館の所在する地区に付属し、その地区予算は独立採算制で、本館の属する三田と別の予算で賄っている。それら予算の合計は、三田本塾で集計され総予算を形成する。大まかにいって分権制である。従って分館はその地区の予算により作成され、本塾で一括した図書館予算を組み得なかった。従って分館が希望する図書費の拡大は本館の力では出来ない。せめては増額や臨時費の請求を、本館から理事に援護を求める程度しか出来得なかった。中央図書館制にのっとり図書館費を一本化して、図書館網の中で分配するなどは理想論であって、遂に出来なかった。

 本館には綜合目録が試みられつつあった。但し各館別である。目録法が一定していなかったからで、一定させるには時日を用することであった。又、分館、研究室によっては一枚余計に作る能力を有しないものがあって、全地区が揃ったとは云えない。又、綜合目録は本来各地区にあると便利であるが、複写の発達していない頃なので望めない。そこで昭和二十九年より始った月報(新刊目録)に全館の図書を登載することに切り替えられた。月報編纂の打合せなどは連絡委員会の格好の議題であった。その他、塾内の相互貸借、各地で行われる図書館司書講習会への推薦、文部省へ報告の図書館統計の一本化、国会図書館編纂の綜合目録への協力、慶應義塾総覧掲載記事などが相談して行われた。

 さて、第二の問題に入る。規程の第二章第十五条に図書館の構成員が示され、第十六条では主任司書、第十七条で司書の規程がある。これは当時論議がやかましく、翌二十五年四月に公布された「図書館法」に対処するものであり、規程の最後につけられた図書館学研究会の設置は、この研究会を重ねることによって司書の養成に勤めようとする、プロフェショナルな図書館司書を作ろうとする意思のあらわれである。図書館学研究会は早速、二十五年五月十一日に野村館長が「イギリスの図書館」と題し、次で六月廿二日には東洋文庫長岩井大慧が「北京訪書余談」を講演した。会場は図書館記念室で、館員の自由聴講であった。

 こうした研究会を重ねても、随筆を読むようなもので、館員としての教養にプラスになっても、専門家としての規準にはなり得ない。そこで「図書館法」発効によって、司書及び司書補の資格の確定を機械に、暫定的に司書、司書補手当をつける案が連絡委員会で検討された。暫定というのは「図書館法」は公共図書館を対象とし、大学図書館のそれではなかったからである。二十五年九月頃より他大学の意向などを尋ねたりして研究を重ね、二十七年九月司書、司書補には五百円から三百六十円の手当が支給されることになった。この時、同時に役手当三千円から千五百円、邦文タイピストなどの技能者には三百六十円支給されたから、塾当局の考えは司書手当を技能給と考え、図書館の専門職としての司書とは、大分へだたりがあると思われたが、兎も角も司書に手当がついたことは前進だと評価された。こうなると司書、司書補の資格を得ようと講習会や学科受講者が自づと増え、館員としての意識の高まりが出たことは争えない。

 司書手当がついたということはプロフェッショナルへの橋頭堡だと思われながら、その後、一向専門職制が確立されなかったのは、大学図書館における専門職の専門的業務とは何かということが明確でないことであろう。専門学者の集まりである大学内にあって、図書館の専門職的業務は非常に限られた分野になってしまうであろうし、他の事務系職員のなし得ない専門的業務とすると、図書館員になし得ない事務職の専門的業務もあることで、一種の技能給になってしまう。むづかしい問題である。

 第三の館長選衝方法に入る。従来は塾長の任命制であったのに対し、第二章第九条では「図書館商議会に諮り塾長が之を任命する」となった。図書館商議会は館長の諮問機関であると共に、銓衡機関でもあった。商議会の構成員は各学部推薦の教授二名宛に、主事以上の本館分館の図書館員を以て構成される。館長銓衡の見本として第一回商議会の模様を稍詳細に述べよう。

 当時の商議員は経済学部から高村象平・小池基之、法学部から島田久吉・津田利治、文学部から松本信広・厨川文夫、医学部から草間良男・谷口虎年、工学部から梅沢純夫・水野正夫であり、図書館から野村・柄沢・伊東、石川・安食・佐野の十六名であった。二十五年二月二十四日の第一回商議会には理事永沢邦男が出席し、館長候補を三名推薦する。但しこれ以外の人を選挙してもかまわないが、その時は一応理事会で諮って決定したいと説明した。議長として草間が選ばれ、当局推薦者の名が読み上げられた。それは野村謙太郎、間崎万里、前原光雄の三名であった。議長はこれ以外に適当な候補者があるかと尋ねたところ、草間良男、栖原豊太郎の名をあげた人がいたので、候補者が五名となり、単記投票の結果、野村が十四票中九票を得て当選、次点は間崎であった。

 館長の任期は二年であったから、二年毎に銓衡があった。銓衡の前年に新商議員が推薦され、その人々によって投票された。以後

昭和二十七年四月十七日 当選 野村 十六票のうち十四票 次点 草間良男
昭和二十九年三月二十五日 当選 野村 十六票のうち十一票 次点 松本信広
昭和三十一年三月十五日 当選 野村  十六票のうち九票 次点 松本信広

四回にわたって野村が連続当選した。商議員十六名のうち六名は図書館員であることが、館長の再任を重ねることになるという批判もあった。事実投票とするには人数が少なすぎた。誰が誰に投票したろうということが容易く想像され、館員には投票がやりにくかった。

 なお館長候補者に身分的制限を加えないところにも新鮮味があった。教授ばかりでなく、助教授でも、司書でも選ばれることがあり得た。しかし館長は名声ある教授がなるべきだという考えが、日本の大学の通念であって、図書館生え抜きの司書から図書館長は遂に出なかった。学長が諮問して館長を任命するのはどこの大学でもそうであったが、多くは教授会に諮ってのことで、選挙による例は真に少い。早稲田大学は二十四年九月に、館長選挙人会を作って選挙したが、構成員は学部長・教授主任・附属学校長・附属機関長であって図書館員は一人も投票権を持っていなかった。

 慶應義塾図書館規程は理想にはしるものであった。その革新味のある条項のどれもが、完璧なる実施を見なかったことは残念であったが、これが成立したのは「図書館法」制定の前であり、他の大学図書館から高い評価をうけたものである。

七 オリジナル・マテリヤルの収集

 野村館長はこれまで見てきたように、それぞれの場面で強固な決断力を以て、事物を処理して来て、著しい成果をあげた。しかし最大の努力は図書の収集と管理であろう。先づ図書館に於ける「貴重書取扱内規」が二十六年三月の商議会で討議され、可決されたことから記そう。

「一、
貴重書は貴重書と準貴重書とに分ける
一、
貴重書は館内の特別書棚に配列し館外帯出を許さず、館内の一定場所にて閲読する。但し展観その他特に帯出の必要な場合には公団体又は二名以上の責任ある者の保証、並びに館長の許可を必要とする
一、
準貴重書は館内閲覧は自由であるが、帯出には予め館長の許可を必要とする
一、
貴重書の選定規準は左の如く定める
1
洋書は第十八世紀以前のもの(一七九九年以前)
2
和書は江戸時代初期活字本以前のもの(一六二三年以前)
3
漢書は宋元版以前のもの(一三六七年以前)
4
著名人の署名したもの又は手択本等
5
福沢先生に特別の関係あるもの
6
出版年次については規準外ではあるが特に貴重と認められるもの。その選定は専門家の指摘せるものを図書館連絡委員会に於て審議し、リストに作成して教授会の意見を徴し館長の許可を得てこれを定める
一、
準貴重書の選定規準は次の如くである。
洋書においては大体一八五〇年以前のもの、その他前項の規定に準ずるもの」

この内規は貴重書をこれから収集するために作られたものではなく、寧ろ今迄別置され、閲覧に直ちには供せられなかった図書があまりにも多かったので、此際整頓しようという意味で作成されたと言った方が正確であろう。従前、そうした別置書には赤ラベルを貼られた。その中には真に貴重なものの外、思想関係による禁閲書、風俗関係のいかがわしき図書、館外帯出されると他の閲覧者が迷惑する最新の統計書などがあった。特に戦争中、禁閲図書の激増したのを、又永年にわたってその時々に禁止された図書に統一がなかったのを正そうとしたのである。内規による貴重書準貴重書に限って、思想関係や風俗に関する図書は大幅に閲覧されるようになった。

 野村館長の図書の収集の努力の中心は東洋・日本の原資料にあった。大学図書館は言う迄もなく、一つは学生の勉学に必要な図書を取揃えて、研究の便を計り、指導することであり、他の一は専門家のために善本を揃え、異版を集め、原本による根本的研究を可能ならしむること、この二つの使命を兼ねなければならない。この二つを同時に一つの図書館で行うことには大なる困難を伴うものであるが、学生に対する図書の収集については、かなり行きとどいていた。図書館に対して評価の辛い書誌学者長沢規矩也の言を借りると「各大学の付属図書館の中で前者(学生用)が徹底しているところは案外にもほとんどない。わたくしはかつて関係した各学校の蔵書は、ほとんど全部を片はしから手にしたが、東大などはこの点から観察するとだめである。わたくしが調べた範囲内では本学慶應を第一とする。各方面の参考書が実によく備わり、しかも受入れてから閲覧用に公開されるまでの期間が非常に短くて、大学図書館中最高の評価にあたいすると感じた。」(三田評論昭和39・4)これは戦時中、講師をしていた関係で知っていたわけである。

 他の一つはどうであろうか。これまで館長(監督)に経済学部関係の教授が多く就任した故か、海外の経済学古典書の収集の如きは誇るべきものであり、蔵書の数は多くなくとも、粒が良いとの定評は内外に認められていた。慶應義塾は洋学塾から出発した。福沢諭吉は東洋の学は西洋の学に及ばざる事を知って、洋学の特徴を採り入れることに専念した。その伝統がこの図書館の中に受け継がれた。しかし百年後の今日、福沢が生きていたら、なお同一態度を続けたろうかと野村は疑問を投げる。そして野村は言う。「今は単なる洋学塾ではなく、一大綜合大学である。創立以来、まさに一世紀を経て、その研究も広汎になった。殊に戦後アジア諸民族の覚醒は著しく、欧米学者の東洋研究も盛んになって来た。新しい観点から東洋学を見直すべき時期であると思う」(和漢書善本解題序)

 野村館長就任当初の大物の購入は市河三喜博士蔵書である。そのうち英文学に関するものは東京大学へ行き、東洋に関する欧米学者の研究書は慶應に譲られた。その仲介したのは西脇順三郎教授であった。十九年の戦争末期の折であったので、トラックの使用も出来ず、学生も勤労動員で留守であったので、厨川文夫を初めとする文学部の教授達が、牛込山吹町の市河邸から、リュックに背負って幾度か図書館へ運搬する労苦がとられた。これらの図書は欧米、中国、朝鮮、蒙古等の言語のものを網羅している稀覯なものであったので、新潟十日町への疎開の中に組込まれた。戦災で図書館の復旧が遅れ、整理も手間取るので、戦後語学研究所に移管された。その内容は「市河文庫目録」として言語文化研究所から三十八年出版されたから、容易く知り得る。

 敗戦による窮乏から、従来秘蔵されていた日本研究のための重要な原典が市場に出され、時に海外に流出するものも少なしとしなかった。かつて第一次大戦で敗戦国の貴重図書が戦勝国、殊に米国に大量流出した轍を、日本が踏むのを坐して見るのは悲しむべきことであった。資力不充分な慶應義塾の中にあって野村はなおかつ、それを防止しようとした。戦後、財閥解体、財産税の徴収によって窮地に立された三井家は、三井文庫を手離さざるを得ない状態になった。その所蔵資料は三井家三百年の文書・記録類など十万点にのぼるもので、近世社会経済史資料として貴重なものであった。野村は慶應で全部を買入れられない場合は、せめて帳簿類でもと考えて内交渉したが、金額の点で折合わず、そのうち米国へ搬出と定まったという噂も立った。三井の話は結局うやむやになって、土地・建物は文部省が引取り、資料は文部省史料館に寄託され、其後、独立文庫となって無事日本の地にとどまり得た。二十四年桑名藩文書四百六十二冊(御仕置類例集・所司代日記など)を、二十五年には安藤昌益の自筆本を含む昌益関係本を、二十六年には近世初期の医師曲名瀬文書一括、二十七年には新井白石自筆の日記を購入した。当時こうした高価な貴重資料を買いむかう姿勢にあったのは奈良の天理大学図書館であった。文化は東から西へ移ると悄愴する人もいるし、貴重書を天理あたりに買われてしまうのを傍観しているのは、国立公共図書館長の怠慢だと責任を追求する人も出た。そのさなか、市場に出た珍書は天理大でなければ慶應に入るという評判がたった。野村館長は学術的に価値のあるものは集める。値段はかまわない。高くても収集に努力する。その揚句、金の工夫をする。そして万一出来なければ、その時放棄しても仕方がないと考え、この方針を時の財務理事神崎丈二に腹を割って話した。神崎は賛意を表して、財務理事は金をつくるのが仕事だから努力しよう。そうしたものは一度逃したら悔を後に残すことになる。大いにやりなさいと激励した。館長と理事の呼吸が合い、収集の直接の接衝は主として司書阿部隆一がやった。阿部は十六年文学部哲学科卒業、文学部助手になったが、二十一年退職して、九州福岡にある斯道文庫に勤め、司書の経験をつみ、二十六年六月上京して図書館嘱託となり、二十八年九月正式に司書に就任した。

 阿部が最初に手がけたものは大正七年卒業生の卒業三十五周年記念の寄附金による古刊本の収集であった。一誠堂・村口書店などを駆けずり回って古刊経、五山版、古活字本等、二十八部六十三点の善本を購入した。二十四年から交渉に入って二十六年になって、やっと入手したものに元教授幸田成友の蔵書の一部がある。幸田蔵書の価値は多くの愛書家の等しく認むるところであって、その去就は注目されていた。換金の必要があって、その一部を手離すはめになった幸田博士の苦悩は大変なものであった。どの部分を手離そうか、どれを残してどれを譲ろうか、それが三年もの経過になった。図書館との仲介に文学部の教授達が中に入ってその調停に苦労した。「はっきり申しますが、先生はもう少し江戸っ子らしく、さっぱりなさらないと、ものごとはスムースに行くものではありません。楠林とても長年の御出入でへいへいいっていても、腹の中でどう思っているか分りません。一寸面倒の口ぶりを聞きました。先生はものに執着なさりすぎて物を失い、人を遠ざけておられると思います。暴言ごめん下さい」は仲介の一人で愛弟子の吉田小五郎の手紙の一節である。この時、図書館に譲られたものは近世政治・経済論著と町触などの法令書が主であった。

 幸田博士はその後二十九年五月に歿った。そこでその全蔵書を引きとることになった。量は八千五百冊、和漢書のうち和装本四千、洋装本二千、洋書八百冊、地図二百六十部その他であった。尤も図書館の蔵書と重複する洋装本は市場に出た。和装本は江戸時代の写本を中心に、古版本、お伽草子など幅が広く、洋書は東洋関係の極めて特色のある集書であった。和装本の中の幸田博士自慢の一つに、江戸時代の書林編集の書目類があった。幸田博士を尊敬していた横山重は、幸田文庫の慶應への収蔵を聞いて、好意を以て幸田博士の未所蔵分四部を図書館に提供して呉れた。しかし完璧とするにはなお四書目不足していた。それも横山の紹介によって京都の古書肆若林から提供された。こうして図書館は江戸時代書林編纂書目を全部収蔵し得たのである。

 幸田文庫の中にお伽草子類が数点あった。中にも室町後期と推測される「藍染川」は稚拙素朴な絵に、細字を以て科白を人物の傍に記して絵詞となして本文を補い、見るものをして感動と愛惜を覚えしめる。これが動機とは云えないかも知れないが、其後お伽草子の収集が初まった。三十年・三十一年の文部省よりの私立大学研究基礎設備助成補助金により、横山重収蔵の諸作品が購入された。その中の「鳥歌合絵巻」や「子敦盛」などは「藍染川」や「扇合物かたり」(朝吹英二寄贈)と共に、この種の展覧会や編著には欠かせないものとなっている。

 昭和三十二年には京都の公卿二条家より、慶長から明治に至る日次記(ひなみき)(公の事務日誌)が入手された。二条家は元禄の昔、尾形光琳・乾山のパトロンであったから、この日誌の中に行き来した記事が発見され、その紹介は学界の注目を浴びた。同年、九州人吉の大名相良家より相良文書の購入が決定された。これは義塾で古文書学を講じていた伊木寿一の推薦によるもので、七百年間、同地方の支配者であった相良家資料三千余点は、各時代各分野を通じ稀有の史料であることは当然であるが、既に史料編纂所の「大日本古文書」に印刷し、刊行されていたので、その購入には躊躇があった。しかし伊木講師の執心に押され、初めはロックフェラー財団の援助を得ようとしたが失敗し、次で文部省の助成金で購入に努めたが、偶々熊本大学でも同一助成金で相良文書をという計画に鉢合せして破談となり、最後に分割払ということに相良家が同意したので収蔵が決定された。

 以上のような纒ったものではなく、買い集めて体系的集書にしようと欲したものに近世名家の自筆稿本・手択本・書翰類があり、日本文学書を歴史的に一通りは揃えようとする希望もあった。前者は野村自身の学問的興味も手伝って積極的であり、前記の新井白石日記の外、荻生徂来の徂来集稿本、その他太宰春台・中井履軒・伊藤東涯・和学関係で狩谷掖斎・伴信友・平田篤胤のものなどがあげられる。後者は横山重から収蔵された室町末期文学書、小田隆二から購入した江戸初期文学書、更らには水上・馬場文庫の戦災による焼失を詑びる意味もかねて、明治初期文学書にも手を出した。これらは一大集書となるに至らず、野村はやめた。寄贈された主なものを次に挙げよう。二十五年七月極東軍事裁判の弁護人大原信一より厖大な裁判記録の寄贈があった。トラック二台で運ぶ程の量であった。軍事裁判関係では日本の無罪を主張したインド公使館からも寄贈をうけた。二十六年には柳満珠雄より父荘太郎遺蔵の和漢書があり、二十九年には折口信夫遺愛の寄贈本四種がある。久我家旧蔵の室町時代古鈔本で、うち「重家集」一帖と「林下集」二巻は戦前重要美術品に指定されたものである。同年には大正三年卒業生の寄附によって、福沢諭吉の父の百助の遺愛の品であったという「上諭条例」の寄附がある。百助がこの本を偶々手にし得た時、男子が生れたという報を得て、喜んでその一字をとって諭吉と名付けたという逸話のあるもので、塾にとっては真に記念すべき本といわねばならない。三十一年には松下隆章講師の斡旋で反町十郎収集の武家文書百八十点の寄贈があった。足利尊氏より徳川光圀に至る間の、有名な武将の殆んど全部を含むもので、内容は教書、感状、下知状などから沽券類も含まれて多岐である。

 寄贈のもので最大のものは斯道文庫であろう。財団法人斯道文庫は昭和十三年十二月、麻生太賀吉が九州福岡に設立した日本並びにこれに関聯する東洋文化の研究所である。太賀吉は九州大学教授河村幹雄の薫陶をうけ、河村の斯道塾に一時起居したので、創設の文庫にその名を採ったという。ところが二十年の空襲で財団の家屋その他研究施設は一切灰燼に帰し、僅かに書庫のみとなったので、財団法人は解散され、麻生産業株式会社が保管責任者となったが、死蔵を恐れて九州大学文学部に七年の期限を附して寄託したのは、二十六年三月のことであった。

 文庫の蔵書は約七万冊、内容は日本儒学、国文国語、仏教、国史、東洋史、中国文学等の和漢書で、その範囲内で江戸以前の刊写本と明治後の学術書がほぼ均衡を保って集められていた。この中に貴重本としては橘守部、松崎慊堂、安井息軒らの手稿本、書入本などがあり、日本儒学に関する未刊写本類と共に、その方向の研究には欠くべからざるものがあった。

 三十三年三月は斯道文庫の九大文学部へ寄託の期限であった。九大は元よりその寄託の継続を望んでいたが、麻生太賀吉は図書の保存のみでは満足せず、東洋古典に関する学術を研究する機関を設け、当初の理想を実現し得る大学への寄贈を望んでいた。野村には慶應義塾には亜細亜研究所が終戦と共に廃止されてから、真の意味の研究所がないことをかねがね残念に思っていたので、それを得られれば、それを足がかりとして大研究所の建設を目論見たいとした。しかし図書館長ではその創設は権限外なので、もし実現出来ざるときでも、図書館の外局として維持する。それには白金の藤山工業図書館の一隅を当てたいと考えて、その招致に熱心であった。麻生側も事業上、慶應出身者に知己が多く、また三十三年は創立百年祭も行われるのに祝意を表して、慶應義塾に文庫を寄附する決意をかためたのであった。寄附が正式に定り、その受納は三十三年六月で野村館長退任後であった。

八 文学部図書館学科の創設

 ここで昭和二十六年に慶應義塾内に創設された図書館学科のことを述べて置こう。初めこそ図書館学科は図書館と関係が薄かったが、前原館長の頃から次第に歩みより、佐藤館長の代になると、館長の出身が同じ文学部ということから、図書館学科と緊密な関係を持つ過程をたどるからである。

 第二次大戦の終結によって連合国最高司令官(SCAP)から日本政府に発せられた指令は「日本教育制度に対する管理方策」であった。文部省は総司令部民間教育局(CIE)の命に従わなければならない。戦時中禁閲された図書は解禁され、逆に占領政策に障害となる図書の没収が初まった。CIEライブラリーが東京初め各地で開かれる。アメリカ色一色に塗り潰されて行ったが、図書館に限らず、大学が、いや日本全体が資材不足の克服に、家族の生活維持にのみ懸命であった、その頃の事であるから、米国もしくは占領軍の言う侭について行くか、その後援を頼む方途しかなかった。慶應義塾図書館でも焼けただれた鉄骨を露出した建物と、埋高き図書の山をかかえ乍らも、CIEから指令された学術研究会議の学術文献総合目録特別委員会内の、技術研究会で計画した、学術文献総合目録調整事業の東京地区の末端館として、館員は徒歩でその調査に協力した。それは二十二年の早春であった。

 同年の暮には米国議院図書館(LC)クラップ副館長と米国図書館協会(ALA)ブラウン会長とが、国会図書館建設の助言のために来朝し、僅か一ヶ月の滞在の間に、その構想を覚え書として残し、その侭、国立国会図書館法として二十三年二月成立させた。そしてその夏、イリノイ大学図書館長兼図書館学校長ダウンズが、同図書館顧問として来朝した。そのダウンズが一年置いた二十五年六月再度来たときは、日本に図書館学校を創設のための委員長としてであった。この年の四月「図書館法」が成立し、図書館の奉仕機能が拡大され、それに伴って図書館員の資質向上が要求される。それなくしては新図書館法は完全に実施さるべくもない。そこで当然、司書講習所や講習会が生れた。それに対し、米国側ではALAに委嘱して、日本図書館学校創設委員会(JLSC)を組織して、検討が初められた。米国に於ける経験から、図書館学科を初めは米国の資金で作り、後に自立出来るように計画を立てた。司書の養成によって、民主的な奉仕活動を充分ならしめようとするものである。

 ダウンズは東京、京都、同志社、早稲田、慶應の各大学を歴訪し、独立の図書館学校を創設するより、既設の大学の中に一学科として、付設する方が良いと思い、更らに京都より東京の方が地理的に好都合と判断した。ダウンズは七月四日と十九日、慶應で潮田塾長と野村館長に会見した。この時、潮田は官学と私学との区別、新学科は私学に於てこそ、その特質を発揮し得る所以を説明したが、「しかし義塾は戦災をうけたので手狭であり、提供し得るものは教室二つに過ぎない」と語った。ダウンズ帰国後、数ケ月を経た同年末、ワシントン大学図書館学科長ロバート・エル・ギトラーが日本図書館学校主任の資格をもって来日し、再調査の揚句、慶應義塾を最適と認める旨の報告を、二十六年一月二十一日付でCIEに提出し、協定事項の確認を経て、正式通知がCIE局長ニュージェント中佐から塾長宛にあったのは二月五日付であった。当時、塾の外事部長であった清岡暎一は、戦災後の教室の貧弱さからいって、慶應が撰ばれることは到底望み得ないと思っていたのだが、「結局、塾の精神的特長が物的不足より高く評価」されたのだと述懐しているが、事実そうであったろう。ギトラーは英訳「福翁自伝」を手にして、感激して慶應にきめたそうである。

 日本図書館学校(JLS)は外部に対しての名称で、大学としては文学部に一学科増設ということであった。米国はその創設費として、二十六年四月から二十七年六月まで十万弗を支出し、講師五名(内一名は主任)を派遣する。この期間中、学務は主任と学部長との協議により行い、ALAとSCAPとの共同監督下におかれる。そして二十七年六月以降は義塾が負担するという約束であった。この事実が図書館に知らされたのは二十六年一月末であった。折から柄沢主事はガリオア資金並に米国陸軍省及び国務省の招聘によって、図書館管理伝習のため二十五年十一月米国に出発し、留守であった。又、二十五年十二月は塾長の改選期にあたり、野村館長はその有力候補の一人にあげられていた関係もあって、図書館には欠席勝ちであった。そこでギトラー主任と図書館側との最初の接触は、清岡外事部長を通訳にして伊東主事があたった。それは二月十日の事である。清岡は義塾の方針として、図書館学科を育成せねばならぬから、最大限の便宜を図るよう希望すると述べた。伊東は義塾の方針とあれば協力するのが当然であるとして、図書館学科の実習室を目録カードが並べてあった、第三事務室全体をあてることに同意した。ところが野村館長が間もなく出勤して、貸与面積が広すぎるといって、縮少交渉をしたので、図書館の中に教室を持って、学生を養成するのを理想としたギトラーの教授法は変更された。そこで図書館に一番近い建物の第二校舎が選ばれ、学校側では見晴らしの好い二階を、というのを断って一階にしたのも、ひとえに図書館に近くという考え方であった。そして縮少された図書館内の一隅は、レファレンス・ルームに宛てた。

 数日後、レファレンス・ライブラリアンとして布哇公共図書館のテーラー女史が来た。ほかの訪問教授も間もなく到着し、あとは開校準備に目の廻わる忙しさであった。図書館側でも三月には柄沢が帰国し、ギトラーと会い、両者の協調はうまくゆくかに考えられたが、中々そうはゆかない。学科の教授は皆温厚な良い人柄であったが、風習の違い、言葉の不自由さは誤解も生じやすい。四月七日に開校式が行われ、続いて授業となったが、一番初めの図書館とのトラブルは、学生の図書館入館口のことであった。当時、図書館は教員と学生との出入口が違っていた。教員は正面玄関から入って、第三事務室で目録を検索して、書庫へ入る。学生は玄関の向って左を三、四段降りた地下室で学生証を出し、閲覧用紙をうけとって入る。地階から階段を二度登って、現在の小閲覧室のところに目録があって、閲覧台で図書を請求した。玄関と階段の間には木柵があって、館員だけが事務上通行する開閉口があった。ところが図書館学科のレファレンス・ルームは第三事務室の一隅にあったから、その利用にはどうしても玄関から出入せざるを得ない。ところが図書館学科の学生でも図書館を利用するには他の学部学生と同様に、地下室から入らねばならない。それを面倒がって、図書館学科レファレンス・ルームから、館員の通用口を通って館内に入ろうとする。館員が目撃すれば咎めるが、館員がいないと入る者がいる。これは図書館の管理の上から困ると考えられた。開校してまもなき五月四日、ギトラー主任は伊東に図書館学科学生に対する意見を求めた。優秀な学生揃いだと答えれば満足したろう。事実、大部分は優秀な学生であった。現在のような純然たる学生は少なく、現職の図書館員もいたし、CIEの司書や、中年の人など異色あるものであった。その中の一握りの不心得者が規則を破って、柵を越して階段を登るのであったが、伊東はそれを指摘して、将来の司書たるものが図書館の規則を破るとは何事かと言った。ギトラー主任は大声をあげて怒鳴った。言葉がはっきりしなかったので、伊東が恐縮しないので、なお怒った。こうしたこともあって、ギトラー主任の心は図書館に対して心平らかでなかったろう。しかし、それでも図書が増えて書柵増設の希望があるとき、その他色々な注文はすべて通訳をつけて伊東に申出た。初めて会った図書館員だから心易かったのかも知れないが、伊東は迷惑がった。ギトラー主任に好感を持たず、館内ではワンマンであった野村館長に、伊東の口から取継ぐのは全く困った。

 二十七年六月までの援助打ち切り後は、ロックフェラー財団の援助を依頼した。五ヶ年計画でその援助は年々減少し、五年目には慶應だけで経営するという方法で、折から来日した同財団人文科学部門のファーズ理事を通じて申請し、これが受理され、二十七年以降も毎年人を替えて、訪問教授を迎えることが出来たが、ギトラー主任のみは三十一年五月まで引続いて滞在し、図書館学科の面倒を見た。

 この間も絶えず注意やら、要求やらを図書館に申し出た。瑣細なことは省くが、一つ、いつまでも尾を引いて頑迷固陋のように批判されたのは、学生を正面玄関から出入させよという主張に耳をかさなかったことである。玄関広間にカード目録を配して、受付を玄関に置き、教員と同じように出入りさせたら好いと言うのである。伊東もそれについては研究し、多少の習慣的困難さは伴っても、出来ないことではないと野村館長に進言したが、例によって反対であった。野村には三尺下って師の影を踏まずといった程ではないにしろ、教えるものと教わるものの上下はあるべきだとの考えを持っていた。そうした点は封建的とも言えた。話は古く高橋監督時代に遡るが、日米開戦が勃発すると同時に、空襲に備えて交代で宿直する案が、三辺主任代理から提案されたことがある。その時、伊東は空襲があれば宿直者は当然死を覚悟せねばならない。そうした決死の宿直者は優遇されて然かるべきで、館長室を宿直室にして貰いたい。宿直室と予定された半地階の室で、煉瓦に埋れて死ぬのは嫌だと言い張った。其後、実際の空襲が来たとき、そんなにすべてが死ぬものでもなく、また爆弾などが落ちたら、一階の窓の明るい館長室より、地階の方が爆風除け位であったら、寧ろ安全であったに違いないが、開戦当初はそこまで考えが及ばなかった。三辺と伊東は対立して、物別れになったが、それを聞いた野村はまだ館長ではなかったが、伊東を呼んで「館長は主人だ。館員は奉公人だ。奉公人が主人の部屋に寝るなんてことがあるか」と叱った。野村が館長になってからも、館長の出入口は玄関と決めていて、何かの用で図書館に戻ることが夜遅くなっても、館員の誰れかが待って、玄関を鍵で明けねばならなかった。そういう人であったから、教授と学生とが同一玄関から通行するなどは、思いも寄らなかったのであろう。学生と教員の出入口が別であったことは批難の的となった。図書館が古いというときには、必ずそれが持ち出された。

 しかし野村館長も永い図書館長の終りの時分には大分変って来た。いや大いに変った。昭和三十一年九月、戦前からの親日家であったシンクレアー教授の作ったメモリアル・チェアーによって、布哇大学へ招聘され、翌三十二年二月帰国されたときは、布哇大害図書館を見て、サービスに徹した閲覧方法に共鳴した。出発前、閲覧室の一隅に開架書棚を二連置く案を提出したときに「自分は今の学生が信用出来ない」といって肯んじなかったことがあって、止むなく網棚の書架をならべて学生に指で押させる、閲覧方法をとっていたが、帰国後には開架でなくてはならないに変った。折から商学部新設のための校舎の増築と物理学教室の増設の必要から、日吉図書館分室の移転が決まり、そのかわり新図書館を建てることになった。降って湧いたように、急な諮問が宮崎澄夫理事から図書館に来た。日吉の学生図書館なら当然全館開架にすべきだと考えながらも、留守をしている野村館長の平生の言動から推測して、入口に監視員を置いて、学生も書庫に入れる形式の図書館を進言し、三菱地所部と折衝して設計図も出来上った。そしてそのことは布哇の野村へは一応連絡してはあったが、野村は帰国して登館するとすぐ、設計図を持ってこさせ、詳しい説明をさせた。そして宮崎理事に撤回を求めた。野村館長の要求する図書館は全面開架であり、その上、レファレンス・ルーム(これは前の設計図にもあった)や安楽椅子を置いて気楽くに読める部屋や、ジスカッションの小ルームなど、数々の部屋を含んだ図書館で、折から来朝中のライル教授の意見もとり入れたという。しかし、それは無理と思えた。敷地も定まっており、百年記念の募金の一部を費用にあてるのであるから、資金にも限度がある。困惑した設計者は全く新しい設計図を、一回、二回と持参したが、館長の気に入るところとならない。終いには「自分がいてはいつ図書館が出来るかわからない。目をつぶる」といって、出来たのが現在の日吉図書館である。館長には不満だらけであったろうが、全面開架の建物は兎も角も出来た。しかし其後、理事団の全面開架尚早論によって、閉架式になってしまった。全面開架につくられた部屋に、わざわざ仕切りをして閉架としたのである。理事らは開架が日本の大学に適するや否やを調べに、立教大学図書館に見学に行った。当時、全面開架であった同図書館の館員は、紛失図書に対する係員の精神的苦悩を強調したそうである。

 図書館と図書館学科はこう見て来ると全くの不和であったかと思われるかも知れないが、勿論良き影響もうけている。二十七年目録室を改造して図書館のレファレンス・ルームを造った直接の動機は、やはり図書館学科のレファレンス・ルームが図書館内に置かれて、いつもそれに接し利用していたからによる。初めのうちは大学図書館にこうした施設が必要かどうかが議論された。一部の館員はカレッヂまでは有用だが、大学図書館には不必要だと主張した。ところが二十六年の夏、図書館学科主催の図書館専門職員指導者講習会が慶應で開かれたとき、館員は十名それに参加した。其時チェニィ教授の指導するレファレンスのウォークショップに参加したとき、図書館内の実際の問題で論ずるということから、慶應の図書館にそうした施設がある方が良いかどうかから始まって、作るならどんな資格の司書が適当であるか、どんな図書を置くべきか、という風に進んで行き、とうとう「大学図書館における基本参考図書目録」作成という具体論になってしまった。反対論者もいたグループをこの様に指導して行ったチェニィ教授の手腕は買って良い。幸いレファレンス・ルームの設置に野村館長も反対しなかったので、ぐんぐん計画が実現にまで押しすすめられた。二十七年三月図書館学科を卒業した井出翕を最初のレファレンス・ライブラリアンとし、補助に毛利信吾が坐って、同年九月発足した。室は十七坪、四方の壁面にレファレンス・ブックを並べ、閲覧者は接架して自由に本を手にし得た。そして司書は利用者の質問に応待した。いや応待したというよりは、こちらから探がすものは何かと問いかけるといった方が正確であろう。図書館員に質問して、答を得ようと考える人は当時、いないといってよかった。レファレンス・ルームを従前の辞書室位に考えていた人々にとっては、驚きであり、他の大学図書館からの見学や、該室の目録の請求などもあって、一と頃図書館の名物見たいに思われた。井出は一年でやめ、国際基督教大学に移って、更に大きなレファレンス・ルームを作った。井出の後任は河野徳吉、次で大谷愛人、丸山信とこの室の主任をうけ継いだ。

 最後のギトラー主任について補足する。彼は初め在任一年の予定で、ワシントン大学から休暇を採って来日した。その時は日本占領軍の招聘によったものであったが、任期中、平和条約の調印によって援助が打ち切られるはめになった。それでは図書館学科の存続はむづかしい。そこでロックフェラー財団からの肩替りをえる努力をし、彼自身もワシントン大学の好位置を棒に振って、滞在を延期し、学科の基礎確立のために挺身した。そして五年後、藤川正信・中村初雄・浜田敏郎・渡辺茂男の四人の教員を養成し、後顧の憂なく、次の主任橋本孝に席を譲って日本を去った。慶應義塾はその時名誉博士の称号を贈って感謝の意を表した。彼は独身で、身うちには母親が、桑港の老人ホームにいた。親孝行な人で母親にはよく手紙を出していた。人生の一番良い、働き盛りの期間を図書館学科の建設のために献身した功績は、高く評価されねばならない。


第六章 この十五年

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一 野村館長から高村象平へ

 野村館長の図書収集の方法は予算を無視した強引なやり方であったが、それを是認する財務理事が健在のうちは実行しえた。ところが、そうしたやり方に不快さを持つ人々もでてくる。野村館長が斯道文庫の寄贈を得て、塾内に研究所を設ける計画を商議会で発言したとき、商議員の一人は、物事はすべて綜合的に計画をせねば駄目だと暗に反対の意見をのべた。昭和三十一年六月潮田塾長が退任して、奥井復太郎が塾長となり、町田義一郎・宮崎澄夫・松本正夫の三人が常任理事と決まり、あと二年にせまった創立満百年の式典と記念事業にとりくむことになり、翌三十二年に十二億円の資金募集が行われた。このうちの十億で戦災による施設の損害の完全な回復を目論んだのである。一切をあげて建物の復興を、というのが新理事の念願である。それには経常予算はその限度内で賄われなければならない。ところが野村館長下の図書館の図書費は毎年予算外支出がかさむ。日吉図書館の新設にも既述のように苦情が出て、設計変更を余儀なくされる。斯道文庫も寄贈されるのはよいとしても、それを研究所に拡大しようと主張する。予算厳守を立て前とする新当局者にとって、野村の存在は事業遂行上の障害と映って来た。

 折しも三十三年三月の館長改選の商議会がせまってきた。奥井塾長は野村より後輩であり、平生親交の間柄であったので、この機会に円満に退任するよう、商議会開催の二日前に、自身わざわざ野村邸に出向いて、事情を詳しく説明した。野村は承諾したのである。そこで三月十三日の商議会の当局側からの推薦者はイロハ順で西脇順三郎、高村象平、小池隆一の三名で、この時は商議員から特に推薦者も出なかったので、上記三名について投票した。その結果は

  高村象平 九票(十八票中) 次点 西脇

 であったが、投票中には推薦者以外の名前も入っていた。

 館長の更迭は、野村にとって十一日奥井塾長から言われるまで予想もしていなかった。塾長も理事も自分より後輩であり、斯道文庫の受入れも多少の躊躇はあっても承認され、当座日吉の旧寄宿舎南寮を小改造して保管するということになり、荷物の引き取りに阿部を九州福岡に三月三日に、上機嫌で送り出したばかりである。従って九州の阿部へ送った長文の手紙は、忿懣をぶちまけるといったものであった。しかし後任は高村だから変な真似はしないであろうから、辞めるなと追い書きしてあった。後任の高村もすぐ野村邸へ相談に行った。「自分の思うようにやれ」と言われたが、本心はそうでないことは顔に出ていたとは、後年高村の語るところである。野村は図書館長の地位が気に入っていた。前に述べたように、何より本が好きだったので、自由に買える地位を手離したくなかったのであろう。しかし奥井塾長の懇請にあって同意せざるを得なかった。そして館長の後任が、自分の弟子である高村に廻ったのは、せめてもの慰めとなったかと思われる。

 野村の退任によって館長の長期在任の時代が終った。監督の田中は十六年、占部は二年だったが、其後の小泉も十年、高橋も十年、野村は十四年在任した。しかし高村が三十三年四月就任してから、前原光雄、佐藤朔、高鳥正夫と続いて、四十五年三月、一応図書館が終焉するまで四代、平均すると三年である。これは偶然であろうか。いや、それは塾長の任期に関係がある。田中監督時代の塾長鎌田栄吉は在職二十四年、林毅陸が十年、小泉信三が十三年、潮田江次が九年、続く奥井復太郎は四年、高村象平が五年、永沢邦男が四年、大体において昭和三十年代以降更迭が頻繁である。塾長の更迭が館長の退任に結びつく。塾長の任期の短縮は戦前、戦後の詮衡方法の相違によると思われるが、その背後には私学の財政の不安定、更らには激動する社会にあることは否むことは出来まい。

 高村館長の就任は三十三年四月で、退任は三十五年七月であるから、正味の在任は二年と三ヶ月である。就任に際しての言葉に、文字通り図らずもの選任であるだけに、吐露する抱負も持ち合せてはいないが、前館長が戦中、戦後の十四年間にわたってきずきあげられた運営方針がある。自分はその方針に添って、前館長の鴻業をけがすことのないように戒心して行きたい、と語っている。師に対する謙虚な言葉であるが、野村館長が中途で放棄させられた仕事の継続は完遂されたといって良い。前館長退任の挨拶に「ただ私として非常に残念であり、且つ亦、後に来る人に非常にお気毒と思いますのは、御承知の図書館の増設ということ、書庫が一杯であるのに一向増設をやってくれない。せめてこれだけは私が自分でやって後へ譲りたいと思っておったんでありますが、甚だ微力で遂にこれを成就することが出来ない。但し、これは遺言として後へ残す、理事は遺言を尊重するだろうと思います。しかしその他の点において、実は今、いろいろな中途半端な仕事が沢山ありまして、工学部関係、日吉関係、非常に厄介な仕事を実は残してしまったのです。」と色々いわれているが最大の難問題は図書館の増設ということであった。

 野村館長は大図書館の建設の希望を持ち続けた。今の図書館は明治時代に創設した建物を、単に復旧したにすぎない。近代的施設にするには新しい図書館を建て、今の図書館は福沢記念館乃至考古学陳列室として博物館的なものにすればよい。大図書館の敷地は現在の南校舎の建っている場所が当時は焼け跡の広場であったので、其処か、或は伊太利大使館の区画と考えられていた。当時伊太利大使館はもし適当な代替地があれば、慶應義塾に譲渡してもよいとの意向があった。商議会は二十五年以来年一回乃至二回開かれたが、その度に繰返される問題はこれで、百年記念事業として最適だから是非実現するようにと激励されたり、或はアメリカの財団の援助を求められないかを討議したりした。結局は財政の問題で理事の承諾を得ることが出来ず、妥協として百年記念事業募金十二億円から、四千万円をさき、現在の図書館に書庫一棟を建増することになった。一時糊塗的な建増しには大不満であったが、それとても中々着工されない。初めには予期しなかった日吉図書館の方が先きに手をつけられたのに、本塾図書館はその侭、放任された。図書を買っても、寄贈されても入れるべき書庫のスペースもない。日吉の図書館が出来たら星文庫か、小山内文庫を移そうかなど考えられ、商議員の反対を買ったりした。そうした状況で高村館長に引継がれた。

 当局側には当局側の理由がある。記念建設事業にも着工の順位があって延ばされたことであろうが、高村館長時代になってのことだが、若しかしたらアメリカから資金の援助が期待出来るかも知れない希望が一時でたことがあった。三十三年末から翌年一月にかけてフルブライトの訪問教授として来塾したイリノイ大学教授マックス・フイッシュが、慶應義塾図書館の古くして狭隘なのを見て、全然新らたな別種の図書館を建てる必要を力説し、永い伝統と開放的である慶應義塾に対しては、アメリカの財団から寄附を得る見込みがあることを語った。その話を教授沢田允茂も聞き、別の席で清岡暎一も聞いた。そして両人から松本正夫理事に語られた。乗り気になった松本理事は三十四年三月新図書館建設委員会を発足させ、その下に専門委員会をつくって、四月十三日に米国図書館協会の国際部長ジャック・ダルトンの来塾予定があったので、それに間に合わせるよう、突貫工事的に計画の骨子を作った。専門委員会は三月七日に初会合して、松本・清岡の二人から趣旨の説明があり、文経法商の各学部から二名宛、図書館学科から四名、図書館から三名、計十五名に工務課員一名を加えて、四月三日最終草案を書上げ、六日建設委員会の承認を得た。

 その要旨は、新図書館は今の図書館の増・改築にあるのではなく、新しく建てられるもので、その際、今迄の図書館は新図書館と関連して機能を発揮させるよう考える。新図書館は従来、ややともすれば研究・調査及び教育機能に効果的に結びつかない点があったのを是正し、一施設内において両機能が有効的に発揮されうるよう考える。蔵書数は将来二十五年を見越して二百万冊、利用対象数は教員千、学生一万五千、敷地は八五〇坪、該当敷地内に約六千延坪の建設が可能であるとして、

A 研究のための施設(個人研究室、大学院研究室、共同研究室、資料室、会議室、教員室)
所要坪数 二、一〇〇坪
B 学習読書のための施設座席敷 一、五〇〇席
C 資料の管理・保存・利用のための施設(管理部門、受入整理部門、奉仕部門、特殊資料
部門、特殊コレクション部門)
所要坪数 三、三〇〇坪
D 図書館学研究室(図書館学科・ライブラリーセンター)所要坪数 四六〇坪
総所要坪数 約五、八六〇坪
費用は A 坪当り十五万円で八七、九〇〇万円
 B 冷暖房設備(換気・除・吸湿装置を含む)坪当り四万円で 二四、〇〇〇万円
 総計費用一一一、九〇〇万円

建物は現在の研究・教育情報センターの場所で、鍵形に折りまがって医務室・食堂のあたりに突出し、五階層の図面も出来た。

 専門委員中、多く発言したのは福岡正夫、鈴木孝夫、田口精一の各教授、図書館学科では藤川正信、沢本孝久、図書館では伊東弥之助、石川博道、笠野滋らであった。四月十三日、待望のダルトン国際部長が来塾したが、成功しなかった。ダルトンの意見は図書館の建設には研究者、利用者の要求の調査や、学校の教育方法に見合った建て方の研究など、少くとも十年の歳月を要する。僅かな検討で好しとすべきではないということであって、道理からいえば全くその通りで、聞く側にとって赤面するばかりであった。

 以上のようなハプニングがあって、アメリカの援助も期待出来ないとなると、理事もかねての約束の四千万円増築に本腰を入れるようになり、三十四年八月六日、増築に対する図書館の希望を書類で求めた。八月十四日提出された「増築書庫に対する答申書」の要旨は義塾の発展と今後の学界の研究規模の拡大を考えるとき、単なる書庫のみの増築では学者の研究、学生の閲覧を満足させることも、図書館自体の運営を円滑ならしめることも出来ないから、書庫だけでなく、本館の改造と見合った増築計画を希望したい。そしてその基本条項として閲覧座席数を現在の二二四席から三五〇席に増加する。稀覯書書庫とその閲覧室に三〇坪、視聴覚資料室に二〇坪、雑誌室、レファレンス室四〇坪、学生指定図書室三〇坪、書庫内に教員用キャレル。それに事務室の拡大、若し記念室を事務室に転用出来れば学生の熱望する学生出入口を地階からでなく、一階玄関からとすることが出来る。以上のような基本条項に従って当局の五〇坪六階建(総計三〇〇坪)の書庫増設というのでなく、一〇〇坪四階建(将来は六階建となし得るよう設計)のものを図書館の背面に建て、広い廊下によって密接に連結し得るよう、簡単な図面を添えて提出した。

 答申はこの春、松本理事を中心に企劃された新図書館計画案に比較すると、如何にかけ離れた貧しいものであったかが、すぐわかるであろう。しかしこれでも財務理事の承諾するところとはならなかった。答申に対して工務課員三笘正光が伊東と接衝を重ねた。地震などを考慮して接続面を特に苦心し、工務課が三案設計したが、どれも許可されなかった。十二月には三菱地所部が加わって設計したが、建設場所の地盤は十四、五米までは不安定ということもあって、見積価格は六千九百万円と当初の四千万円予定を遥かに越えた。三十五年六月二十二日前館長野村兼太郎が死去した翌日、驚いて駈けつけようとする柄沢、伊東は管財部長福田与志三郎につかまって、輪郭を小さくするようにという町田理事の意見と共に、大鉈を加えて呉れという福田の希望を聞いたのであった。この六月、塾長交迭があって、高村館長時代に増築建物は遂に立たなかったが、次期塾長に高村がなったので、要望通りの増築を完成させることが出来たのである。

 野村前館長の退任の挨拶の中で、やり残した仕事のうちの工学部関係というのは兼々工学部図書室を本館の分室にしようという工学部側の希望があった。分室にすることによって金の問題も、経営も本館の援助を得られると考えたらしい。高村就任と同時にその希望は適えられたが、図書費の増額、増築計画など口添えは出来ても、本館予算を裂くわけに行かないので実現しなかった。ただ人事の面では藤山工業図書館の主任司書であった安食高武が転任して強化された。しかしこれも鼻っ柱の強い安食は教員と折合わず結果においては失敗した。

 又、日吉関係とは差当っては斯道文庫の取扱いであろう。野村・高村の交迭時期に阿部は九州大学文学部に寄託されていた七万冊の図書を引取りに行っていた。図書が日吉に着いたのは四月十四日、旧寄宿舎南寮に納められ、六月十六日旧蔵者麻生太賀吉ら関係者を招待して、披露パーティーを催し、七月より公開した。係員は当初阿部の外、元北里医学図書館主任司書であった佐野輝夫が就任した。

 三十三年一月に着工された日吉図書館が落成したのは八月九日であった。工費は三十二年七月に売却された藤山工業図書館の資金で賄われたので、「藤山記念日吉図書館」と命名された。それまでの日吉図書室は本館の分室であったが、この時から分館となり、副館長は小松房三が引続いて執務をとった。

 野村館長時代に計画され、高村時代に出来たものに「慶應義塾図書館蔵和漢書善本解題」がある。義塾の創立百年記念出版の一つで、内容は天平写経以降慶長末までの古写本、奈良朝以降慶長期にいたる古板本と宋代から明代にかけての古刊本の解題で終り、慶長以降の写本、版本及び近世名家の自筆稿本、書入本等は経費の関係で省かれた。執筆は司書阿部隆一が担当した。図書の選択に或は異論があり、解題としての記述の範囲を問題とする人もあったが、書誌学的記述の正確さと学術研究に資するよう視界を拡げた編纂方法、加うるに阿部の熱っぽい記述は、この種のものに類を見ない特色あるものとして好評であり、三十五年六月第二十一回私立大学図書館総大会で、私立大学図書館協会賞が阿部に授与された。

二 高村館長の構想

 ここで新館長高村象平の履歴を語って置こう。明治三十八年八月に東京本所で生まれ、東京開成中学から慶大予科本科を経て、昭和四年に経済学部を卒業し、助手となり、昭和十年の春から主として独逸に留学し、アメリカを経て、十二年春帰国して助教授、二年後に教授に昇進した。昭和三十年経済学部長を経て図書館長になった。専攻は西洋経済史であった。大学卒業直後は英国の児童労働史を研究していたが、恩師の野村兼太郎から独逸のハンザ同盟の研究をすすめられて、それが専門になり、それで学位をとった。研究分野に発展性のあるものとないものがある。中世の経済史、特に独逸・ハンザのようなものは地味であり、縁の下の力持ちみたいな仕事で、のびない部類に属するものを永年こつこつと手懸けた。縁の下の力持ちみたいで、こつこつ手懸けるということは図書館の仕事に通ずる。そして亦、歴史学の研究には広い視野に立って、広い範囲の図書資料への注意が必要である。その点で図書館長はうってつけであった。高村の語るところによると、その頃教科書選定の委員などもしていたが、それも選書方針決定には役立ったと言っている。

 館長に就任したときはあまり突然だったので、何の抱負も持たなかったというが、其後の実績は短期の在任の割りには充実している。「私は何をやっても先生(野村)には及びもつかない」は毎度口に出す言葉であったが、図書館の仕事のうち、運営面では野村よりも活動的であった。野村は図書の収集では大図書館長に価した。又、慶應義塾内の図書館網に統一をつけようとする構想は大きく雄大であったが、さてそれを実際に緊密化しようとか、図書館内の運営などという事務的な、或は人との接衝的な仕事は不得手で部下まかせであった。野村は部下の報告に頷いたり、否定のときは大きな眼をギョロっとさせて首を振った。書庫へ入ったのは数える程しかない。目録も自分ではあまりひかない。館長の椅子にどっかと腰を下ろして、大図書館を築いたのであった。ところが高村館長はこまめに動いた。他の部処との接触も、部下の進言も良く聞き、図書館内も前館長よりはるかに多く巡見した。就任して間もなく、高村館長は柄沢副館長と不和になった。館長交迭の翌日、柄沢は留任を求められ、緊密に補佐出来るよう、部屋を同じくし机を並べて仲好く発足した。柄沢は卒業年度からも、図書館の経歴からも高村より先輩であったので、初めは大いに新館長を啓蒙して仕事をしようと張り切っていたが、数ヶ月足らずで二人は仲違いした。性格があまりにかけ離れていたとしか言い様がない。結局、高村館長は陣頭に立たざるを得なくなった。

 高村館長の収書に対する当初の構想は商議会員の協力に頼ろうとしたようであったが、それは出来なかった。就任して間もなく、文経法商の三田だけの商議会を開催して、図書館の図書費の実状を述べ、図書館の蔵書構成を型作る選書に対する援助を懇請した。図書館では基本的な定本になる図書は、館長とその補佐の館員で選定するが、教員の推薦による図書の購入も多額にのぼっている。従来は教員の推薦は個々の人が申出たため、特に熱心な人の請求だけで予算を費やし、蔵書が片寄る傾向があった。その是正のために教員の推薦は商議員の口を通して貰いたい。そして又、特に高額なる図書の購入決定には商議員の判断に俟ちたいと諮ったが、商議員各員の渋るところとなって実行されなかった。例えば其時、文学部の教授からアリストテレス学会の会報、エドモンド・フッセル関係の図書及びキャプテン・クックの航海記の仏語版の三つの購入が求められていたが、その選定に意見を求めると、文学部の商議員はそれぞれ推薦教員から伝言を受けており、実際のところ専攻外なので審査を求められても、その軽重は定められないといって拒んだ。かくて教員の推薦書は各学部別に割当てた予算の枠内で、研究室の図書委員長を経て申出るよう変更された。

 五月には図書館と三田研究室との間に懇談会が持たれて、従来研究室の図書は図書館の管掌下にあって、研究室購入の図書も図書館備付の台帳に記され、購入伝票には各学部の学部長の承認と共に、図書館長の認印も必要であった。その煩雑さが研究室の図書整理を遅らせると言われていたので、館長の認印をやめ、その変り購入書の目録カードの写し一枚を図書館に貰い、それで図書館月報に研究室図書を掲載することになった。又、図書館、研究室の重復購入をなるべく避けるため、双方で購入図書リストを作成し、交換して選書の参考資料とすることに決めた。

 さらに図書館と研究室との緊密化を図って、図書収集の分担や保管の転換などを計画した。図書館と研究室の双方に収蔵されている雑誌類はどちらか一つに定め、或は一部分づつ双方に持っているものは、どちらかに移籍して一箇所に纒め、研究者の便を図る。館長は学部の図書委員長と直接協議してその実現を説得した。三十三年度末に統計年鑑及び統計関係雑誌、さらには国連出版物について懇談が持たれ、統計年鑑については英米仏独露のものの主要なる一冊は図書館が収蔵し、その他の国は研究室が備える。そして相互の欠本は移籍をも含めて完本にする。雑誌の購入分担も決める。国連出版物は予算上、限定されざるを得ない。ILO、FAOの年鑑各一種、ECE、ECAFE、ECLAの経済年報各一種、世界経済研究と世界経済報告は図書館で継続する。単行書は双方所蔵一覧表を作って、研究者本位にその希望に従って配置替えを辞さないと協定した。又、法学部の米法関係の図書の不備を是正するため、研究室のCorpus juris secundumを図書館に移籍し、欠本は図書館で補い完本とした。U.S. Code Annotatedは研究室が文部省助成金で購入し、アメリカン・ロー・レポートやアメリカン・ユリスプルーデンスなどは図書館で一括購入し、二年契約で研究室に貸出すと定めた。文学部関係は十三教室に別れ、統一的な購入委員会がないため、そうした協定が出来なかったが、図書の配架の狭隘さから図書館に移管されるものがあった。助成金購入によるチョサー協会の出版物の揃などそれである。

 研究者用の施設としてマイクロ・リーダー及びキャビネットを拡充し、新設して大部のもののフイルム利用を図った。折から国会図書館春秋会発行の節用集、連珠合璧集など一連の記録類が売出されたので、それらを備付けると共に、石川忠雄教授による中国共産党関係の複写も収められ、又洋雑誌インターナショナル・プレス・コレスポンデント、ビジネス・ヒストリー・レビューなどの全巻を手始めに、紐育タイムスも一九六〇年からフイルム版を購入することになった。

 高村館長は研究室と緊密さを保ち、研究者本位が強く打ち出されたが、学生に対しても積極的に便宜を図るよう努めた。その第一着手は戦後初めての図書の館外貸出の実行であった。夏期休暇中の、それも通信教育部学生の夏期スクーリングの利用便宜のために、通信学生が比較的利用しまいと考えられた、洋書と漢籍に限ってだけであったが、貸出された。帯出を許される学生は大学院修工課程の学生と大学部四学年及び通信教育部の通年スクーリング学生に限り、期間は七月五日より九月十五日迄、帯出冊数は一人二部四冊とし、手続は先づ館外帯出証を求め、それに指導教授のサインと認印をうけて、借用出来るというややこしさで、三十四年から実施された。その対象学生数は千八百八十四名であった。図書の館外貸出は戦前は卒業論文作成の学生にのみ実行されていたが、戦後図書欠乏の混乱せる世情を考えて途絶えていた。この時から模索的に復活したのである。

 図書館における展覧会は前館長時代に引きつづいて、三十三年五月に日本中世文学資料展、同六月に斯道文庫善本展、三十四年一月に亀井南冥・昭陽著作展が開催されたが、学生のための啓蒙的な展示を常に行う計画が立てられた。展示ケース二台が閲覧室入口に定置され、二週間毎に内容が変更された。館長が特に希望するところは福沢諭吉に関する展示を多くして、学生に義塾創立者の知識と精神とを多く注入したいということで、その第一回は三十五年五月、日米修好百年に当るので福沢諭吉最初の渡航、「咸臨丸」に関する資料の展示で初まった。小さなケースであるから多くのものは飾れないが、咸臨丸の航海図や乗組員の写真、米国からの土産品、渡航に関する瓦版などが並べられた。この展観は四十四年六月まで百二十三回に渡って続けられた。最初と終りの十回分の題名を記してその傾向を示す。「咸臨丸」の次は「明治初期の新聞」「大鳥圭介宛書翰」「日本の発見」「絵巻物」「演説の初め」「広重」「明治の社会主義新聞」「歌舞伎」「帳合の法」と続き、終りの方は「丸岡明を偲ぶ」「ルーマニアの美術」「和歌子」「ゴリキー生誕百年」「福沢屋諭吉と丸屋善八」「篆刻」「物故教授の遺著」「ニュージーランド」「蒸汽機関車」「佐藤塾長の著訳書」であった。小展示ではあったが反響は大きく、「ヨネ野口」の展示の時には偶々慶應に英国の桂冠詩人ブランデンが来て、わざわざ立寄って喜んで呉れ、又、生誕百年記念のイエーツの展示には、学生から聞いたといって早稲田の教授が見に来て、イエーツ学会に報告されたそうである。或は三田新聞で予告を見たといって、遠く離れた卒業生から参観が出来ないのを残念がる手紙を貰ったりした。

 高村館長が学生に対する施策中で最も力を入れたのは座席数の増加を求めたことにあったろう。高村が後年回想しているが、昭和三十二年が慶應義塾の一つの転機であった。戦後のマンモス私立大学の間にあって、慶應はひとり伝統を守って比較的学生も少数であった。しかし経営難から学生数の増大に踏み切ったのはこの年である。商学部が増設され、大学院が拡大され、各学部の学生数も増加し、それに対応して三田にも南校舎、西校舎、日吉にも新校舎が次々と増設されたが、図書館はその侭であった。明治以来の閲覧室は座席の間隔を狭めて、収容人員を増やしてもたかが知れている。どうしても増設せざるを得ない。前節に述べたように、米国のフイッシュ教授示唆による新図書館の建設には、高村館長の見通しは闇く消極的であったが、創立百年記念事業に組みこまれた書庫の増設には積極的であった。そして書庫だけの増設でなく、閲覧室座数の増加が見込まれるよう働きかけた。この必要は充分認められながらも、高村在任期間中に出来なかったことは前述したとおりである。

 館内施設の小改善には真空消毒器の導入がある。図書を虫害から守るために戦前は書庫を密閉して、ホルマリン燻蒸を年一回行ったが、戦後は書庫の痛みから不可能になって、特に虫害にひどいものは茶箱に入れて、薬品で殺虫する姑息な手段がとられた。真空消毒器は一度に二、三百冊を車に積んだまま移動して消毒が出来、簡単なことから殺虫殺菌に便とされた。多くの人の手に渡る図書の配慮として、そうした設備は遅きに失する感があったが、免も角実施された。

 高村館長時代のも一つの顕著な事蹟は図書館職員の待遇改善に意を用いたことである。館長に就任した直後、館員に対する挨拶の要旨は、一つは勤務時間の励行であり、他は言いたいことは何でも言えということであった。館長室に閉ぢこもって副館長を通じて話するのではなく、直接腹臓なく言えというのであった。これは館内を明るくする効果があった。野村前館長と違って年が若いということもある。如才のない性格ということもある。館員の旅行には共に行き談笑した。図書館の職制ではこの時初めて部課長制が出来た。これまでは図書館規則によって主任司書、司書、司書補、書記、出納手、用務員の階層があって、司書と司書補に手当がついた。しかしその手当はタイピストや電話交換手などと同様な技術職員と考えられ勝ちで、専門職としての司書を頭においた図書館側の考えとはかけ離れていた。そこで司書司書補の手当は多少つくにしても、事務当局に勤務する職員との昇給差がかなり低くなる。事務職員は部長・課長・係長の役職制が存在して、移動の度毎に昇給するに反して、図書館員は移動し得る範囲も狭く、且つ役職がないので何時までも低水準にあった。これを三十五年一月改めて図書館にも部課長制が導入され、同年四月実施された。その時のスタッフは次の如くである。

館 長 高村 象平
副館長 柄沢日出雄
部 長 伊東弥之助(総務) 石川 博道(図書)
課 長 岩崎 恒雄(貸出) 堀田 信夫(和漢書) 笠野  滋(洋書) 丸山  信(調査)
 阿部 隆一(斯道文庫)
総務課 田中 正之 落合喜久子 佐藤 次郎 生田  直
調査課 岡野 盛繁 太田臨一郎
和漢書課 衣川 専一 永井 季子 天田 尚子
洋書課 毛利 信吾 吉岡洋一郎 馬場万里子 小田 恭子
貸出課 大岡英太郎 碓井 義美 大谷 愛人 池上明哉

これに出納手・用務員を加えて人数は三十九名であった。事務職員と図書館員との給料の格差は期待した程、多く縮められなかった。館長・副館長の役手当が兼任であるということから、部長・課長もそれ以下の水準ということが原因であるように思われる。

 このスタッフから国分剛二の名が消えている。国分は三十三年十二月四日死去した。彼は三辺との主任争いに敗れてから、不平不満のうちに過ごし、戦後図書館が復興した二十四年、白内障で眼が不自由になり、休職を続けていたが、回復せず歿った。所謂荘内閥の最後の人で、出納手から司書になったのであるが、努力家であり、名物男でもあり、ひと頃の図書館員の典型の如き存在であった。国分の図書館における功績は郷土史書の収集に努めたことで、郷土史書の豊かさは今以てこの図書館の特徴を型作っているが、その淵源は実に国分にあると思われる。

 高村館長の任期中に私立大学図書館協会の常任理事校となったことも、記述して置く必要があろう。初代監督田中一貞時代に図書館協会の理事校になったことがあったが、以後永い間、他の図書館との交渉には消極的であった。昭和五年東京私立大学図書館協議会が創立されても、更らにそれが昭和十三年に全国私立大学図書館協会に発展しても、理事校にはならなかった。ただ集会の開催は各校持廻りであるから、昭和五年九月小泉監督時代と昭和十三年五月高橋監督時代、更らに戦後昭和三十一年五月野村館長時代に慶應で行われた。戦前は図書館内の一室で行える程の人数であったものが、戦後には講堂を借りねば出来ない程の参会者があった。そして拒み切れなくなって昭和三十四年四月常任理事校になった。任期は二年で、館長・副館長と専任係員一人がこれに当り、大過なく責任を果した。

 またこの時代に出来て、後に大きな影響をもたらせたものに慶應義塾労働組合の結成がある。職員会の活躍は或る時期に限られ、漸次親睦会化し、職員の間に不満が昂じ、図書館員からも脱退者を出していたが、それが四谷の病院から始まって、日吉に、三田に波及し、全慶應の教職員を一丸とする組合が昭和三十四年六月結成された。そして全慶應のストの一環として、図書館でもストライキが行われるようになった。

 他方、学生自治会が動き初める徴候が見られる。三十五年四月図書館に対して休暇中の閲覧時間の延長と館外貸出の拡大を要望した。休暇中は通信教育部のスクーリングが無いかぎり、正午で閉館される。それは永い間の慣習による職員の既得権であった。館外貸出範囲の拡張は今後考慮の余地を残す、と回答して、この時の学生は納得した。同時に研究室にも修士学生の要求があるという風であったが、まだ及び腰であった。学生自治会の動きも漸次活発になって、図書館・研究室ばかりでなく、全塾を揺るようになって行った。

 最後にこの期の善本収集に触れよう。高村館長の方針は前館長よりも実用的であったといえよう。良い本で、しかも利用される本を集めようとした。前述の研究室との接衝のうちにもそれは読みとれよう。寄贈された麻生太賀吉の斯道文庫は日吉の寄宿舎の一棟全体を使用したので、図書の収容能力は大きく、その後の大きな寄贈、例えば平岡好道教授よりの和漢書三千冊、松永安左衛門・安川寛寄贈の亀井南冥・昭陽父子の自筆稿本・未刊精写本は皆、ここに収められた。同時に文部省の綜合研究費の補助を得て、室町時代の邦人撰述の漢籍注釈書のマイクロフイルム撮影に着手した。これは未刊東洋古典書のマイクロによる一大収書を志ざす発端となった。

 この外には経済学部教授永田清、前館長野村兼太郎の蔵書が寄贈された。特に野村旧蔵書は研究室には庶民資料を、図書館には和洋図書をと分割されたが、幸田成友、滝本誠一の旧蔵書と相俟って、日本経済史文献の宝庫を型作った。

三 前原光雄館長の抱負

 昭和三十五年六月に奥井は塾長の任期が来て、辞任したため後任者の選定が行われた。第一候補は藤林敬三であったが、藤林は当時中労委の委員長をしていたので辞退した。残る候補に高村象平と法学部教授前原光雄とがいたが、評議員会会長小泉信三は塾長は少くとも二期続けなければ仕事が出来ないという意向があったので、それには年齢の若い高村が良いと考えられた。こうして高村塾長の出現を見たが、高村がやめた図書館の館長には塾長の対抗馬であった前原を推し、図書館商議会開催の前に承諾を得た。七月二十九日の第十六回商議会における当局の館長推薦は前原一名であった。そして当局側の計画通り

 前原光雄十二票(十八票中) 次点 松本正夫

となった。高村が前原の意向を打診し同意を得たとき、前原には図書館に対して何か腹案を用意しているように見えたそうであるが、事実、前原新館長は塾の図書館のあり方に不満を持っていた。その直接の動機は三十三年八月、ニューヨーク大学で開催の国際法協会総会に日本代表として出席したとき、その往復路にあたる大学を参観した。サンフランシスコから初まって、シカゴ大学、ハーバード大学、コロンビヤ大学などを見た目からは、慶應図書館が古くさく思えて仕方がなかった。前原は岡山県出身で大正十四年法学部法律学科を卒業し、すぐ助手になった。昭和五年七月から七年九月にかけて英仏独に留学したが、主として独仏に滞在し、文学部の今宮新とベルリンで一諸に勉強した。今宮はダーレムの古文書館に通って難解な文書に取組んでいたが、前原は図書館へは行かないで、専らベルリン大学で語学を身につけることに熱中したという。従って、欧羅巴の図書館の印象は前原には薄く、戦後の米国の大学図書館の規模やピチピチした活動振りが強く印象づけられた。前原は商議会の席上でも、館員への挨拶にでも「私は図書館には素人だから」ということを常に前提としながらも、慶應の図書館は非常に遅くれたもので利用が出来ない。どうしても改善しなくてはならぬ。商議員諸君は図書館に対する注意や提案をどしどし言って貰いたい。不満だらけだろうが忌憚のない所を指摘して欲しいと言い、調べものをするには目録が不備であり、書庫も狭く、図書の配列も大さによる年代順では不便だと言い、より精密な分類にすべきだと主張した。また図書館月報では「大学の付属図書館は学生の利用ということが重要な目的の一つである。それ故にできるだけこの目的に添うようにしなければならない。蔵書の面でも、なるべく大学の学生の利用するようなものの整備に留意し、この種の図書の充実を図った上で高度の学術的な図書の充実に心がけるべきであろう」従来の図書館が研究者本位で学生は寧ろ従であったのを是正し、「現在は学生数に比して、図書館を利用する学生の数はあまりにも少ないように思われる。その原因がどこにあるか明かにすることは大切である。そしてその障碍を除き、学生をしてもっと図書館に親しみをもたせて、利用度を高めるようにせねばならない。」そしてその一端として学生出入口は地階からをやめて、教員と同様に正面玄関からの出入を考慮するよう求めた。また同じ文章の後半では「図書購入費には限度があるので、各部門の図書を心のままに購入することは許されない。…この場合に、なるべく各部門の間に平衡を保つような方法をとり、或部門に厚く他の部門に薄い不均衡な購入方法は慎しまねばならない」これは法学部教授として法律関係の図書が薄いと判断したらしい。こうして様々なところで挨拶したり、記述したりして断片的に不満を表明しているが、要するにごく最近、見て来た米国の大学図書館のように改めたいということにあった。そして慶應には図書館学科があり、その優秀なスタッフを大いに活用して行きたいと述べた。図書館学科は設立以来、既に十年を閲し、多くの人材を社会に送り、学内には優秀な学者を擁して押しも押されもしない地位を国の内外に礎きあげている。図書館の充実には多くの経費を要するが、図書の取扱いに関する知識を得ることにかけては、図書館学科のある慶應は大いに有利な地位にあると考えた。前原館長の図書館学科への接近は、同学科主任橋本孝の大いに歓迎するところであって「一般的に大学図書館は保存を旨とし、保存に汲々として、資料を見せる、サービスするという努力に乏しい。塾のみでなく、日本の大学一般がそうである」そして米国式に徹しようというやり方は終戦後、公共図書館の方が先んじ、大学図書館は一歩も二歩もおくれている。「前原先生が卒先してあらゆる犠牲をはらっても、近代化しようと言われるのはまことに喜ばしい」橋本の近代化というのは利用本位の米国式のことであった。二人は手を携えて図書館を改革しようとした。

 しかしそこには隘路があった。明治以来の古い建物は既に野村館長の時代から狭く、分類替をしようにも展開すべき書棚もない。増大する学生を収容する校舎を建てる費用は出ても、館員数は制限せられ、新しい企劃は中々出来にくい。出来るところから初めざるを得なかった。館長希望の図書の偏重是正ということで、島谷英郎教授選定の米国海商法判例集が間もなく購入された。法学関係の図書が比較的に少いということは法学部教授の間では屡々いわれたことで、戦前にも峰岸治三教授が中心となって収書を計画したことがあり、其後も暫々話題にはされた。しかし前館長時代英米法の収書に努力したりしており、極端に偏頗という訳でもなかったように思われるが、ただ経済学部の教授による館長が永く続いたので、感じとしてそう受けとられたように思われる。次いで学生の出入口が正面玄関からに改められた。受付の人員の配置替え、施設の準備などで実施は三十六年七月になった。一部の教員からの反駁を覚悟してのことであったが、さしたるトラブルもなかった。受付を若い出納手が交替で勤めたので、教員に対する言葉の上での紛争は多少あった。

 幸なことに高村新塾長は図書館長時代の増築書庫に対する答申書を再び取り上げて、その要望に添う形ちで増築を完成させた。総工費九千九百五十万円、三十六年二月に理事会を通過し、最終設計図が出来たのが三月十日、同二十九日地鎮祭が行われ、十一月二十一日完成披露の式があった。設計管理は三菱地所部、施工は安藤組であった。建物の詳細は

建坪一五九・九三〇坪(五二八・八七四m2
延坪八五八・五五三坪(二八三八・一九四m2
構造鉄筋コンクリート、地上三階地下二皆
規模地上三階 外郭のみ
  地上二階 閲覧事務室、レファレンス室、開架室、雑誌コーナー、便所
  地上一階 積層書庫
  地下一の一 斯道文庫
  地下一の二 研究室書庫
  別棟 便所
設備  イ座席数増加
 従来二四八席(三田在学生八、三九二名に対し) 二、三九二%
 完成後四〇〇席 四、七六〇%
    ロ蔵書収容数
 一層十万冊と見て完成後三十万冊増
 レファレンス室三、五〇〇冊(従前二、〇〇〇冊)
 開架室当面二、五〇〇冊(完成後二万冊)
 雑誌コーナー開架雑誌和洋計一五〇種

 この建設は高村塾長の思い切った英断というより外、云い様がない。奥井塾長時代の最終案で、しかも否決になった建物は一二二・六坪で地下二層地上二層の四階建てで、将来上層に積層二階を建てうるよう設計されたものであったが、今度のものは建坪においても階層においても大幅に拡大されたものである。但し三階と地下一の二は外郭のみで、内部は後日廻しとなり、又エレベーターも予定場所は空洞で施工されなかった。元来が書庫増設で初まったものだけに、不便を伴うのは止むを得ないが、兎も角その一層を書庫でなく閲覧者の出入出来る階層としたことは、今迄出来得なかった試みを実施することを可能にした。大閲覧室の中にあった閲覧台をとって閲覧席を作ったことは席数の増加の利点のみでなく、閲覧室内の静寂を増すものと期待された。新設の閲覧事務室は閲覧台より遥かに広かったから、ここに貸出課の全員を収容し得て、館内出納も館外貸出もあげて処理し得た。レファレンス室も従前より二倍の広さになり、レファレンス・ブックも増加された。この皆に初めて試みられた開架室には、教員の指定図書を置くために三十六年四月早々に推薦依頼状三百六十四通を発送して準備した。雑誌コーナーで新刊雑誌を開架に踏切るのにも勇気を必要とした。そして良く閲覧される雑誌のバックナンバーも収容する戸棚も設けられた。新しい書庫にはキャレルが作られた。従来図書館には教員読書室さえないとて、教員から非難されていたのを解消するためであったが、書庫の中は夏は暑く、冬は寒く、結果的には教員の利用は少く、大学院学生が良く活用した。

 書架の大幅な増加が見込まれるのを契機に分類替の希望が出された。法学部若手教員による、今にして行わなければ将来の不便は図かり知れないとの突き上げがあり、館長も強く要望された。これは大問題であって、図書館内の部課長会が頻繁に開かれた。新しく分類表を作るのでなく、日本十進分類法(NDC)に和洋とも拠ろうということには意見の一致を見たが、配架はその侭で、カード上での分類替えの意見が初めのうち強く主張された。分類替の可否には賛否両論があって、理想的には賛成でも五十万という蔵書を考えると躊躇するむきが多かった。この間、図書館には研究会が持たれ、三十六年五月には中村初雄教授が、六月には中央大学図書館嘱托の津久井安夫が「中央大学図書館の再分類」と題して講演、七月には笠野滋が報告し、斯道文庫の阿部隆一も再分類可能の意見を館長に具申した。結局、先づ開架室の図書をNDCで分類し配架すること、次で新書庫が使用される段階で、新刊書を新分類で配架する。既存旧分類の図書は、それらの成果を見てからとするよう定まった。分類の変更は単にそれだけにとどまらない。分類の深度を何処までにするかとか、目類法をどうするか、受入簿の変更、函架記号の変更による図書ラベルの新様式の採用など、付随する問題が後から後からと出て、際限がなく煩雑であった。前原館長は再分類のときは教員に応援させるからと、いとも簡単に強要されるが、それぞれ専門の教員が出ても、図書館の分類はうまく行かないことは館員が常々経験するところで、英文のエッセイのようなものはどちらともとれる。専門分野が重なり合っている場合、性格の強い教員は自己の分野を強く主張し、全体としてバランスを崩し、却って混乱を起し勝ちである。結局は図書館のことは館員のみの力に俟たねばならない。

 十一月建物は落成しても什器の調達がおくれ、又書庫の乾燥さから見て、すぐ図書の移動を初めることは出来なかった。三十七年一月から新レファレンス室だけが開かれ、その他は新学期の四月七日まで待たされた。閲覧台が新館に移り、書庫の拡大に見合った図書の配架替えが考えられ、出納手の便宜のために、良く利用される図書程、閲覧事務室の近くに置かれ、利用度の少い特殊文庫や洋書、和装本類は遠く離れた階層に置かれた。それらは二、三月の休暇の間に行われた。新しい建物とともに新企劃による運営のために人員の増加が考えられ、初め十九名の増員を求めたが、結局は司書補三名、書記二名、出納手四名計九名の増加が認められた。同時に事務組織も従来の事務室で仕事をする部門と、新建物で閲覧に便を図る部門とに大別する新しい部課制が考えられ、四月承認された。即ち

であったが、三十七年三月館長の改選期に当り、商議会では満場一致、無投票で前原が再選され、同時に副館長の交迭があり、柄沢日出雄が退任して伊東弥之助が任命された。伊東は整理部長を兼任し、石川博道は運用部長になった。総務課四、和漢書課六、洋書課五、閲覧課一八、参考調査課三、定刊課三、それに用務員四と館長・副館長・部長を合して、全員四十六名となった。

 四月の開館と共に図書館管理の上ですっきりしたのは、図書館学科が新築の西校舎二階へ移転したことによって、図書館内にあった図書館学科レファレンス室も移転されたことである。図書館学科図書室は一般学生が地階から入館した頃にも、玄関から入れて紛争があったが、玄関から一般学生も入るようになった時も、館内の静蕭を保つため定員制を採ることになり、入館証を使用したが、宿題の多い図書館学科学生には入館制限に対して文句を言う学生が多く、トラブルの種であった。それが解消されるわけである。又、斯道文庫は図書館の一部であったが、三十五年十二月独立して文庫長に松本芳夫がなり、阿部は主事となった。そして図書館とは全く別個の研究所として、図書館地階に別の出入口から出入することとなった。も一つは、書庫が拡くなったので、旧書庫の一室を貴重書のみを入れる区劃とすることが出来た。従来分散されて保管され、取扱いに不便であったが、それが解消され、太田臨一郎がその専任となった。太田は幸田成友旧蔵書の整理のため嘱託として就任していたが、和洋書にひろい知識があり、適任と言えた。平生は鍵がかかっているが、参観者があるときこの書庫を開いて見せると喜ばれた。

 従来目録を探ぐり、出納手によって図書が閲覧者の手に渡ったのが、開架室が出来たことで学習に最も近い図書を簡単に手にすることが出来る。雑誌もすぐ見られる。レファレンス室も広くなり、その係の人数も増えた。新館の開設による便宜に加えて、三十七年二月からルーモプリント複写器を備えて、図書の複写が簡単になった。今迄は写真複写で、しかも外注の斡旋であったため時日を要した。新採用のものは注文の翌日には手渡された。更らに館外貸出も修士二冊、大学四年と通年スクーリング生は一冊、それも学期中を通じて借り出せた。期限は一週間、延滞すると一日十円徴収する方法が採用された。図書館は見違える程に便利になった。

 最後にこの期に副館長をやめた柄沢について記そう。柄沢は経済学部教授兼任で副館長を勤めた。大学教授の肩書きをもちながら、至って気さくであり、好んで酒を嗜なみ、酔えば陽気になり、他人からは奇矯とも思える言動をして、更らに親しみを増した。昭和二十七年五月、図書館大会が福岡で開かれ、其後、国公私大図書館部会が人吉で催された。球磨川に面した宿屋に一行が当着して、まだ部屋割りもきまらず、廊下でがやがやしていたとき、突如猿股一つの背の高い痩せた男が川に飛びこんで泳ぎ出した。宿屋の手すりから「あれは誰だ」「慶應の柄沢だ」という訳で一遍に名前が知られた。宿屋側は川が深く流れも急で、向へ行く程緩く、河原が拡っていた。そして一と休みする間もなく泳ぎ帰って来た。向側へ泳ぐ柄沢を見て、そのとき同行した石川は宿屋の浴衣をかかえて迎えに飛び出したが、橋は渡らないですんだ。石川が心配したのは柄沢の身体には酒が入っていたからであった。こうした逸話は限りなくある。善く言う人は瓢逸だ、風格があるというが、反対に気まじめすぎる人には一視もされない。仕事は大まかで、細かなことは不適であった。「俺は時代を間違えて生れて来た。戦国時代に生れれば良かった。」が口癖だったが、そうした面も確かにあった。疎開図書の運搬で人手が極度に不足しているとき、酒をふるまったりして駅員などを感激させ、手廻しよく仕事をさせるなどは得意であったが、既述のようにホーレイなどの猶太系英国人との接衝は苦手といえた。戦国時代は権謀術数の時代であるから、正直すぎる柄沢が一国一城の主となれるかどうか、わからない。柄沢は昭和三十六年十一月、戦前戦後を通じ、図書館に功労があったとして義塾賞をうけ、間もなく職を去った。

四 新図書館計画委員会の発足

 フィッシュ教授の発言によって、松本理事を中心におしすすめられた新図書館建設委員会の計画は、突然に起り実現をいそいたが完全に失敗した。この計画に対しては当事者以外はおおむね悲観的で、高村館長もそうであったし、次ぎに新図書館計画委員会の推進役を努めた図書館学科主任橋本孝も同様であった。しかしフィッシュ教授の塾図書館に対する批判と改善策とは、橋本主任にとって耳に胼胝が出来る程聞かされた言葉であった。慶應義塾が日本では数少い国際大学連盟への加盟校である以上は、理想的な大学建設へ邁進すべきであるが、それにはいくつかのハンデキャップがある。その中の一つとして図書館が旧式なこと、その利用が不便なことは是非改めなければならない。蔵書の分類も、カタログもやり直さねばならない。それには全く新たな別種の図書館を三田に建てる必要がある。図書館学科はロックフェラー財団の援助によって、毎年米国から教授が招聘された。最初の五ケ年計画の援助が打切られた後の橋本主任時代にも、第二次・第三次の援助が行われて、米国人との接触は深い。彼らは皆同じ様な意見を述べ、日本で最高の図書館学科を持ちながら、図書館の現状は理想と程遠いといわねばならない。図書館学科は図書館に対する努力が足りない、といった風である。

 ところが前述したように図書館学科設立当初より、図書館と図書館学科とは仲が悪かった。野村館長とギトラー主任とは性格的にうまが合わなかったといって良いであろう。野村館長がハワイへ出張教授して帰国後は多少認識が改められたが、それはカレッヂ程度の日吉分館への適応であり、最高学府の図書館としての誇りとは違っていた。次の高村館長は図書館学科との接触にも意を用いて、両者の懇談会を三十四年六月に持ったが、野村館長のアカデミック的伝統の継承には確信を持っていて、図書館学科側の意見を丸呑みにするような意志は持たなかった。要するに利用本位の米国風に改めたくても、改めるにつけ込む隙も見出せないのであった。ところが前原館長はアメリカの大学図書館を見て来た直後の就任であり、図書館改革に図書館学科の協力を申し込んだ。橋本主任にとっては当然来るべきものが来たということであったろう。橋本主任の考えは図書館の建設などということは、松本理事のときの様な即席では黙目だ。十年がかりでも良い。利用者の意向を確かめ、現状を分析したりしてじっくりやるべきだ。それには実行力ある委員会を作らねばならぬと言って、先づ前原館長に話し、次で高村塾長に構想を打明け、同意を得た。最高首脳は計画委員会であって、全塾的構想に立ち、新図書館計画の大綱を定めるために、委員長に塾長を据え、理事、学部長、館長、学科主任がそれに参劃する。計画委員会の諮問機関には実行委員会があって、図書館長を委員長とし、委員は図書館学科主任、本館分館の副館長、研究室運営委員長がなり、具体的計画を立案する。その下に企劃分科会を置いて実施のための企劃を練らせる。これには図書館から伊東、図書館学科から藤川・沢本、教員から斎藤幸一郎が委員に選ばれた。他方、実行委員会からの指示による図書館の実態調査、利用者調査等については調査分科会が作られ、各学部から選ばれた教授・助教授、それに図書館から石川・津田・笠野らが委員となった。

 三十六年二月二十四日第一回実行委員会が開かれた。委員会成立の経緯の説明のあと、塾長は「アメリカよりの援助の見込は視察団を派遣すること及び向うからのコンサルタントを招くことは援助の見込あるも、塾として自力で出来るだけのことをすべきである」旨を述べた。要するに塾として最善をつくして後は、米国の援助を期待していたといえる。こうした基本方針の下で、前原館長を頭に、企劃分科会が中軸となり、事務局の笠野・毛利がその手足となって働いた。そして三十七年六月二十日、前原実行委員長より計画委員長たる高村塾長に宛てた「基本方針に関する答申」は、この間における精力的な活動を物語ると共に、其後の方向を示している。大要を述べれば、先づ現状の実態把握のため本塾における図書管理の調査と、それに併行して利用状況の調査が行われた。特に利用調査は教員と学生とに分けてアンケートに記入を求め、それを学問的に集計して発表した。大量のアンケートの分類操作は困難を極めたが、斎藤幸一郎・十時厳周助教授らの努力が実を結ばせた。その結果として第一には漸進的に現状を改善する。そして三田に限らず調査を日吉・四谷・小金井のキャンパスにも拡げて行い、綜合大学としての効果を高めよう。第二に現状の改善のみでは近い将来に行詰ることが確実であるから、新計画の基本方針を樹立して根本的解決を計らねばならない。その為には大学における図書管理サービス機構を統括し得るような一元的機構が必要である。第三にその具体案として一に海外大学図書館を視察せしめる。二に海外から大学図書館経営及び建築のエキスパートを招聘する。三に図書館建築の専門家、利用者、図書館員を含めた建築委員会を作って具体計画に基いた設計を作る、とした。これは計画委員会の審議で全面的に支持されたが、其のあとの雑談裡に語られた雰囲気は「現在の図書館を改装するのは不経済であるから、この建物は他の目的、例えば福沢記念館、博物館などに転用し、新図書館を建てるべきである。その新図書館は慶應義塾の綜合図書館として日吉・四谷・小金井分館と充分な関連を持たせるばかりでなく、研究室・大学院とも不可分である。将来の塾の教授法がどうなってゆくかと言うことは最大の問題点で、新図書館計画は当然それに左右されるが、少くとも学部学生に対して開架式サービスを拡充されることが望ましい」又、気賀健三学務理事は米国から帰朝したばかりであったので、ロックフェラー財団のパーカー博士・トンプソン博士、ALAのクリフト氏、アシャイム博士、イリノイ大学のダウンズ博士・フィッシュ博士などに会見した印象を語り、塾からの調査団受入れの準備が進められていることを報告した。

 先きの新図書館建設委員会の要請を拒否したALAも、其後の新図書館計画委員会の発足と活動振りには注意をとめていたものと見え、学校当局に対しては慶應で図書館を建てたいというのは本当かという問合せがあり、他方米国人と交渉の深い図書館学科側にも、ロックフェラー財団のファーズ博士などから、援助は受入れられるだろうとの言質があった。そこで米国大学図書館視察団の人選が行われ、高村塾長を団長に、気賀理事、前原館長、橋本主任、小池基之教授、それに橋本主任の希望で実務者からということで伊東・笠野の名があげられていた。ところが三十八年二月にALAのアシャイム博士から訪問団員の人数と人名の希望が述べられて来た。それによると高村塾長、石丸財務理事、前原館長、橋本図書館学科長の四名で、若し四名中一名が参加できない場合は、伊東副館長を補充にということであった。

 訪問団は米国大学図書館の視察が名目であったが、本心は米国からの援助の打診ということがあり、その援助も橋本観測では半額、学校側では全額を希望していた。学校側にはまだ増築の必要ある建物が多く存在している。四谷の病院は四十年迄に、工学部の日吉移転も其後に控えているし、三田では研究室の新築問題があった。図書館は増築を終えたばかりであるから、次は研究室である。研究室を何が何でも作れという学内の声を塾長も押えることが出来ないので、新図書館建設への半額負担は困難と考えられた。特に石丸理事が難色を示した。ALAがアドミニストの派遣を希望したにも拘らず、塾長が降り、石丸理事が降り、橋本主任は健康上から医師の反対で罷めとなり、派遣団は気賀理事が塾長代理という格で参加し、以下前原館長、伊東副館長、笠野洋書課長という寂しさになった。もっとも前原館長は夫人を同伴し、米国には留学中の沢本図書館学科主任補佐夫妻が待っていて協力した。

 橋本主任の半額援助と、学校側の全額援助の希望とは調整されないまま、視察団は三十八年九月二日羽田を出発した。サンフランシスコ、シカゴ、デトロイト、アンナーバー、イサカ、ボストン、ニューヨーク、ワシントン、セントルイス、ロサンゼルス、ハワイを経る四十五日の旅で、十月十六日に帰着した。訪問大学は二十余校、図書館を中心に見学したが、総長を含む理事、図書館長、図書館学校長及び多数の図書館員と意見の交換をした。気賀理事は九月三十日ニューヨークから塾務の都合によって帰国し、沢本主任補佐はヨーロッパ図書館視察のためプリンストンで別れ、後半三分の一の日程は図書館員のみの視察になった。大学と図書館訪問の合い間にはアジア財団、ALA、ロックフェラー財団に立寄って懇談したが、招聘に対する礼を述べた程度に止まり、援助の打診には少しも触れなかった。

 帰国後、気賀理事と前原館長には視察報告が残されているが、米国の大学図書館の現状を理事の立場から、図書館長の立場からの感想であって、建設資金獲得については語られていない。米国財団から援助についての期待は高村塾長の其後の談話で、努力が足りなかったという風に表現しているし、橋本主任はともかく塾長が青写真を持って行けばどうにかなったろう。準備と打診が不足していたと語る。もっとも橋本主任の半額負担は、その財源を学生から徴収する設備拡充費の増額に求めていたから、四十年学費値上げにより慶應義塾初まって以来の、大規模な学生ストが起きた状勢から言って、石丸理事の見通しの方が適切であったのかも知れない。

 図書館は大学の心臓であるということが一般に言われているが、日本では言葉だけであって、米国はそのものずばりである。大学教育は図書館の活用なくして行えない。またその大学の教授団の構成は該大学の出身者のみによっているのではなく、他の大学の優秀な教授を常に抜擢して構成される。その際、優秀な人を集めるには優れた図書館の存在が是非とも必要である。また大学基準協会は設立当初だけ干与するのでなく、米国のそれは絶えず質的向上を求めているから、図書館は一刻も停滞的であり得ない。従って図書館に対する学校当局の身の入れ方が日本とは格段の相違である。かてて加えて米国の一流諸大学は日本の大学に比して、歴史、規模、すべてに隔たりがある。司書職の確立には既に五十年の歴史を持っている。階層的秩序、労働時間の正確さにも十歩二十歩の差がある。図書の収集の徹底さ、或る大学では或る部門の世界の図書を全部収集していた。又一地方では各大学が分担して行う。相互貸借制度は大学、公共図書館の障壁さえ存在しない。更らには図書館の建物と設備には羨望を禁じ得ない。折から米国は図書館の立替え期にあった。古い記念館的図書館の外に、新しい利用者本位の、外形はあまり変哲もないが、内部は広い床面積を持ち、広範囲な開架式書棚の傍に机があり、ゆったりとした間隔で柔い掛心地のよい椅子があった。目録台の配置も、レファレンス室もゆったりして気持がよい。窓はスモークド・グラスのところもあり、室は冷暖房、その上換気にも注意が払われている。万事万端、本塾図書館と格段の相違で、何処から手をつけて良いか途方にくれると、帰途ロサンゼルスのカルフォルニヤ大学ムアー副館長に語ったところ、視察団の見学した図書館は米国内でも最も優秀なもののみで、それもここ五年来のことだと慰められた。

 帰国後は学校当局に全く新図書館建設の意欲が失われた様であった。新図書館計画委員会は存続されてはいたが、学校当局は第一校舎の屋上に仮りの研究室の増設に着手し、図書館には音沙汰がなかった。そこで企劃分科会では当局が図書館をたてる意志があるかどうか、確認のための質問書を提出しようという動議さえ出された。しかしそれは不発に終ったが。学校当局は専ら新図書館の建設よりも、図書館の中の改造を望み、渡米視察の成果を其処に発揮するよう督励された。その第一目標は図書館のみならず研究室をも含めた全塾の総合目録の作成であったが、図書館側、特に伊東は気乗り薄であった。各図書館、研究室から目録カード一枚を集めて、並べれば立ちどころに出来ると、簡単に考え勝ちであるが、図書館間にも記載方法に相違がある。それは一応目をつぶるとしても、研究室のそれに難点があった。研究室の事務員は小人数で、しかも多量の新規購入書を消化せねばならず、又図書取扱いに未熟であったので、到底一つに纒め得る目録は作り得ない。それをするには先づ、統一した目録法を定めねばならないし、更らに図書を扱う係の再教育が充分に行われざる限り出来なかった。そして時日をかけて仮りにそれが出来たとしても、利用者の便宜にはならない。というのは研究室の閲覧は閉鎖的であり、その研究室所属の教員しか利用が出来ない。それは三田・日吉両研究室の規程に明記してある。伊東は日常の業務に多忙である館員を、強いてそれに振り向けるのは勿体ないと感じた。他にすぐやるべきことはいくらもあると考えた。

 帰国した直後すぐ感じたことは図書館内部をもっと充実させることであった。三十七年から初めた図書の新分類採用はまだ軌道に乗ったとは言えない。NDCは新収図書から初めたので、古い分類の図書をも新分類に切替えるかどうかの問題が残っていた。米国大学図書館視察でうけた印象では、古い分類を改造することはあっても、新分類に切替えたところは僅か二つであった。コーネル大学とセントルイスのワシントン大学の医学図書館であったが、後者の新分類採用は過去に遡らない。年代が経つにつれ利用頻度は新分類に集中され、旧分類のものはその侭でも差支えないとされた。そして他の多くの図書館ではてんで問題にされなかった。これは予期に反する驚きであった。こうした結果から旧分類図書の新分類替え作業はこの段階で見送ることにした。ワシントン大学の医学図書館と文科系の慶應図書館とでは、利用の仕方の相違があろうが、程度の差であって、永い年月の間には不便さが減ずるだろうことは確実であろう。そして館員に予猶が出来る場合が若し来たら、そのとき行っても差支えあるまいと思われた。

 分類が二つに別れるという不様さを我慢せざるを得なかったも一つの原因に、新分類作業の遅れが目立つことであった。三十七年四月に開架書棚に並べる図書の充実とその新分類に先づ全力がそそがれ、引続いて新収図書が新分類で配架された。新しい仕事であり、緊張の連続であったので、そこに作業の遅れが目立った。この図書館は購入から閲覧出来るまで時間の短かさには定評があった。それが遅れる。これをせめて従前程度にしたいものである。殊に洋書課には無理があった。笠野課長は新図書館計画の事務主任でもあり、その上、米国視察団に加わって永い留守をした。その間退職者も出るということも重なって、遅滞も目立った。人事の調整が急がれ、三十九年四月笠野は洋書課長専任とし、渋川雅俊をレファレンス課から洋書係に移して補強した。新分類の採用は以上述べたように準備が大変であり、又実行の段階でも旧分類には手をつけないというような方法が止むなく採られた。しかし其の後の図書館が大幅な開架に進むだろうことは確実といえたから、苦労があっても、困難があっても、またたとえ旧分類のものに遡及しない変則的のものであったとしても、押して実行したことは良かったことと思われる。それは前原館長の督促と鞭達によるところであって、前原館長の図書館に残した最大の功績と言えよう。新図書館事務には医学図書館から、中江広一を総務課に迎えて兼任させた。そして女子一名を増員して、毛利の兼務もはづした。

 三十七年発足した増築棟の二階は閲覧事務室と開架室、雑誌コーナー、レファレンス室が並存して利用者の混雑で大変であった。図書や雑誌の開架は便利であったので利用者の殺到するところであった。しかも此の時期にゼロックス複写機を設備し、雑誌係がこれを作業したので毛利を初めとするこの課の繁忙はひどかった。その対策として毛利の新図書館事務兼任をはずすと共に、二階の混雑を和げるために、増築棟三階を雑誌専門のフロワーとする計画を立て、視聴覚機器やゼロックスもこの階へ集中して、事務の簡素化にも役立せようとし、学校当局に申請し許可を得、三十八年十一月から二階から三階への階段設置の工事に着手した。伊東の構想では自然科学系統の図書館では雑誌が閲覧の主力である。人文系でもやがて雑誌の氾濫時代が来るに違いない。そのため雑誌論文目類を集め、すみやかに利用者に紹介し得る雑誌係の養成を目論んだのである。その仕事はレファレンス係と競合するであろうが、当時のレファレンス課は稍々沈滞気味であったので、競争して文献紹介に当らせればそれも良き刺激となるであろうと考えた。

 援助によって視察団を送った学校当局は視察の成果を早く示したかったのは当然であろう。しかし図書館のやった仕事は人目につかない内部のことであった。総合目録にも着手しない。日吉図書館の全面開架の要望も、それを実行するには頑固な安食部長の更迭を必要としたが、種々の事情が重なって実行出来なかった。学生に対するガイダンスの強化も求められた。それに対しては米国の諸大学以上の学生数を擁する本塾では、映画による集団ガイダンスが適当と考え、カラー映画作成を前から準備していた。毛利・渋川は映画撮影の講習会に参加した経験を持つので、二人を中心に試作にかかっていたが、力量不足で日の目を見なかった。何より伊東にとって不幸であったことは渡米視察団の目的を錯誤していたことにあったろう。伊東は三十七年三月に副館長になった。新図書館計画はそれより一年前に発足していた。その間の細かな事情を知らない。一途に新図書館を建てるための努力の累積と解した。米国視察団参加の時も初めの話は橋本学科主任を代弁した沢本の口からで、新図書館をたてるために進歩した米国の大学図書館を見て来ないかということであった。伊東は新図書館の建設の目途が立って、その参考になることを見て来いということと信じた。従って渡米中も建築設備に注意が集まり、特に感銘を覚えたのはロサンゼルスのカリフォルニヤ大学の、新図書館の建築現場に立ったときであった。殊に電子計算機設置のための地階の基礎工事の強固さには圧倒された。電子計算機の開発こそ何としてでも準備し、実行しなければならない。電子計算機は方々の大学で見学させられた。規模はMITが大きかった。しかし、これだと思ったのはニューヨーク大学で電算機によって出来た図書目録を手にしたときであった。多少読みにくくても、一度電算機に入れられた目録は色々な角度から再生される。将来の図書館のためには電算機の知識を館員の誰れかに持たせる必要がある。帰国後、電算機の講習には努めて館員の出席を奨励した。慶應には三十八年三月電子計算機が導入され、西校舎の地階に据付けられた。その第一回の講習には図書館から伊東・笠野・毛利・寺島が聴講した。そして機械の理解には若い頭脳が良いと考えて、図書館学科出の寺島雅由にその研究をすすめ、本人も同意した。しかし残念なことに寺島は間もなく事業会社に去った。伊東が副館長をやめて運用部長になり、石川博道が副館長事務心得になったのは三十九年十月のことである。伊東の副館長としての最後の仕事は、分館北里記念図書館の津田良成を義塾賞に推薦する口火を切って、それが通過したことであった。

 前原館長石川副館長のコンビは四十年六月まで七ヶ月続いた。雑誌室が三階に完成して動きだしたこと、雑誌目録欧文編が出来て、全慶應の洋雑誌の所在がわかるようになったことが、その間の主な事蹟である。又人事にも異動があった。洋書課長が更迭され、笠野は三田研究室の主事に転出した。かわりに日吉研究室の柳屋良博が転任して来た。洋書課の渋川がハワイ大学へ図書館研修のため出張することに定まったのもこの時期である。

 新図書館計画委員会はこの頃大した動きを見せなかった。三十九年七月塾長改選期に高村が重任したとき、理事が更迭された。学務理事に佐藤朔が就任したが、その佐藤理事が審査室に研究室の建設案を作らせているという情報が伝って、企劃委員をいらだたせたが、開店休業状態は続いていた。

五 佐藤朔館長のビジヨン

 第二次高村塾長の時代は昭和四十年の授業料値上げに対する学生のストライキによって、大揺れに揺れて終熄した。おとなしい学生といわれていた慶應がこの種の学生運動のトップを切ったことは、異例なこととして世間の注目を浴びたが、次の年には早稲田大学が、翌々年には明治大学がストに捲きこまれ、年を経る程激しさを加えた。それはさておき、高村塾長辞任のあとには法学部教授永沢邦男が塾長になり、前原光雄は望まれて理事の一員に加わった。前原は図書館への情熱はあったが、先輩永沢の懇望は断り切れない。館長は更迭せざるを得なかった。早速商議会が開かれ、前館長兼理事として前原が出席し、学校側の希望を述べた。それは後任館長に前理事佐藤朔を推したのであった。商議会の協議によって、無投票でそれは可決されたが、商議会の希望として、当局からの一名の指名は今回限りとして貰いたいとの発言があった。

 こうした経過で佐藤朔の館長就任はきまった。文学部出身の館長はこの図書館では初めてであった。もっとも大学令による前の文学科出身には田中一貞があるが。由来、慶應は理財科という名称から変った経済学部が世に名を知られ、慶應を代表した形を永くとっていた。要職は経済学部出身が多い。図書館長というような文学部出身の者が他校では多いようなポストも、慶應では今の図書館が出来てから五十五年の歳月のうち、三十七年間は経済学部の教授から選任された。法学部出の前原光雄の跡をうけて、やっと文学部出身の館長が出来たわけである。佐藤はこのあと塾長になった。仏文学者の大学総長はそれこそ慶應に限らず、あまり多く存在しない。こうした畑の人は総長という激務には堪えられないように世間は考えている。これこそ異色ある人事であった。

 佐藤は明治三十八年東京に生れた。本名勝熊は日露戦争の勝利を祝って名付けられたものといわれる。その後、ペンネーム朔に改名した。中学は開成で、高村象平と同期であった。共に慶應の経済学部予科へ入学したが、本科に移るとき文学部にかわった。幼い頃から詩を作り、大学に入って西脇順三郎の影響をうけて、文学に興味を持ち、転科して仏文学を専攻した。広瀬哲士教授の下で雑誌「仏蘭西文学その他」を編輯し、「詩と詩論」の同人になったりして、新しい仏文学の紹介に熱心であった。卒業後、大学助手、予科教員、文学部講師になったが、胸を患い、闘病生活に永い休講を続けた。佐藤の学者として教授としての活躍は戦後である。闘病中も絶えず仏蘭西の新しい波に注目をしつづけていた佐藤は、後藤末雄・井汲清治らの中世仏文学研究の慶應仏文科のイメージを変えた。其後、欧羅巴に留学して円熟味を加え、帰国して塾仏文科を益々新鮮にして活気あるものにして行った。

 三十五年八月には慶應外国語学校長、翌年五月に文学部長、三十九年六月には学務理事を経て、四十年六月図書館長となり、重任をかさねて四十四年六月まで任にあった。行政的材能も経済や法学部出身とは違ったものがあって、それはそれとしての効果をあげた。

 佐藤は館長になる前に学務理事であり、図書館にも目を向けた。しかし向け方が今迄の理事と違っていた点は、図書館に関係あることは図書館学科に諮問することであった。図書館学科は文学部の一科であり、橋本図書館学科主任を初め、図書館学科の教授藤川・中村・沢本は文学部教授会で常に顔を会わせていたから、絶えざる接触がある。そこで佐藤は専門家としての図書館学科の人々の意向を図書館に反映させるよう努めた。それは図書館長になってからも同様である。

 佐藤館長の図書館における最大の業績は、研究教育情報センターへの道を切り開いたことにあるだろう。しかしそれは次節に譲ってここでは図書館の運営に限って述べよう。佐藤館長は文学者であるだけに、今迄の館長と違った感触があった。ある種の語彙をしばしば使う。言葉そのものは平凡なものでも、屡々それが館長の口から出ると一種の雰囲気が醸し出される。

 佐藤館長の館員に対する第一声は広報活動(PR)を最大限に行えということであった。前にのべた小展示なども塾報に予告するだけでなく、看板を立てたり、掲示をしたり、宣伝に努める。新刊洋書速報を印刷して広い範囲に配布する。新刊棚を玄関受付の傍に置いて、購入書を利用者に知らせる。「八角塔」という雑誌を発行して図書館の使命を理解させ、現状を訴える。図書館の建物が重要文化財に指定されると、絵葉書を作って配布する。展覧会の開催には積極的である。そしてその展示目録作成に力を入れた。それは記録としての価値を重んじたからである。ちなみにこの期に催うされた展覧会を列記して置こう。

「国際大学総長会議歓迎展」四十年十月
「サルトル・ボーヴォワール来塾記念両氏著作研究文献展示会」四十一年九月
「幕末伝来蘭英書展示会」四十一年十二月
「資本論刊行百年記念図書展示会」四十二年十一月
「善本稀本展」四十三年十二月

 PRと並んでビジョンという言葉も多く聞かれた。館長は在任中、幾度か館員に図書館のビジョンを聞かせよと声をかけた。就任してすぐにも、或は新研究室建設が進んで図書館が取り残されそうに思はれたときにも、その時々の変化に即しビジョンを持つことを強調された。そして「試行錯誤」を重ねながらも実行に移す。この言葉も館長の口からしばしば聞かされた。又「収書の柱」というのも図書の選定のときよく耳にした。これは館長も苦慮したところであったから、後にも触れるであろう。

 佐藤館長の図書館ビジョンはこの図書館を中心にして、日吉・四谷・小金井との連帯を強める中央図書館制の強化で、それは卒先実行している。この点では歴代館長中、最も努めたといえるだろう。前館長時代からの課題であった工学図書館分室も、工学部の希望に添って、就任した直後に分館に昇格させた。医学図書館の組織改善の稟議にも積極的に努力した。十月には分館の副館長の改選があって、小金井は高橋吉之助、四谷は外山敏夫が任命され、日吉の要林茂と共に、長期構想の下で本館との連絡を密にすることが申し合わされた。そして中央図書館制の柱となるものは、総合目録を中央図書館のうちに置くということであった。

 図書館に総合目録をという声は前々からあり、図書館学科の教授陣も熱心に希望するところであった。佐藤館長は分館や研究室の実状を聞き正し、就任早々の四十年八月、先づ手始めに日吉研究室の目録を本館にも置こうと試みた。日吉研究室の目録は日本目録規則に準拠しており、又仏文学関係の図書は本館より充実していることを、兼々知っていたので、早急に実行を命じた。そして他の図書館・研究室のものは目録記入法の統一を先議してから、作成することになった。しかしこの二つは実現しなかった。前者は日吉研究室から送られてくる目録カードで、先づ年報(月報がこの頃は年報になっていた)の原稿となり、そのあと配列される。その配列は総務課の仕事としたが、単なるカード目録の編成でも、片手間では出来ない。本務の繁忙の間をぬって時間をかけても結局出来なかった。後者は総合目録作成のためには著者主記入のものでなければならないとされたが、和漢書では書名主記入が図書館界に底流として強く主張されており、館内でも強硬に主張して止まぬ者もあって、急な結論が出ない。そこで取敢えず洋書の分だけの記入統一が合意に達した。しかし合意が出来ても、訓練に不充分なところもあって、分散された各所で一斉にそれを実行するわけには行かない。これも整理課の統合の実現なくしては出来にくい。まして過去に遡っての総合目録の完成には、多くの人手と巨額の費用を要し、簡単に出来るものとは言えなかったが、とも角も初めようとする意欲を打ち出したことは確かであった。

 三十九年に医学図書館の津田に義塾賞があたえられたのは、利用図書館としての評価を高く買われたのであって、その点では三田の本館は倉庫的図書館と評されていた。利用者に対するサービスが医学図書館より劣るとされていた。これまでに見てきたように本図書館は教育図書館であると共に、研究図書館でもあった。そして田中監督以来、永い間、後者に重きを置いて来た。前原館長以来、稍々学生図書館への傾斜をとったのは、研究室の充実が目に見えて来たからに外ならない。また研究図書館に重きを置くといっても、研究者用の図書・資料の収集と保管に重点が置かれていて、その提供に積極的な宣伝とサービスが不足していたことは否めない。そうしたことは文科系大学にあっては研究者の努力の領域と考えられ、前述したように教員がレファレンス係に質問することは極めて稀れであり、寧ろ研究者のプライドから図書館員に教示されることを不快としているのではないかとの感もあった。自然科学系統には索引類の印刷物が比較的多く、人文・社会科学系統には少いという事情も、研究者に対するサービスに難易が生じて、満足をあたえない因にもなったかも知れない。こうして一概に比較出来ないにしても、利用本位という見地に立てば、医学図書館の方に軍配があがるのは確かと言わねばならない。図書館学科は口を極めて医学図書館を推賞した。佐藤館長もその線に沿って、図書館の現状を見守りつつ改善に努力をつみ重ねた。

 四十年四月雑誌室が完成されて、増築棟の二階は開架室とレファレンス室と閲覧事務室の三つが残った。そこで館外貸出を活発にするために閲覧机が拡大され、従来の大学院修士・学部四年生に加えて、三年二年の三田に学ぶ全学生に、その範囲が拡げられた。又この時期に欠本書の目録カードの除去が行われた。蔵書は従来、慶應義塾の重要なる財産であるとして、欠本の除去は認められていなかったので、五十余年に渉って発生した紛失本の目録カードはそのまま存在していた。閲覧者が請求しても常に見られない図書があり、それが不平の種となった。除去はそれをある程度解消した。又、書庫内の整頓、掲示の増加で、書庫検索の出来る教員や博士課程学生の便宜を良くした。開架室は全面開架から柵を作って入口でチェックする制度にかえた。これは一見退歩であるように見えるが、従来のような全面的な自由は、まだ紛失が多く、三十七年開設以来三年間に二二%の率に達した。チェック制度はそれを充分防止することが出来、それが永く定着した。四十年九月研究者及び修士課程学生のための座席を増さんと、三階予備室を閲覧室に改造した。この室は古くは展覧会場に使われ、その後大量入荷の場合の整理室となり、戦後は亜細亜研究所解消の際の図書の保管場所に使われた。その未整理本を地階に移して、部屋を明け二十四名の座席を作った。

 図書館における複写はゼロックス複写機を導入してから、その作業は利用者の好評を得て繁忙であった。そしてその利益を積み立てて、サービスをより有効なものに育成する資金源とした。つまり図書館の自主運営としたのであるが、それは必ずしも学校当局の好むところではなかった。しかし接衝のあと、硝子張りの公開を条件に許可された。佐藤館長もその方式にのっとり、更らに医学図書館なみの有料サービスを増加して、什器の充実に力を入れようと企てた。四十一年七月にはA・B・デック(オフセット印刷機)を購入して目録カードを作り、四十二年八月にはエレファックス(整版機)を買って、新刊速報の発行に役立たせた。また視聴覚資料拡充のため四十三年二月レコード・プレヤーを購入し、レコードも追々買整える手筈をなし、同年十一月には金銭登録器を購入して収支の正確を期した。

 収書に対して佐藤館長は研究者のため、学習のため、貴重書・特殊文庫などのものと三つに分け、それぞれ並行的に収集する計画をたてた。研究者のための収集では各学部からの推薦の公平を期して、その範囲を学内研究所や日吉の教員にもその門戸を拡げた。教員推薦予算の一定額以上は図書館で選定するが、選書方針確立のため、先づ従来の収書分野を詳らかに調査させ、そして今後も続けるもの、新しく収書努力に加えるものを選定した。それが先きに触れた「収書の柱」というものであった。色々な案が出され、模索されたが、結局はボードレールからシュールリアリズムまでの仏蘭西近代詩文献が柱の一本に組み入れられたことが特徴であろう。これは館長の専攻する得意の分野であり、この図書館に手薄だった部門である。又、計画的収集の中に図書の端本の補充があった。戦争を間にはさんで図書及び雑誌に多くの欠号があった。そこで先づ図書を三年がかりで六百万円の臨時費で補充に努め、ほぼ所期の目的は達せた。次で雑誌のバックナンバーの充実に着手したが、それは中途で退任した。

 学習のための収書には指定図書の強化があげられる。指定図書推薦は既に三十六、七年つづけて教員に依頼したが、その後途絶えていた。三十六年には多くの解答が得られたが、翌年は激減した。それは指定書とはいうものの米国の指定書制度のようにはゆかない。教授法に違いがあるので、単に参考書とか優良書とかを推薦してくるのであるから、毎年同様のものとなり、教員自身が推薦するというより、配下の者に選ばせることにもなりかねない。そこで二年で打切っていたものを複活した。四十二年二月当時の大学図書館設置基準案に基づき、指定書の本来の趣旨を館長自身教授会で説明し協力を求めた。そして一、二冊の配架でなく、数冊揃えて開架室に並べ、効果をあげようとした。しかしこれでも根本的な問題で充分効力を発揮しえたとはいえない。或は学生数の少い大学院なら出来るかも知れないと述懐した教授もいた。マンモス・クラスでは図書を宿題として読ませる、きめの細かい米国式教授法は困難であるように思える。

 貴重書の収集は図書予算からの制約もあり、目前の利用に重点を置いたのでそれ程多くはなかった。しかしこの図書館の伝統を無視出来ないとして、各分野の教員に応援を求めて購入に努めた。この期の稀品には志田野坡関係の俳書の一括購入、アダム・スミスの書翰二通、ベトナムの風俗資料アンリオジエの「ベトナム民族の技術研究総序説」などがある。寄贈で特色あるものは山本洋一寄贈の故山本久三郎遺蔵書がある。その中には同人宛の書翰二百余通があった。山本は帝劇専務として活躍した経歴から演劇関係者のものが多く珍らしい。又故小島栄次遺蔵書八千余冊も経済地理学の和洋書をひろく集め異彩であった。

 最後に図書館の特別集書として三田文学ライブラリーの設立がある。四十一年雑誌「三田文学」が永らく休刊されていたのが、複活されたのを期に、作家久保田万太郎の寄附した著作権によって、塾内に日本の近代文学研究を盛りあげようとする運動が起された。講座の開始や出版物の発行と共に、三田文学関係の作家の文庫を造り、図書館内に置こうとするものである。三田作家の初版本・原稿・ノート・色紙・書翰類を集め、三田文学及び近代日本文学研究者の便に供しようとした。これは久保田万太郎記念資金委員会によって発起されたものであるが、同会の会長として発起人の一人である佐藤朔がすすんで図書館内にそれを設けたのには、留学中、仏蘭西のサント・ジュヌヴィエーブ図書館内にあるジャック・ドウセ文庫を見学し、そこに収集されたフランス近代文学者のおびただしい文献の山に驚き、羨望したからに外なるまい。計画は四十一年春に初り、八月発足した。場所は戦前鏡花室を設けようとした図書館八角塔の二、三階をあてた。こうした収集は一朝一夕では出来ない。こつこつ集められ、何時の日にか日本近代文学研究には欠かせない文庫となるであろう。

 なおこの期の図書購入に二つの補助金が文部省より助成されたことを付加えよう。一つは四十二年よりの私立大学理科等教育設備整備費補助金であり、他は四十三年よりの私立大学教育研究費補助金であった。前者は従前は理科系学生の実験のための機械器具および校具にかかる補助であったのを、文科系大学の学習用和漢図書にも拡大されたものであり、後者は私学の研究教育の振興と経営の保護のためであった。共にその事務処理は繁雑を極めたが図書の充実には好結果をきたした。

 学生自治会の団体交渉的要望は高村館長時代から初まって、前原時代を通じ益々頻発して行った。交渉項目は貸出時間・貸出期間・貸出冊数・書庫内検索など、あいかわらずの要求であって、貸出期間・冊数は漸時エスカレートする傾向にあったが、書庫内の検索についての修士学生の要望は最後まで実現せずに終った。それは貴重書の限界が不明瞭で、書庫内に紛失したくない貴重と考えられる図書が、まだ多分に配架されていた。それらを整備しての上でないと開放出来ないと答えた。学生自治会の要望は四十三年度には学生活動家の運動の活発化という背景もあって、強硬になって行った。

 医学研究費に米軍の援助があることに対する反対に端を発した塾内の学生運動は、四十三年九月全学連の塾監局占拠、文斗連の教務部占拠、社学同の医学部中央事務局占拠が行われ、通信自治会による通信事務室占拠も発生した。学内各所に学生は立篭ったが、図書館のみは平生通り開館し続けた。もっとも日吉図書館は学生の封鎖にあって閉館された。翌四十四年四月法学部学生五名から書面で要望書が届いた。年中無休を原則とし、休みは大晦日と正月三ヶ日に限ること、そして閉館時間は日曜・休暇を問わず年中午後九時にされたしという法外なものであった。学期始めなので学生運動の塾内における動向はまだ掴めなかったが、噂は噂を呼び不安定であった。要望学生に対しては人員の不足を理由に拒わったが、それに対しどう反駁が来るかわからぬうに、同年六月館長の更迭を迎えた。

六 研究・教育情報センター計画

 佐藤館長の図書館における最大の業績である研究・教育情報センター確立への道程を、ここでは語る。それは図書館には新図書館計画委員会があり、研究室には研究室建設計画委員会が出来、更らに学校当局にもその主唱によって研究・教育計画委員会が出来た。それぞれが自らだけの問題でなく、お互に錯綜しあう問題を各別に討議していた。したがって図書館側の意向を貫くには他の二つの委員会を説得しなければならない。そして種々な経緯を経て、図書館と研究室を一丸とする情報センターの確立を成功させたのであった。それを順序だてて詳説しよう。

 先づ佐藤館長は初めからこの構想を持っていたのではなかった。第二次高村塾長の下で学務理事であった頃は、当面の問題として新研究室の建設が急がれた。第一校舎の上に仮りに立てられた研究室では教員の満足を得ることが出来なかったので、本格的な建物を早急に造らねばならない。そこで審査室の岡本章に命じて、新研究室建設構想をつくらしめた。岡本は三十九年十一月諮問をうけて、一橋大学その他の大学研究室を参観したりして検討を重ね、十二月岡本案を提出した。それは現在の三田情報センターのある地区で、第一校舎と研究室とを結ぶ廊下を考え、内部は書庫を真中に置いて、周囲に研究者の個室を配置するよう考えられた。図書館はその完成後、背後に教育用図書館をつくる。そして今迄のは一部展示用に使ったり、記念館的図書館として保存する。教育用図書館が出来るまでの一時措置としては、南校舎のピロテイを図書室に改造する、という構想であった。しかしこれらは何も手がつかないうちに、高村塾長は辞任し、佐藤理事の計画は次の代の理事に引渡された。

 永沢塾長の下では石川忠雄が学務理事になり、佐藤は図書館長になった。図書館には新図書館計画委員会があって、新しい図書館の建設を目論見ていたが、この頃の同会はその意図する方向に充分な力を出しているとは言えなかった。七月一日に開かれた企劃委員会の討議は、前原時代夏期二回に渉って開かれた図書を取扱う職員の研修会を今年も開くか否やの問題であった。それも前原館長末期に討議された二番煎じで、研修会の効果は一応認められるが、同じ形式の存続では職員の共感は得られないとし、図書館学科への研修に切り替えられるという、いわば末梢的な議題が論じられていた。

 ところが佐藤理事から石川理事へ引継がれた新研究室の建設計画は着々具体化して、八月には、近く三田研究室建設計画委員会が出来、教員が委員となり、三千坪で地上四階地下二階の建築が建つであろうとの噂が入り、次でそれを裏付けるかのように研究室運営委員長高鳥正夫、同資料室委員長黒川俊雄、同主事笠野滋の連名で、九月に官報や新聞紙、マイクロなどを二年間図書館に移管したいとの交渉があった。研究室の建設は速やかに着手されているように見えるが、新図書館の方は挫折感が濃い。そこで十月には新図書館計画関係者の懇談会が持たれ、図書館と図書館学科の主な人々が会して、新図書館計画委員会の今迄の方針を再確認した。即ち図書館と研究室とを一体とし、図書センターと呼ぶものの構想である。

 四十年十二月三田研究室建設計画委員会の委員が依嘱され、第一回会合は翌四十一年一月二十一日に行われた。それに対抗して新図書館計画委員会では基本構想をはっきり打出す必要があるとして、急に活動がはげしくなり、図書館副館長である石川・高橋・外山に加うるに図書館学科の藤川・沢本両教授が情報検索手段委員会(インフオメエシヨン・リトリーバル・システムズ)(I・R・S)を作って盛んな討議を重ねることになった。この二本の並行的路線の外に、前述したように学校当局の研究・教育計画委員会設置の発表があり、多数の教員を委員とし、その審議によって義塾創立百年以後の新しい指導理念と体制の探求にとりかかった。こうした討議は私立大学の経済的困難よりくる経営の危機感から発するもので、ひとり慶應のみの発想ではなかったが、慶應では四十年十月二十八日に第一回の会合が開かれ、佐藤朔が委員長に選ばれた。元より長期の目標に向って、研究・教育体制の理想像を画かんとするものであるが、現におこりつつある計画も討議されねばならない。とすると三田の研究室をどうするかもすぐ問題となる処である。

 図書館と研究室とは野村館長時代に疎隔されて行く状態にあったとは既述した。その後高村・前原両館長は研究室の図書委員長とは緊密な連絡をとり、主事も田中市郎衛門から山口清重に変って、図書館との関係も改良されて行った。殊に前原時代の夏期行われた研修会によって、両者に働く人々の交歓が出来て理解を深めたことは確かである。しかし図書館の方が成立年代が古いだけあって、比較的に整備されており、また館長の統率も利いて纒まっていたのに対し、研究室は新しく、しかも図書館的訓練に不足している人々が多く、各学部別に統率されていたから分散的であった。けれどもそれなりに良い面もあって、例えば利用者、即ち教員と密着していて活気があった。一方は伝統みたいなものがあり、他方には新鮮さがあった。山口が退任して笠野が主事になったのは、研究室も図書館的訓練を持った者が運営する方が効果があろうと、学校当局が判断したからであろう。同時に研究室職員にも図書館学科出身者を多く採用した。図書館から笠野が転出され、図書館と研究室との間の連絡は充分採れるようになったかというと、そうでなかった。それは教員の間に図書館不信感があって、笠野の力ではどうにもならなかったのであろう。専ら笠野は図書館とは別個の新研究室建設に挺身した。

 三田研究室建設委員会は四十一年二月第一回の会合を持ち、二回三回と回を重ねるうち、建物の内部構造の設計が具体化して来た。そして四月から研究室の教員使用のスペースの討議に入り、教員自身の問題なので白熱化し、各学部間でスペースの分捕り合戦的様想を呈した。それが決着したのは六月である。次で七月から研究室の管理組織に関する小委員会が持たれ、その答申は九月三十日に出されて委員会は解散した。研究室の委員会は建設を予定される設計図を前にしての具体的討議であったのに対し、新図書館のIRS委員会の方は、図書館と研究室とを含めた研究教育センターのビジョンの討議である。センターの具備すべき機能はどうあるべきか、図書情報の捌き方、それに電子計算機をどう使うか、管理組織はどうあるべきかなどであった。

 研究室は第一期と第二期とに別れて建設の予定で、西側から始まって図書館に接近するのは後になる。そこで第二期工事の着工前に図書館側の具体的構想をまとめて置く必要がある。その検討の要請を館長からうけたのは、研究室の所要スペースの決定時期の六月である。図書館と研究室図書の集中整理の方法、それに伴なう図書館と研究室をつなぐ懸け橋の付設場所、整理事務室、複写室などの所要面積などが、新図書館計画委員会で研究された。

 こうした新図書館側の動きに対して石川学務理事からは採用するとか、しないとかの確たる言質はまだ得られなかった。ただ基本構想があらば長期計画として採り上げられようと曖昧に言われるだけであった。佐藤館長の任期は四十一年九月に切れたが再選された。館長は改めて各課別に館員に会い、その抱負を述べると共に、その課の仕事上の悩みを聞いた。捲土重来を期し意欲充分であったが、新図計画を研究室計画と調和しうるかは、不安定であった。石川副館長には万一計画が出来ざる場合、壮大なる研究室の建物から取り残された図書館を、どう運営すべきかを諮問し、石川は図書館の部課長に諮って図書館改善拡充試案をまとめて提出した。

 他方、新図書館計画委員会は塾内の情況から判断して改称することになり、四十二年一月研究・教育情報センター委員会となった。そしてその中に実行委員会・企劃委員会、それに専門分科会として利用と管理の両分科会があり、それぞれ委員が依嘱された。それらの会の庶務は図書館内に置かれた事務局が掌る。この構成は大体新図書館計画のときと同じである。実行委員会の諮問機関である企劃委員会が活動の中心を形作る。委員は文学部教授印東太郎、図書館学科教授藤川正信、副館長石川博道、医学図書館総務部長心得津田良成の四名で、事務局主任は図書館総務課係主任の毛利信吾がなった。名前の改称は新図側では図書センターと呼び、新研側では研究センターと唱え、何か混同され易く感じられたので、イメエジ・チェンジの必要があった。そして人を惹きつけるような名称をということで、情報という文字が採られ、研究・教育情報センターとなった。新センター委員会が発足して討議されたことは総合目録作成のための目録記入の統一達成、教員に対するレファレンス・サービスであり、教員がどの様なサービスを希望しているかを知るために、文献情報利用のアンケートを求めた。

 四十二年十二月、以上のような情報センター委員会が屡々会合されている間にも、研究室の第一期工事は着々進捗しており、図書の整理計画や総合目録の作成計画やらが、それに伴って研究室側でも練られていて、情報センター側を焦だたせた。まだ実態を踏まえている研究室側のペースが優勢であるように見えた。それが稍々明るい希望が情報センター側に見えたのは、研究・教育計画委員会の研究体制の答申の中で取り上げられたことである。四十三年一月二十九日教授生田正輝を主査とする第三分科会の答申で、研究組織及び研究を直接補助する事務組織を近代化し、研究室、研究図書館の運営の能率化を計るべきであるとし、その細部は研究・教育情報センター委員会の検討に委ねたいと言って結んでいる。

 それが同年三月の総まとめである答申においては、第三分科会の答申が再確認された上、次のように力説した。図書館・研究室などの研究施設は、できうる限り一元的に管理され、運営は近代化・能率化が望まれること、研究・教育情報センターを確立して、その中で研究情報活動が積極化され、研究設備の拡充も行われ、学内の研究施設の緊密な連繋、同時に学外、海外の研究機関との連携強化をすべきであるとした。前述のように研究・教育計画委員会の委員長は佐藤館長兼務であったから、この委員会へ、情報センター委員会の理念・構想は絶えず流されており、必要ある場合は藤川・沢本委員を出席させ、現状説明にはより詳細なデータを提供するなどの努力の積み重ねが、この結論を生んだわけである。当初、新研究室構想で頭が一ぱいであり、新図書館計画にまで考えが廻らなかった石川学務理事も、情報センター構想に賛意を表し初め、四十三年二月には事務局の強化を提案し、接衝のあげく審査室の孫福弘が加わった。五月には「研究・教育情報センターの構想」なる印刷物を発表し、永沢塾長も研究・教育のための環境の充実をはかるという基本的姿勢を汲みとって、協力するよう教職員に呼びかけた。

 六月塾長は研究室運営委員長より申入れのあった研究室の複写設備の拡大要求に対し、情報センターで全塾的観点から考えるよう要望があり、同時に三田における図書資料の収集・運営に係わる諸問題をも解決するよう期待された。こうした具体的問題に取り組むために三田特別委員会が作られた。構成員は研究室の運営及び図書委員長ら十三名、研究所主事一名、図書館学科教授三名、図書館員三名と実行委員長佐藤の二十名であった。図書館の三名は石川・伊東に、四十二年米国留学から帰朝した渋川が新知識を買われて参加し、主として渋川の立案する計画案を検討し、十月三十日答申した。複写の問題にしろ、図書の収集・運営の問題にしろ、研究室と図書館とを一体として運営しようとするセンター構想には、教員側に強い反撥があった。教員は研究室の現体制を保全する希望が強く、一本化は困難であった。そこで移行措置として研究室の自主性を尊重し、収集・受入・整理のプロセッシング・センター以外は現状のままということで妥協した。妥協の合意に達するまでにも、小委員会を作って頻繁に会合を重ねる必要があり、そうすることによってセンター構想の真意を、教員側にも理解させ得たと言える。

 情報センターの大筋が決定したので愈々移行準備のため、四十四年一月、事務局が強化されて準備事務室となった。三月には名称が改められて準備本部となり、四月その人事が定った。準備本部長は佐藤館長が兼任し、本部長付に石川博道、津田良成、栗本省吾(研究室主事)長沢雅男(図書館学科助教授)事務主任には福留孝夫が医学図書館から転任して来た。そして同年十月を目途に準備活動を初めた。

 ところがこの段階で準備本部の計画に対して図書館員から反駁が出た。石川副館長は本部長付であり、計画決定に参劃すると共に、図書館側への説明とその納得をとり付ける役割を持つものであったが、副館長が本部から図書館に戻って説明するところによると、突然に現われる新事態が数々あった。その主なるものは本部では部課長制を廃止して、チームリーダー制を採用し、そして後々専門職制を導入するという。これに対して図書館側では専門職制をスタートさせてから、部課長制を廃止すべきであるとした。部課長制を廃止して、すぐ専門職制が出来るとは考えられない。慶應義塾の給与体系からはみ出した制度は後においてき堀にされ兼ねないと思惟された。図書館の部課長制の廃止は一つのビジョンであるにしてもこの段階では時期尚早と思われた。も一つは三田研究教育情報センターが出来ると共に図書館は消滅するという。但し研究室は教員の反対によって存続するという。これは寝耳に水といった観があった。四十四年十月の三田特別委員会で可決された答申によれば、選定されたる図書はプロセッシングセンターを通して、総合研究図書館、学習図書館、各専門別研究図書資料室へ流される筈であった。本部会は図書館員の意見の反映が不充分であるように思えた。こうした動きに館長は心配して、本部会に図書館と研究室の部課長を加えるよう提案して、実行されたのは五月中途である。そして図書館側と本部との調整は間もなくついた。

 六月佐藤館長は塾長になったが、慶應義塾研究・教育情報センターへの出発は、ともかく路線が定められるまでこぎつけて退任したというべきであろう。学務理事のときは新研究室の実現に努力したが、間もなく図書館長となり、館長としての立場から眺めるとき、新研究室だけの建物というのには厭き足らず、新図書館計画委員会を足場に全慶應内の図書政策の中で、その統合に努力した。そしてこの計画を是非とも実現させるべきだとの確信は、四十二年四月から五月にかけてのアメリカ旅行によって、さらに深められた。この時はミシガン州立大学百五十年記念式典へ、塾長代理として出席するのが目的であったが、その前後、各地の大学図書館を視察し、新図書館構想に対する示唆を数々うけたのであった。しかし何分にも新しく研究室の建物を作るというのは永年の懸案であり、多数の教員の支持するところであったので、館長を初めとするその委員会の努力はやっと一歩前進したかと思えば、また後退するという風で、遅々とした歩みであったが、先づ塾長・理事らを納得させ、次で教員達の理解をとりつけ、最後に図書館内部の不平をも鎮めて基礎を固めたと言えよう。佐藤館長は終始図書館学科(この期の中途から図書館情報学科と名称を改めた)と緊密な連絡を保ち、永い努力の末の成功であった。その奮闘は正に三面六臂といった観があり、窮地に立つかに見えながら、最後には果すべき役割を適格に割付けた手腕は見事と言えた。労力をおしまず、気軽に学校当局へも働きかける、そうした点を石川副館長は常々徳としていた。五月二十一日、塾長候補詮衝委員会で候補者が佐藤一人にしぼられ、塾長推薦がほぼ確実になったその日、佐藤館長は館長室のデスクを片付けた。それを手伝って部屋を出た石川は、執務日誌に「良いそして立派な館長であった」と記した。

七 高鳥正夫館長の就任

 佐藤館長の手によって図書館と研究室が纒められ、研究教育情報センターの発足への見透しが立った。もっとも頭初考えていたような完全な一体化ではなく、研究室管理は別だてに、研究室図書の選定は教員によって構成された図書委員会にまかされ、研究室に関する限り、その選定された図書を整理し、運用し、保管することが情報センターの責任の下におかれる。これが大綱である。図書館は情報センターの中に溶け込む。影も形もなくなって、生硬な、耳慣れない情報センターという名称に変る。其処に図書館に永年籍を置いた人の不満がある。図書館と研究室とが合同されて一つの組織になるということは、年来の理想とされ希望することであった。ところが教員側の希望はかなえられて研究室は残され、図書館だけが消えるというのは、何となく割り切れない。研究室が残るなら、図書館も残るべきだと考え勝ちである。しかし発表された直後の昂奮が収まると、もともと統一体を希望していたのではないか、研究室が残ったとて、理想に一歩近づいたわけではないか、と反省され、佐藤館長のその構想は大体納得された。こうした最中に館長の更迭が行われた。

 恒例によって商議会が開かれるわけであるが、今回は上述のような機構改革への中途の更迭であるので、誰れに決まるかによって、その成行きに重大な影響を及ぼす。当局側の推薦者銓考は慎重に考えられた末のことと思われる。六月十六日の商議会において推薦されたのは、法学部教授高鳥正夫一名であった。商議員側においても図書館と研究室との問題の重要性は良く認識されており、その上、学生紛争の最中にある時点において、当局への協力の必要から投票という手段によることなく、殆んどが賛意を表した。たゞ一人、法学部からの商議員平良が教授会に諮らねばきめられないと、解答を留保した。しかし高鳥就任決定はそれから間もなくであった。

 高鳥新館長は大正十一年新潟県長岡に生れた。慶應の法学部法律学科を卒業し、商法特に会社法に詳しく、学位をとった。高鳥はごく最近まで研究室運営委員長をつとめて、研究室の事情に明かるく、かたがた図書館との合併の折衝にも参加していたので、これ迄の経緯を知悉していた。加うるに四十八歳という若さは、学内の紛争にも身軽るに対処し得るものと期待されたのであろう。

 館長の先づ当面する仕事は情報センターの発足の準備であった。佐藤前館長構想の情報センターは準備本部が出来て、その発足への準備は着々進んではいたが、まだ全部固まったとは言えない。図書館内にも、研究室の事務側にもくすぶった不満が存在し、教員の間にも図書館の名の無くなるのを怖れる人もあり、消えるのを寂しがる年配者もいた。情報という文字に抵抗を感ずるという人もいると言う風に、まだ事の次第によっては荒れる心配もあった。これらを如何に滑らかに三田情報センターにとけ込ませるかが、手腕の見せ処であった。

 他方、学生の学園内の紛争はその目標を次々と変化させて、激しさを加えて行くようであった。学期初めの四月頃より沖縄闘争支援、或は大学立法反対と称して、各学部の学生大会が次々と開かれ、スト強行への実力行使を虎視耽々と狙っていた。そして新館長出現の六月の末には、日吉キャンパスに大規模なバリケードが築かれ、ストライキに入った。これがため日吉図書館は閉鎖され、出納手の一部は三田の図書館の仕事を手伝った。いつ何ん時、学生の校舎占拠が三田へ波及するかわからない。その際、四十三年のときの様に図書館はその圏外であり得ようか。学生が頻繁に利用する図書館は学生自身の利益のためにも、占拠はしないであろうとの考えは希望的観測であって、学生側からの保証は何もない。激動下の学園内にあって、伝統の図書館を如何に守るかも、新館長に期待されるところのものであった。

 館長就任の翌七月、法学部修士学生五名から佐藤塾長宛に、質問書が郵送された。佐藤館長時代に休館日の減少と平日の閲覧時間の延長とを求めたとき、館員の増加が認められない限り実行出来ない。目下の塾の財政ではその増員は無理であるとの拒絶回答を出した。そのときと同一の学生達である。彼らが再び質問するところは塾長の座についたならば、図書館の増員の工夫が出来るであろう。速やかに要求を実行されたいという趣旨のものであった。ところが、塾の財政事情は昨年と同様であって、たとえ塾長の地位にあっても、他との均衡を破って一つの職場の増員は出来ない。拒絶するより仕方がない。しかし他方、学内の紛争は日吉から三田へエスカレートする状態にあった。七月八日南校舎二階が文闘委を中心とする学生に占拠された。そこで法学部修士の一部の学生の要求であっても、無視すれば更らに大きな波紋を呼ぶとも限らない。そこに学校及び図書館当局の苦悩があった。結局、さし当っての夏の開館にしぼって処理することになった。夏期は例年であると、休暇中に通信教育部のスクーリングがある。前半は体育課程履修の必要から、日吉校舎で行われ、後半は三田で行われる。そこで前半は三田の図書館は正午閉館で、後半だけが月水金が七時、火木土が正午閉館である。正午閉館の日を何とか後半の月水金なみの七時閉館に出来ないものか。幸か不幸か、この年は日吉校舎は封鎖されて使えないので、全部を三田で賄うことになった。休暇中の火木土を七時とすれば足りる。そこで専任者の増加なくして開らける工夫がなされ、新日本ビルサービス株式会社に要員を依頼することになった。全くの門外漢が配員されるので、その間は図書の貸出は停止する。閲覧室だけを解放し、その他の通路は扉を閉ざして出入させない。これで要求学生の同意が得られた。彼らは司法試験のための勉強が目的であったので、閲覧室が開いているということで満足したのである。図書館にとってビル・サービスの要員使用ということは、必ずしも初めてではなかったが、専任者の増員が不可能に近い状態にあり、又時間外勤務の強制も出来かねる場合、その利用は此の後、何かと便利に使われた。

 準備本部会はこの時期も続けられていた。情報センター組織機構が論ぜられ、規程の作成が急がれた。そうした八月七日の本部会において、高鳥館長は図書館の名称を図書収集の機能面で残すと発言した。永い間に集積された図書館の蔵書の特徴を今後も生かすため、図書館員の選書スタッフを活用して行くということである。新研究室の書庫棟には各学部の図書委員会によって選書された図書を収蔵し、図書館には図書館図書選定委員会によって選らばれた図書を追増して行く。研究室の図書は教員によって選ばれるから、当該教員の専門書は周倒に集められるであろうが、図書館の場合はより広い視野から収集し得る。目前の研究にこだわらず、先きを見越した収書もなし得るという便宜もある。更らには高価にして稀覯な図書も選定し得るかも知れない。他方、こうして図書館の名を残すということで、不満を内に秘めた図書館員の心を和げるに多少の効果を望み得たかも知れない。これは情報センター準備委員会の賛成をも得て実現された。

 七月二十一日夏期通信教育部のスクーリングの開始によって、履修学生が全国から集まって来る時期に、闘争学生の活動はエスカレートし始めた。八月八日未明、三田では第一校舎、西校舎、新研究室及び通信教育事務局にヘルメット姿の学生が侵入し、封鎖を開始した。けれども永く占拠され続けたのは新研究室であった。新研究室は図書館に隣接し、架橋によって連絡されていた。まだ研究室建設工事は完了されていなかったので、扉は閉ざされ往来は出来なかったが、図書館の閲覧事務室の窓の外側までは来ることが出来て、そこにアジ・ビラが貼られることもあった。新研究室の占拠は図書館にとって近火といえる。さらに紛争は学生をして益々暴力化せしめ、内ゲバによる傷害、職員の負傷、さらに八月二十日には通信教育の中鉢正美部長がヘルメット学生に拉致され、負傷するという事件などが重なり、占拠も塾長の再三の告示を無視して、第一校舎・西校舎えと波及した。そして九月七日には中鉢部長への傷害事件取調べのため、警視庁の強制調査が行われた。その日、当分の間、教職員及び許可された者以外の校内立入り禁止の措置が掲示され、塾長は「学生諸君に告ぐ」の緊急声明を発表した。

 九月八日、立入禁止の掲示は無視され、他大学の学生を含む、多数の武装学生が構内に乱入し、教職員を威嚇し、全施設の再封鎖を宣言し、徹底的破壊を叫んだ。塾長はマイクで学生に退去を呼びかけ、それに全く応ずる気配も見えないことを知ると、初めて警察力を導入させてその排除が行われた。この日は立入禁止であったので、図書館は八日より十一日まで事前に休館されていた。九月十一日、塾長の所信表明の集会が日吉ラグビー運動場で行われたが、紛争学生の納得するところとならず、却って警察の導入に反撥した全共闘の学生は、三田の再封鎖、図書館の占拠を企て、日吉では立看板にその旨を記して意思表示した。この頃が最も緊迫した時期であった。

 学内紛争には図書館の部課長は馳り出されて、他の職場の役職者と共に、毎度超過勤務乃至校内に宿泊して、学生の動きを警戒していたが、この頃は屈強なる男の職員は皆刈出されて警備した。特に図書館の安全は館員に限らず憂慮された処で、教員は学生を説得し、館員は万一を思慮かつて、書庫の窓に鉄枠を取付けたり、更らに玄関の広間にあったカード目録台を二階に移し、八角塔は目標となりやすいことから、中にある三田文学ライブラリーの図書・備品のすべてを書庫内に移転した。書庫は鉄扉によって閉ざされ、生半荷のドリルではこわされないと判断したのである。九月十五日から十七日にかけて図書館は再度の休館をした。

 九月十六日、約百名のヘルメット学生が再び一団となって南校舎に乱入し、教員・学生を無理に押し出し、封鎖し始めた。ところがその直後、西校舎内の学生団体ルームから火炎が起り、消防自動車が来た。火は間もなく消されたが、自動車のサイレンの響に驚いて、封鎖学生はあわてて退散した。なお火災現場からは火焔ビン製作中と考えられる証拠物件が見つかった。三田ではこの日が山であった。後は授業妨害などは頻発したが、校舎の占拠は行われなくなり、図書館の休館も全国全共闘総決起大会が慶應校内で行われると予定された十二月十九日、当日限り行われただけである。全共闘大会は学内の立入禁止措置によって行われなかった。

 こうした八月から九月にかけての激しい学内騒擾は、教職員の注意をそれにそそがせ、奔命に疲らせた。来る日も来る日も紛争に身をさらし、話題もそれに限られる。情報センターへの不平不満は紛争にまぎらかされた事も確かにあろう。論議の多い教員達もいつの間にか、情報センターの成立に異議を唱えなくなった。滑らかに終点へ近づきつつあったのである。十一月新研究室全館が完成された。そこで翌四十五年四月三田情報センターが正式に発足される段取りも決った。十一月から翌年一月にかけて情報センター人事の内交渉も図書館・研究室の双方に行われた。

 図書館から情報センター移行の最後の数ヶ月の間に、突然起ったのは図書館の臨時アルバイトの解雇に端を発した紛争である。図書館の複写事務はゼロックス開設当初から、予想以上の繁忙を重ねたので、館員のみの作業では間に合わず、臨時のアルバイトを雇って凌いで来たが、そのうちの一員が無断欠勤が多いため、解約せざるを得なかった。たまたま当該アルバイトは通信教育部の在学生であったため、通信教育闘争委員会の学生が解雇撤回を求め、図書館前には立看板を、館内の複写センター前の廊下や階段にはアジ・ビラを貼り、繰返し抗議の集会や坐り込みが行われた。既述のように学内の紛争は九月ごろから下降線をたどっていた。十一月の佐藤首相訪米阻止、一月の三里塚空港建設抗議という風に、学外闘争へと台風の目は移りつつあった。そうした状勢下での図書館の紛争の長期化は憂うべきことと思えたが、幸い学期末試験も終了して、学園から一般学生が姿を消したので、この就労闘争も先細りでいつとはなく終了した。

 十一月十日完成した研究室棟は図書館と架橋を以て連絡され、西から東へ永く延びていた。建築面積四八六・八八坪、延面積四、二八〇・九二坪。鉄筋コンクリート造地下二階、地上七階に塔屋二階建の宏壮なものである。このうち東の方、図書館に近い部分は書庫棟といって、情報センターの管理下におかれる。(建築面積一〇五坪、延面積六七四坪)ここに情報センター事務室と研究室書庫が収まる。四十五年三月二日、図書館の整理部は解体され、新編成の総務課、テクニカル・サービス部収書課・整理課となって、新研究室内の一階と三階に移転した。そして収書課と整理課は準備本部の渋川雅俊と洋書課の柳屋良博とが作るところのマニュアルに従って作業を初めた。三月二十三日には図書館最後の商議会が開かれた。二十七日にはこれも最後の図書館部課長会、夕方には情報センター披露祝賀会、三十日には図書館全員による図書館さよならパーティが催された。図書館は建物と蔵書と館長と副館長と、その召集による図書選定委員会のみを残して消滅した。最早そこには図書館という組織はない。

 最後に昭和四十五年三月末の図書館現況を示して置きたい。

図書館員数四十三名(男三十二名、女十一名)
館長 高鳥正夫
副館長兼整理部長 石川博道
総務課 岡野盛繁(係主任)、毛利信吾(係主任) 熊沢寿美子、加藤すみ子、太田臨一郎
和漢書課 堀田信夫(課長) 永井季子、天田尚子。中島和子、白石克
洋書課 柳屋良博(課長) 熊田延枝、東田全義、金森恭子、菅野千枝子
運用部長兼閲覧課長 伊東弥之助
閲覧課 碓井義美(係主任)、秋山実(係主任) 衣川専一、水口英子、生田直、森園繁(留学中)
参考課 丸山信(課長) 朝倉幸子、須田昭五郎
定刊課 笠野滋(課長) 奥泉栄三郎、大岡英太郎
  この外出納手十一名、用務員二名
蔵書数 五一五、四一三冊(和漢書三五二、〇四七冊 洋書一六三、三六六冊)
マイクロ・フイルム 一、〇六二リール(和三九二リール 洋六七〇リール)
雑誌種類 五、〇二一種(和三、六二四種 洋一、三九七種)
新聞数 六六種(国内四一種 国外二五種)内保存一三種
開架図書数 一三、七二三冊(和一一、八〇〇冊 洋一、九二三冊)
レファレンス室 図書冊数四、〇九九冊 参考質問数三、〇九五
開架雑誌数 二九三種(和二四一種 洋五二種)
四十四年度閲覧状況
  開館日数 二七八日
  館外貸出 請求者数一七、〇九八名 貸出冊数一八、六五八冊
  文献複写 マイクロフイルム ゼロックス
    申込件数 三六件 二九、一一一件
    枚  数 五、三七二コマ 二七〇、六一八枚


おわりに

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 慶應義塾図書館史は昭和四十五年三月を以て一応終りとした。ここまででも義塾創立から数えて百十二年を経ている。まだ図書館はなく、図書室ともいうべきものすらなかった創始の時代から筆を起して、これまでに至った。今、ふりかえって見ると、自づとそこに時代時代の図書館の特徴が浮び上って来ているのに気付く。最初のうちは創立者福沢の書斎が図書室のようなものであった。次いで福沢の努力によって教科書貸与を中心とした図書室になった。それから文庫を持とうとする努力の時代があった。そして小規模な書館が出来て運営される。次で欧米の図書館を利用した人の指揮による大学図書館の建設が初まる。そして大学の心臓たらしめるために蔵書構成の充実に腐心された。さらに極く最近では収書努力よりも、如何に図書館を利用さすべきか。利用者本位の図書館に力がそそがれる。勿論、以上のようなことは時を明確に区切って行われたのではないことは言を俟たない。

 独立棟の赤煉瓦の図書館が出来てからの記述は、それは図書館の本史に相当するが、その期間、館長の力の入れるところは前半と後半とでは大きな相違がある。田中一貞監督から野村兼太郎館長までは大体、館長は良き収書へ懸命の努力をした。ところが前原光雄館長以降はややおもむきを異にし、利用に重点を置いている。高村象平館長はその中間期に当るというべきであろう。収書というも利用というも、それは図書館の両翼であって欠かすことの出来ないものであることはいうまでもない。ただ、どちらかに、より重点を置くかだけである。そしてそれは図書館の長である館長の意思によって左右されもするが、時代の背景、社会の背景に影響される方が大きいことも忘れてはならない。

 慶應義塾図書館は福沢諭吉逝きあとの寂寞とした学園に活を入れるという意味もあって、当時としては必要以上に華麗な建築を作った。そんな立派なものにしないで木造として、別に工科をも作ったら良いという人もあって、議論された。しかしこの建物が強行されて出来上って見ると誠に立派で、丘の上に聳え、東京の城南地区の何処からも見えた、あれが慶應だ。慶應義塾の図書館だと指呼された。この建物は永く塾の象徴(シンボル)として塾員のひとしく誇るところであった。そしてこの建物の中に高級な図書を収めようと、館長初め教職員はその収書に努力した。塾出身者及び出身者ならずとも塾を愛する人々から、図書の寄贈が相次いだ。資金を提供して図書購入の基金としようとした人もいた。そしてこれが伝統のある大学の図書館としての地位を築き上げて行った。

 慶應義塾の図書館は今日において容積は必ずしも大きいとは言えない。東京大学などと比較すると、まづ中どころの大さの図書館といえよう。蔵書数においてもそうである。図書館内の設備の点に至っては、戦後おびただしく出来た国、公、私立大学の図書館に劣るところが多いであろう。しかしこの中にある蔵書の質は劣らないばかりか、格段に光るものを持っていることは自他共に許すところである。

 アダム・スミスを初めとする正統古典経済学書を系統的に集めていることは、経済学史の研究者にとって塾図書館の訪問は欠かすことが出来ない。又、それと対照的なマルクス主義経済書も小泉監督時代に大童わで集めた。既述のように或る時代までのマルクス主義・共産主義の著述は、網羅的に塾の図書館に収まっている。星文庫が含む和洋の政治・経済書は現在充分に使いこなせる人が数える位しかいない程の、充実さを持っている。福沢諭吉に関する資料、その門下の人々の出版物を中心とする明治初期の図書・文献も、他の大学図書館のいづれよりも水準が高いと思われる。高橋監督の推薦で購入された大量の草双紙・黄表紙類は量ばかりでなく、版の良い美本揃いである。戦後に収蔵し得た近世初期の日本文学書、お伽草子や浮世艸子などと共に、文学史の上の原本をこの図書館で見ることが出来る。その他、田中文庫、幸田文庫、小山内文庫、望月文庫、それぞれ特徴を持ち、当該専門家達には垂涎の図書群である。

 こうした良き、実のある図書群を包容した図書館であればこそ、大学の研究図書館として一流の地位に立ち得るものである。塾の中の人は使いなれた図書館であるから、あたり前として軽く見過ごしがちである。塾外の人に却って評価される。本塾図書館は外来者にもずーっと公開されて来た。多くの人々が此処を利用している。既述した大塚金之助博士のように戦争中の思想統制から自身の大学を追われた人ばかりではない、各方面の学者が紹介状の必要などというわずらわしさを持たないで、ここを利用している。又、最近では学園紛争で図書館が封鎖された大学の学生が卒業論文のために塾図書館を利用した。そしてその学生の論文を見た教授が、論文に引用されている書名を指さして、これは何処で読んだかと聞いたそうである。そしてその指導教授は「慶應図書館はいいね」と、改めて自校の図書館と比較して感慨を述べたそうである。又、しばしばこの図書館を利用する外来者に聞いて見ると、「活字化された本の原本を簡単に拝見出来て、刊本と対比出来るのは有難い」と語っていた。オリジナル・マテリアルの収集は野村館長の特に力を入れたところである。

 第二次大戦後アメリカ人が多数日本に来た。アメリカの資金援助によって慶應に文学部図書館学科が出来た。アメリカ流の考え方からいうと「大学では研究室でも図書館でも利用者、つまり研究者や学習者にできるだけサービスして、その促進を計るというのが眼目なんで、それ以外にはないと思うんです」これも勿論異論のないところである。サービスに徹する図書館であれば大変宜ろしい。図書のオープン・アクセス・レファレンス・サービス、複写、指定図書制度、館外貸出の充実から、さらには総合目録、相互貸借、文献調査にまで手を拡げる。こうした方向に力が移された。いや移されつつあるという過程かも知れない。

 こうした変化はやはり背景を考えなければならず、それが育つにはそれに適した土壌が必要である。戦前の館長は皆欧羅巴に学んだ。小泉・高橋・野村の代表的な館長は皆英国に留学し、ブリチシ・ミューゼアムやゴルドスミス・カンパニイ経済文献図書館やケムブリッヂ大学図書館で学んだ。彼らの手本は昔学んだこれらの図書館であった。図書館ばかりでなく大学も欧羅巴の影響をうけた。同様なことは早い頃のアメリカでもそうであったろう。五十年前のアメリカは欧羅巴諸国に比して、明らかに後進国であった。アメリカが先進国の地位にのし上ったのは、第二次大戦の前後からであった。米国は二度の大戦によって巨大な資力を持つ大国になり、それに伴ってあらゆる面で驚くべき進歩を遂げた。学問分野でも益々細分化されると共に、高度の精密さが求められる。高価な実験機械、多額の研究費、多くの優れた頭脳による共同研究、そして大図書館の建設とその活用、これらは資力に優り、人的資源の豊かな国にしてなし得ることであった。アメリカの図書館と大学は急速に変貌を遂げた。そして多くの米国図書館人が日本に来て、日本の図書館の後進性を批判した。日本の図書館は翕然としてそれになびいたのである。慶應の図書館もそれに例外ではない。聞くところによると欧羅巴の図書館もアメリカ・ナイズされる傾向にあるという、して見れば世界的風潮の中の動きといえる。

 しかしこうしたサービス本位が米国のように根を下した、びくともしないものになるかどうかには不安があった。大学制度そのものが戦後新制大学によって変革されたとはいえ、内容までも、教授方法までもが変ったとはいえない。学問の研究方法も亦、そうである。早い話が指定書制度にしてからが、制度が出来ても、相変らずの昔ながらの教授法では生きたものにならない。こうした暗中模索の、疑心暗鬼の時が数年つづいた。しかし、ここ数年来、そうは言っていられない事柄が起って来た。それは出版物の世界的増加である。印刷技術の発達によって図書資料が急速に増えた。ひとり紙を用いる図書ばかりでなく、フイルムに、音盤に、テープに、所謂視聴覚資料に類するものも、巷に氾濫する。それらの利用にはこれまでぼんやり放任されたやり方では間に合わない。整理するにも、それを情報として流すのにも特殊技能を必要とする。コンピュターの採用なども切実な問題として取り上げられる。そこに単なる図書館と研究室との合同によって、事務の合理化を企てようとする以上に、利用サービスの質的向上を目ざそうとする情報センターのような組織を生みだす必然性があったといえる。

 図書・資料の量は今後益々拡大されて行くであろう。その膨大な際限のない資料に、人間は振りまわされる。研究者も学生も図書の洪水の中におぼれる。それを整理し、能率的に利用させる方向に図書館が向うのは、当然の責務だといえよう。

 しかし乍ら利用本位といっても、収書の重要性を忘れてはならない。サービスは懇切丁寧にすべきであるが、良き収書なきところに良きサービスはない。図書館間の相互貸借によって収書の不備を補えるように考える人がいるが、相互貸借にのみ頼っていては時間の浪費であるし、又、円滑な貸借にはやはり当方の収書の充実がなければならない。貸借が常に一方交通ということでは先方が迷惑する。歴代館長が善本収集に努力した。それも続けなければならない。更らに膨大な図書・資料の洪水に対処して図書館を充実させるのには、良き撰択眼を持った司書の養成と充実に力をそそがねばならない。図書館運営の合理化、機械の縦横なる操作が出来ることも勿論必要であるが、図書資料に対する知識の豊富さも亦、必要である。図書資料に対する価値を知らずして図書館サービスが出来るとは思えない。

 塾の図書館は既に幾変還を重ねた。そして今後は情報センターに発展して前進をつづける。図書の収集、その利用、どちらにも力を入れ、有功に効果をあげて、塾の文運を益々光輝あらしめんことを祈って筆を置く。


慶應義塾圖書館年表

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慶應義塾図書館参照事項
安政五一〇福沢蘭学塾を開く  
 福沢英学に転ず  
万延一福沢第一回の渡米福沢ウエブスターの辞書を持ち帰る 
文久一 新銭座に移る  
文久二福沢渡欧一二チャンブルの経済書など持ち帰る 
文久三入門帳を作る  
  鉄砲洲へ帰る  
元治一   
慶応一   
   
慶応三第二回の渡米教科書を多量購入して帰国する 
新銭座に移り、慶應義塾と命名す 講堂に図書が備付けられていた江戸城開城
明治二  教科書は本箱二つに収められ、需要が多いため、常に空箱であった 
  教科書貸与は有料であった 
三田に移転す 島原藩邸の一室「月波楼」を図書室とする。図書掛は渡部久馬八文部省設置
 「慶應義塾社中之約束」を版行した 書籍出納の規則が出来た 
カロザスを雇う学制発布 
学科を改定、授業料値上 「社中之規則」に「書籍出納の規則」なし、図書貸与無料となる 
明治七  「社中之規則」に書籍の項、簡略化されて複活する 
  商法講習所設立
   一一同志社英学校創立
   
一〇  東京大学開設
一一   
一二一〇経営難給料三の一に減ず門野幾之進、図書の選択購入に当る、文庫の整理ほぼ完成教育令公布
一三一一「慶應義塾維持法案」発表  
一四社頭福沢諭吉  
  塾長浜野定四郎  
一五  一〇東京専門学校創立(早稲田大学)
一六   
一七   
一八正科五年、別科四年とす 書籍出納の規則改訂されて図書貸出には月十銭の損料を支払う 
一九  帝国大学令公布
二〇煉瓦講堂竣工す 煉瓦講堂の中に十二坪の書籍館がある 
 一〇塾長小泉信吉  
二一   
二二   
明治二三大学部発足 大学部書館を置く、書館係武田勇次郎 
 塾長小幡篤次郎  
二四   
二五  日本文庫協会創設
二六   
二七   
二八   
二九   
三〇社頭福沢塾務総覧 京都帝国大学設立
 学制改革発表  
三一塾長鎌田栄吉大学部普通部書館合併 書館係別府藤馬 
 学制改革により一貫教育となる書館を煉瓦講堂に移す 書館係小松周助 
  本山彦一図書千冊寄贈 
  教科書貸与制の廃止 
  書館幹事に菅学応、上野図書館に則り分類に着手せしも果さず 
三二 書館係横田良吉一一図書館令公布
  一〇書館を煉瓦講堂の二階に移す、書館係川勝貞吉 
三三 書館係平山幹次 読書室に新聞雑誌ウエブスター辞典を常置す 
三四福沢死去一〇山口善兵衛寄贈(鱸松塘旧蔵資治通鑑一〇〇冊) 
 「慶應義塾維持会設立趣意書」  
三五   
三六  専門学校令公布
明治三七大学部専門学校令で認可学報に図書の寄贈を求める広告を出す 
  故日原昌造、故中井芳楠記念図書費募集開始 
  伊藤尚孝寄贈漢籍千三百冊 
  武藤山治工業に関する図書購入費千円寄附 
  故日原昌造旧蔵書百八十八冊寄贈 
三八 小寺謙吉一万円寄附、それを基金とし利子で書籍を購入 
  書館を図書館と改め監督に田中一貞 
  故小幡篤次郎図書基金募集 
三九 星亨蔵書一万三千冊の委託保管帝国図書館開館
  久世直高露書数十冊寄贈 
  慶應義塾図書館洋書目録刊行 
  一一徳川頼倫一万円寄附 
  一二「慶應義塾創立五十年記念図書館建設趣意書」発表 
四〇創立五十年記念式典村田勤、ケンフェル「東亜紀行録」初版寄贈一〇「図書館雑誌」創刊
 財団法人慶應義塾認可慶應義塾図書館和漢書目録刊行 
 一二社頭福沢一太郎一〇徳川達孝和漢書三千四百余冊委託保管 
四一幹事石田新太郎那珂通世遺蔵書四千六百冊の委託保管日本図書館協会と改称
   一一日比谷図書館開館
四二 図書館建築に着工 
  佐々木哲太郎七千九百冊委託重要図書一万五千円海外に発注す 
  一一図書館安礎式挙行 
四三   
四四 アダムスミスの国富論各版購入、記念講演会を開く 
  根津嘉一郎図書購入基金一万円寄附 
四五 図書館竣工 
  創立五十年記念図書館開館式典挙行、和漢書目録、洋書目録を追補し刊行 
  アジア協会の図書三千冊の委託保管 
  一一塾外者にも図書館公開(入館料五銭) 
大正二 田中一貞洋行 
  故津田眞道遺蔵書寄贈さる 
  一二委託の星亨蔵書寄贈さる「星文庫」と命名 
 田中一貞帰国 
  一〇軍事関係書籍展第一次大戦勃発
  一一都市に関する書籍展 
  一一田中一貞日本図書館協会会長に就任 
  一二金融貨幣に関する書籍と古銭展 
 運輸交通に関する書籍展 
  英文学及び野口米次郎宛作家の手紙展 
  社会問題に関する書籍展と講演会 
  小幡篤次郎像寄贈記念展 
  義塾関係者の出版物収集への寄附要請 
  神長道之介時事新報揃を寄贈 
  一〇日米国交に関する書籍展と講演会 
  一一幸田成友蔵肖像古文書展 
  一二正面階段上にステインドグラス竣工 
一二医学科設立認可建築装飾に関する書籍展と講演会 
  山林・牧畜に関する書籍展と講演会 
  図書館事項講習会を開催(日本図書館協会主催) 
  一〇統計に関する書籍展と講演会 
  一一欧洲戦乱に関する書籍展と講演会 
  一二荘内史料展(目録あり) 
   田中日本図書館協会会長辞任 
大正六 阿部泰蔵より保険関係書購入基金寄附 
  佐々木哲太郎寄託書籍展と講演会 
  児童研究に関する書籍展と講演会 
  山岳に関する書籍展 
  図書館年報(大正五年度)発行 
  一〇伝記及系譜に関する書籍展と講演会 
  一一教育に関する書籍展と講演会 
  一二渡辺金蔵蔵書十ヶ年委託の契約成る 
 安部能成日本医書三千百八十四冊寄贈一二大学令公布
  朝鮮に関する書籍展と講演会 
  渡辺金蔵収集歌書展と講演会 
  経済学史及び経済史に関する書籍展と講演会 
  一〇新聞に関する書籍展(三田新聞学会主催) 
  一一青木昆陽歿後百五十年記念展と講演会(日本図書館協会主催) 
 印刷に関する書籍展と講演会 
  仏教に関する書籍展(仏教青年会後援) 
  一〇短冊及び和歌に関する書籍展(三田短歌会後援) 
大学新発足(文・経・法・医)文学科研究室へ図書購入費の寄附あり 
  小林文七所蔵浮世絵展及講演会 
  社会問題の図書と労働会議の記録展と講演会 
  維新名士書翰展 
  一〇仏文学と語学に関する書籍展と講演会 
  一〇福沢諭吉と塾関係図書の寄贈を広くもとめる 
  一一第十七・八世紀経済古版本展と講演会 
大正一〇 江戸の地図とその参考書展と講演会 
  哲学書展と講演会 
  監督田中一貞死去 
  一〇占部百太郎監督就任 
一一鎌田栄吉塾長辞任基督教に関する書籍展と講演会 
 一二塾長福沢一太郎新井由三郎図書九千余冊寄贈 
一二一一塾長林毅陸図書館年報(大正十年度)発行関東大震災
  アダムスミス生誕二百年記念スミス関係経済書展と講演会 
  震災により図書館被害あり 
  一〇故江守善六千五百余冊寄贈 
一三 小泉信三監督となる 
  震災による図書館建物応急修繕工事費評議会に認めらる 
  一〇コンラッド・ハインニッヒ所蔵社会問題書籍購入可決さる 
一四 岩永省一記念図書購入基金一万円寄附 
一五新塾監局竣工矢野国太郎ラテン語古書三九冊寄贈 
  カント協会刊のカント研究、同補遺一括購入可決 
  書庫増築費八万円を借入金で以てすること評議会可決 
  望月支那研究基金規程制定さる 
  一一宮永万吉・三神敬長記念醵金により海運及び南洋文献購入さる 
  一二図書館修繕費十六万円承認さる 
昭和二 図書館書庫増築工事起工 
  委託の佐々木哲太郎蔵書寄贈「佐々木文庫」となる 
  増築書庫竣工す、同時に図書館本館の修築に着手 
 図書館修築工事竣工内務省に特別高等警察課設置
  一〇福沢時太郎より故福沢捨次郎蔵書二千余冊寄贈 
 朝吹常吉、国文学・茶道・香合せ等の図書千六百四十三冊寄贈 
  一〇波多野元武、故波多野承五郎蔵書和洋二千六百六十七冊寄贈 
  一二洋書印刷目録刊行 
日吉キヤンパス用地購入小山内薫蔵書六千余冊二万円で購入東京私立大学図書館協議会設立
  一〇木村浩吉故木村喜毅遺稿及び書翰寄贈 
 養心会、福沢諭吉及びその門下の著書を収集して寄贈することを決める 
  小田万寿之助洋和四百五十余冊寄贈(翌七年にも四八三冊) 
  沢木みね子故沢木四方吉蔵書六八〇冊(美術関係)寄贈 
  一一福沢先生伝記完成記念展覧会と講演会 
七十五年記念式典西洋経済思想史展と講演会(目録) 
  ゲーテ百年祭記念展覧会と講演会(目録) 
  一〇アジア協会図書委託解約 
昭和八一一塾長小泉信三南葵音楽図書館収蔵書を委託保管の契約なる、六月移送す 
  故田中萃一郎の蔵書寄贈「田中文庫」と称す 
  編纂事業完成記念福沢先生展 於高島屋(目録) 
  星亨三十三回忌記念展と講演会 
  一二高橋誠一郎監督となる 
一一日吉開校ナチス文献展覧会文部省に思想局設置
  故滝本誠一蔵書購入「滝本文庫」 
  一一福沢および物故先輩に関する展覧会 
  一一シルレル誕生百七十五年記念展 
  一一マルサス歿後百年記念展 
  一二北里博士記念医学図書館建設趣意書 
一〇 徳川時代経済史資料展 
  ラインハルド・フランク文庫購入 
  日吉予科図書室開設(監督加藤元彦) 
  一〇門野重九郎より野崎佐文旧蔵書七二三冊寄贈 
  一一早慶図書館員野球十八対八で勝つ慶帝戦は九対六で敗る 
  一一三井高陽所蔵欧洲交通史料展と講演会(慶應経済史学会主催) 
一一 尾崎行雄明治三十年以降衆議院関係文書寄贈、約五百冊二・二六事件
  反乱軍との戦火を予想して一日臨時休館 
  松永安左エ門還暦記念和洋書二千五百七十八冊寄贈 
  早慶図書館野球八対二で勝つ 
  和漢書分類目録第四巻(政治経済社会問題)刊行 
  明治社会経済思想文献展及び大都市研究展 
  南部淳一郎、故南部修太郎蔵書千二百四十冊寄贈 
  一〇花房孝太郎、故花房義質蔵書千百四十六冊寄贈 
昭和一二 和漢書分類目録第一巻(哲学・教育)刊行文部省に教学局設置
  第一校舎完成、次で研究室建設予定の処不急建築として許可を得られず日華事変起る
  図書館防火分団を作る 
  一〇北里記念医学図書館竣工 
  一一原始及び古代文化資料展(三田史学会主催) 
一三 故茂木惣兵衛蔵書購入国家総動員法公布
  高橋忠雄、故高橋義雄蔵書千八百五十二冊寄贈(茶道・水戸学)全国私立大学図書館協議会設立
  全国私立大学図書館協議会を開催す 
  第十七世紀刊行経済文献展(目録) 
  一一支那考古学展(共催三田史学会) 
一四藤原工業大学開校渋井清所蔵浮世絵展国民徴用令公布
  和漢書分類目録第二巻(文学)刊行第二次大戦勃発
  一〇最初の防空演習 
一五 早矢仕四郎図書寄贈(明治書)日独伊三国同盟調印
  アダム・スミス歿後百五十年記念展と講演会(目録) 
  社会主義関係図書二百冊閲覧禁止命令あり 
  一一水上滝太郎展(三田文学会主催) 
一六一二三ヶ月短縮繰上卒業式安食高吉図書館主任脳溢血発作一二米英に宣戦布告
  月岡芳年五十年忌展(目録) 
  泉すず子、故泉鏡花遺品、遺書、原稿類一切を寄贈 
  三辺清一郎臨時図書館事務主任心得に任ず 
昭和一七短縮繰上卒業式貴重書を地階書庫に移動す空襲あり
  阿部優蔵、故水上滝太郎蔵書千三百五十二冊寄贈 
  馬場昂太郎、故馬場孤蝶蔵書五千三百冊寄贈 
  和漢書分類目録第五巻(科学)刊行 
  藤原工業大学図書室に戸定文庫購入 
  三辺清一郎応召 
  一二東亜文化資料展 
一八アジア研究所開設福沢先生資料展補助業務の男子就業禁止
 一一出陣塾生壮行会一〇図書館の防空対策六ケ条一二学校整備要領発表
  一〇フランク・ホーレイ蔵書(敵産)を収蔵と決す 
  一一ラジエーター取はずす 
  一二藤山愛一郎、藤山工業図書館を寄附(監督佐藤信彦就任) 
一九名誉教授制設定給仕の雇傭今月迄とす学徒勤労令公布
 校舎徴用の要請あり北里記念医学図書館寄附さる(監督鷙巣尚就任) 
 藤原工業大学の寄附により工学部開設六十歳以上退職勧告さる 
  野村兼太郎館長となる 
  柄沢日出雄、図書館主事となる 
  一〇第一回図書疎開(新潟県中魚沼郡十日町西脇寛三郎方倉庫) 
  一〇第二回図書疎開(甲府市和田平町寺田重雄方倉庫) 
二〇小泉塾長災禍にあう南葵音楽図書委託保管解約東京大空襲
 米軍日吉接収図書館に焼夷筒落下火災、書庫を残して全焼す、第一校舎に図書館事務室を置く終戦
  南葵音楽図書無事返却す一〇GHQより日本教育制度に対する管理政策指令
  幼稚舎疎開先へ図書疎開を依頼す(青森県西津軽郡木造町木造中学校内) 
  第三回図書疎開(長野県更級郡稲荷山町高村象平方倉庫) 
  一〇書庫屋根改修工事着工 
  一一米国軍人の図書閲覧貸与便宜供与に関する文部省の通達あり 
  一二重要なる文書・図書の保護に関する調査(文部省より) 
昭和二一アジア研究所廃止図書館書庫屋根改修なる第一次米国教育使節団報告書発表
 塾長代理高橋誠一郎一〇男女共学実施指示 
二二塾長潮田江次マッカーサー命令でフランク・ホーレー文庫返還の通達 
 創立九十年記念式典  
 一一通信教育部設置外来者の入館料五銭から三円に値上げ 
  図書館改修工事五百万円評議会で可決 
  一〇大島雅太郎、香果遺珍千十三点寄贈 
  一一伊東弥之助図書館主事、安食高武藤山工業図書館主事 
二三通信教育部スクーリング実施新潟疎開の図書還る国立国会図書館法公布
  スクーリングのため夏休中閲覧時間延長 
二四新制大学発足石川博道図書館主事 
 一〇日吉米軍より還る図書館大改修落成式典(総工費千四百万円に達す) 
  前館長を招待して開館祝宴 
  「慶應義塾図書館規程」制定(中央図書館制度) 
  入館料外来者三円から五円に改む 
  小島順三郎図書寄贈 
  キテイ台風にて屋根のトタン飛び漏水甚し 
  故福沢一太郎遺蔵書寄贈 
  一〇ゲーテ展 
  一一図書館屋根修理九十五万円評議会可決 
昭和二五ダウンズ塾長と会見日吉図書室の復旧工事初る。伊東弥之助日吉分室主事兼任図書館法公布
  第一回図書館商議会(館長選挙) 
  第一回図書館研究会野村兼太郎講演「イギリスの図書館」 
  研究室図書の図書館での登録開始 
  第二回図書館研究会岩井大慧講演「北京訪書余談」 
  大原信一極東軍事裁判記録寄贈 
  一一柄沢日出雄米国図書館視察に出発(ガリオア資金並に米陸軍及国務省) 
二六文学部図書館学科開校図書館学科の図書室を図書館の中に作る平和条約調印
  曲名瀬文書を十三万円で購入 
  第二回商議会(稀覯書規準を作る) 
  閉館を七時から九時に延長す 
  第一研究室竣工(第二研究室は八月竣工) 
  一一工学部図書室、機械工学科教室と同棟の建物出来る 
二七 第三回商議会 
  第四回商議会(館長選挙) 
  工学部図書室開館 
  司書に手当つく。柄沢日出雄副館長、坂本幸児渉外課長、大谷愛人貸出課長となる 
  レファレンス・ルーム開室(井出翕担当) 
  一〇中国関係稀覯書展(語学研究所共催)於第一研究室 
昭和二八 図書館大時計修理成る 
  大鳥蘭三郎、故大鳥圭介宛書翰二百通寄贈 
  第五回商議会 
  入館料改訂五円から十円 
  研究室への図書長期貸出初まる 
  フランク・ホーレー文庫未返還なきを報告 
  幸田成友蔵書一部購入の整理終る 
  一一故小林昌眞蔵書千八百冊寄贈 
   小島一雄収集犬養木堂遺墨寄贈 
  一一大正七年卒業三十五周年記念寄附金で日本古版本六十三点購入 
二九 第六回商議会(館長選挙) 
  日本古刊本展(目録) 
  慶應義塾大学図書館月報創刊 
  故小泉丹蔵書千七十八冊購入、医学図書館へ保管 
  野村館長ローマの人口会議へ出席 
  一二福沢百助旧蔵「上諭条例」を大正三年会寄贈 
三〇 第七回商議会 
  故幸田成友蔵書全冊納入 
  一〇横山重蔵お伽草子類購入 
  一〇三田の古書肆清水三次郎古稀の祝に館員、教職員多く参加 
昭和三一塾長奥井復太郎第八回商議会(館長選挙) 
 ギトラー名誉博士考を送らる私立大学図書館協会第十七回大会を慶應で行う、日本古書目展(目録) 
  キリシタン本「サンデ」を天理大学図書館に寄贈 
  上野図書館養成所と野球試合七A対六で敗る 
  書庫増設の話あり 
  野村館長布哇へ出立 
  一〇反町十郎寄贈武家文書展(目録) 
  一一日吉図書館新築に対する要望書を理事に提出 
三二慶應義塾創立百年記念建設資金募集趣意書発表野村館長帰国 
 大学に商学部増設第九回商議会 
  二条家文書を購入し収蔵す 
  野村館長日吉図書館を自由接架とするよう要望 
  白金の慶應義塾藤山工業図書館を明治生命保険相互会社に譲渡 
  一一相良文書を三百万円で購入、収蔵完了 
  一二麻生太賀吉斯道文庫七万冊寄贈決定 
三三一一創立百年記念式典挙行安食高武図書館日吉分室主任司書 
  図書館の階段に絨氈を敷く 
  第十回商議会(館長選挙) 
  高村象平館長就任 
  工学部図書室を図書館小金井分室とする 
  第十一回商議会(図書館と研究室の調整) 
  研究室の図書を図書館に登録することを止める。目録カード一枚を図書館に送る 
  日本中世文学資料展(目録) 
  斯道文庫受贈式 斯道文庫善本展(目録) 
  日吉図書館落成式 藤山記念日吉図書館となる 
  安食高武小金井分室主任司書 
  一一図書館蔵和漢書善本目録完成刊行 
  一二第十二回商議会 
  一二平岡好道三千五百六十六冊寄贈(斯道文庫に保管) 
昭和三四正門を南側とす松永安左エ門寄贈亀井南冥、昭陽著作展(目録)(斯道文庫保管) 
 慶應義塾労働組合結成  
  新図書館建設委員会発足 
  第十三回商議会 
  私立大学図書館協会常任理事校となる 
  米国ALAダルトン来塾、新図書館建設の援助要請を拒む 
  木村初江、故木村荘八蔵書千余冊寄贈 
  洋書のみの夏期館外貸出始る 
  図書館増築書庫の答申書を提出 
  図書館研究会(復活第一回)伊東弥之助「図書館増築計画の進行状況」 
  一〇寺本九兵衛、矢野竜溪遺書百八部寄贈 
三五塾長高村象平第十四回商議会国際キリスト大学図書館完成
 一二斯道文庫独立す(文庫長松本芳夫)三田研究室主事山口清重就任 
  真空殺虫殺菌装置据付け 
  第十五回商議会(館長選挙) 
  図書館部課長制成る、伊東、石川部長 
  安食高武藤山記念日吉図書館主任司書 
  閲覧室前に小展示第一回初まる 
  図書館部課長会第一回開かる 
  阿部隆一私立大学図書館協会賞授けらる 
  組合ストライキ、図書館は非組合員で開館 
  第十六回商議会(館長選挙) 
  前原光雄館長就任 
  一〇明治前期民事法関係立法史科展(法学研究会と共催)(目録) 
  一〇故野村兼太郎蔵書八千百五十六冊寄贈 
昭和三六図書館学科創立十周年記念式典カード目録を騰写とする立教大学図書館新館完成
  増築書庫九千九百五十万円理事会可決 
  新図書館計画委員会発足(委員長高村象平) 
  第十七回商議会 
  地階出入口を廃し正面玄関一本とする 
  指定図書推薦依頼状発送 
  第六回国際東方学会会議参加者歓迎展(斯道文庫共催)(目録) 
  図書館研究会 中村初雄「再分類の問題」 
  図書館研究会 津久井安夫「中央大学図書館の再分類」 
  故永田清蔵書三千二百四十一冊寄贈 
  図書館研究会 笠野滋「再分類」 
  一一柄沢日出雄教育実践上の功積により義塾賞授与さる 
  一一図書館新書庫増築竣工式挙行 
  一二三田地区教員学生の図書館利用に関するアンケート調査実施 
三七 第十八回商議会 
  ルーモプリントの複写開始 
  第十九回商議会(館長選挙)柄沢日出雄副館長辞任 
  図書館学科レファレンス・ルーム図書館内から西校舎へ移転 
  伊東弥之助副館長就任 
  増築に伴う模様替、開架室、雑誌センター新設、レファレンス・ルーム拡大、NDC分類採用、平日の館外貸出始まる 
  北里記念医学図書館改装披露式 
  一〇斯道文庫、図書館の新書庫地下一階に移転 
  一〇稀覯書書庫を新設し太田臨一郎専任担当 
  一一分館(日吉・医)の部課長制実施 
  一一日吉・四谷・小金井の図書館利用者アンケート調査実施 
昭和三八 北里医学図書館、津田良成部長心得、海老原正雄課長となる一一東京大学図書館近代化記念式典
  第二十回商議会 
  就職のための資料室を図書館地階に仮に置く 
  新図書館計画のための調査、利用者の地区間比較報告刊行 
  新書庫三階完成 
  第一回図書管理、図書整理研究集会(於新宿東京会館) 
  新図書館計画委員会米国大学図書館調査団気賀健三、前原光雄、伊東弥之助、笠野滋、米国で沢本孝久合流 
  一〇調査団帰国 
  一〇ゼロックス複写始動 
三九一二三田地区研究センター審査室案成る中江広一総務課係主任日本女子大学図書館開館
  昭和三十七年度「利用整理分科会年次報告」刊行 
  第二十一回商議会 
  第二回図書管理・図書整理研究集会(於西校舎) 
  工学部図書館分室書庫増築完成 
  第二十二回商議会(館長選挙)伊東弥之助副館長辞任 
  一〇石川博道副館長事務心得就任 
  一一笠野滋研究室主事就任、柳屋良博図書館洋書課係主任 
  一二雑誌目録欧文編刊行 
  一二南校舎のピロテイをリーデング・ルームにする案あり 
昭和四〇第五研究室竣工第二十三回商議会 
 学費改訂反対学生抗議雑誌センターを三階に移す、ゼロックス複写設備と共に 
 臨時休校昭和三十八年度利用整理分科会年次報告刊行 
 高村塾長辞任第二十四回商議会(館長選挙) 
 塾長永沢邦男佐藤朔館長就任 
 一〇慶應義塾研究教育計画委員会(委員長佐藤朔)閲覧カウンター拡大、館外貸出冊数を増加する 
  渋川雅俊ハワイ大学へ留学 
  国際大学総長会議歓迎展(目録) 
  一〇工学部図書館分室を工学図書館に昇格(副館長高橋吉之助) 
  一二図書館月報を年報にかえる 
四一研究室(三田)建設計画委員会スタート故小島栄次蔵書寄贈 
 図書館学科十五周年式典第二十五回商議会 
  第二十六回商議会 
  三田文学ライブラリー発起人会 
  サルトル・ボーヴォワール来塾記念両氏著作・研究文献展示会(目録) 
  第二十七回商議会(館長選挙) 
  一二幕末伝来蘭英書展示会(目録) 
昭和四二図書館・情報学科修士課程開設新刊展示棚を玄関に飾る近代文学館開館
 新図書館計画委員会解消、研究教育情報センター委員会発足  
  新研究室地鎮祭 
  図書館利用実体調査実施 
  雑誌目録和文編刊行 
  指定図書制度実施計画趣意書発送 
  山本洋一、故山本久三郎蔵図書・書翰寄贈さる 
  佐藤館長塾長代理資格でミシガン州立大学百五十年記念式典へ出席 
  図書館職務権限基準大綱提出 
  第二十八回商議会 
  雑誌「八角塔」創刊 
  洋書目録研修会オリエンテーション 
  一一資本論刊行百年記念図書展示会(経済学会共催、目録) 
四三慶應義塾命名百年式典挙行研究教育計画委員会第三分科会答申で情報センター構想を支持す 
 米軍援助研究費問題による学生抗議初まる第二十九回商議会 
 学生塾監局占拠第三十回商議会 
  松永安左エ門・高橋誠一郎両君名誉博士授与記念資料展 
  情報センター事務局を改組 
  柳屋良博洋書課長、田中正之日吉図書館整理課長 
  第一次研究室棟完成 
  学園紛争により日吉図書館閉鎖さる 
  森園繁メリーランド大学図書館に留学 
  第三十一回商議会(館長選挙) 
  一〇日吉図書館副館長に河村和男就任 
  一一図書館重要文化財に指定さる 
  一二図書館蔵善本稀本展(目録) 
昭和四四塾長佐藤朔情報センター事務局を準備本部と改称 
 日吉校舎バリケード第三十二回商議会 
 新研究室封鎖三田研究教育情報センター準備委員会発足(幹事藤川正信) 
 一一新研究室全館完成第三十三回商議会(館長選挙) 
  高鳥正夫館長就任 
  笠野滋定期刊行物課長となる 
  学生傷害事件発生し機動隊立入検証あり。図書館休館 
  日吉図書館副館長交迭村田碩男就任 
四五 ゼロックス係のアルバイト解雇に初まる紛争起る 
  図書館整理課、総務課が解消し、新研究室棟に改組して移る 
  第三十四回商議会 
  情報センター設立披露 

付録

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慶應義塾大学研究・教育情報センター規程(昭和四十五年一月二十日制定 昭和四十五年四月一日施行 規第一八一号)

   第一章 総則

第一条
慶應義塾大学に研究・教育情報センター(以下情報センターという)をおく。
第二条
情報センターは、慶應義塾大学における研究・教育活動に必要な図書・資料を収集、整理し、これを効果的に提供すると共に、文献情報その他の情報サービスを行ない、本大学の研究・教育の発展に寄与することを目的とする。
第三条
(1) 情報センターに本部および支部をおく。
(2) 支部センターは、次の各号とする。
一 三田情報センター
二 日吉情報センター
三 医学情報センター
四 理工学情報センター

   第二章 職員

第四条
(1) 情報センターに情報センター所長、支部センター所長、支部センター副所長および事務職員(司書職などを含む)をおく。
(2) 司書職などの専門職に関する制度については、別に定める。

   第三章 本部組織

第五条
(1) 情報センター所長は、塾長が本章第六条に定める情報センター協議会にはかって任命する。任期は二年とし、重任を妨げない。
(2) 情報センター所長は、三田情報センター所長、慶應義塾図書館長を兼ねる場合を除き、塾内の他の機関の長を兼ねることができない。
(3) 情報センター所長は、情報センターを代表し、その業務を統括する。
(4) 情報センター所長は、その職務の執行を円滑に行なうために、必要に応じ支部センター所長および副所長からなる本部運営委員会を招集することができる。
(5) 情報センター所長は、事故ある場合にそなえて、その職務の代行者を本部運営委員のうちからあらかじめ指名しておくものとする。
第六条
(1) 情報センターに情報センター協議会(以下協議会という)をおく。
(2) 協議会は、次の各号の委員をもって構成し、塾長が委嘱する。
一 情報センター所長
二 各学部長および大学院社会学研究科委員長
三 各学部から推薦された専任教員各二名および大学院社会学研究科から推薦された専任教員一名
四 支部センター所長および副所長
五 大学の設置する研究機関の長のうち若干名
六 その情報センター所長が必要と認めた者
(3) 前項第三号および第六号の協議会委員の任期は二年とし、重任を妨げない。
(4) 協議会は、情報センター所長の諮問機関として、この規程で別に定めるもののほか次の事項を審議する。
一 情報センター運営の基本方針
二 情報センターの予算・決算に関する事項
三 その他情報センター運営に必要な事項
(5) 協議会は、毎年二回定期に情報センター所長が招集し、その議長となる。ただし必要がある時は、臨時に招集することができる。
第七条
(1) 情報センタの本部事務室を三田地区に設ける。
(2) 本部事務室に本部事務室長をおく。
(3) 本部事務室は、情報センター所長の命を受け、情報センター業務に関する全般的管理、企画および研究開発並びに調整に関する業務を担当する。

   第四章 支部センター

第八条
(1) 支部センター所長は、情報センター所長が協議会の議を経て塾長に推薦し、塾長が任命する。任期は二年とし、重任を妨げない。
(2) 支部センター所長は、情報センター運営の基本的方針に基づいて、当該支部センター業務を統括する。
第九条
支部センター副所長は、支部センター所長を補佐し、支部センター所長事故ある場合は、その職務を代行する。
第十条
(1) 各支部センターに支部センター協議会(以下支部協議会という)をおく。
(2) 支部協議会は、当該支部センター所長の諮問機関として、次の事項を審議する。
一 当該支部センター運営の基本方針
二 当該支部センターの予算・決算に関する事項
三 その他当該支部センター運営に必要な事項
(3) 支部協議会は、当該支部センター所長が必要に応じて招集し、その議長となる。
第十一条
各支部センターの内部組織および支部協議会の細目については、別に定める。

   第五章 規程の改訂

第十二条
この規程の改訂は、情報センター所長が協議会にはかり、大学評議会の議を経て塾長が行なう。

   附則

第一条
この規程の施行後、この規程の定めに従って情報センター所長および支部センター所長が任命されるまでの間、それぞれの職務の遂行については、暫定的に次の措置をとるものとする。
情報センター所長および三田情報センター所長の職務は、この規程の施行直前に研究・教育情報センター準備本部長の職にあった者がこれを代行する。
日吉情報センター所長の職務は、藤山記念日吉図書館副館長および日吉研究室運営委員長がこれを代行する。
医学情報センター所長の職務は、北里記念医学図書館副館長がこれを代行する。
理工学情報センター所長の職務は、工学図書館副館長がこれを代行する。
第二条
この規程の施行と同時に図書館学研究会規程を廃止する。また、最終の支部センター規程の施行と同時に慶應義塾図書館規程を廃止する。
第三条
この規程は、昭和四十五年四月一から施行する。

三田情報センター規程(昭和四十五年一月二十日制定 昭和四十五年四月一日施行 規第一八二号)

第一条
慶應義塾大学研究・教育情報センター規程(以下情報センター規程という)第三条による三田情報センターの運営に関しては、この規程の定めるところによる。
第二条
(1) 三田情報センターは、情報センター規程第二条に掲げる目的を遂行するため、慶應義塾図書館(三田)および慶應義塾大学研究室(三田)の図書・資料を収集、整理し、これを効果的に提供すると共に必要な情報サービスを行なう。
(2) 三田情報センターは三田地区所在の研究所およびそれに準ずる機関の図書・資料の収集、整理をも行なうことができる。
第三条
(1) 三田情報センターにパブリックサービス部とテクニカルサービス部を設ける。
(2)パブリックサービス部は、情報と図書資料の提供に関する業務を担当するため、部内にレファレンスその他の情報サービス担当と、閲覧課を設ける。
(3) テクニカルサービス部は、図書・資料の発注、受入、整理および目録編成などに関する業務を担当するため部内に収書課と整理課を設ける。
第四条
(1) 三田情報センターに総務課、複写・印刷センターおよび特殊資料担当を設ける。
(2) 総務課は、人事、庶務、会計および施設の管理などの業務を担当する。
(3) 複写・印刷センターは、複写・印刷業務を担当する。
(4) 特殊資料担当は、特殊資料を管理する。
第五条
情報センター規程第十条の定めにより設置する三田情報センター協議会(以下三田協議会という)の委員は、次の各号により三田情報センター所長が委嘱する。
文学部・経済学部・法学部・商学部および大学院社会学研究科の図書委員長
文学部・経済学部・法学部および商学部から推薦された専任教員 各一名
三田地区所在の研究所およびそれに準ずる機関から推薦された者 若干名
三田情報センターの副所長および部長
研究室運営委員長(三田)および研究室主事(三田)
その他三田情報センター所長が必要と認めた者
第六条
(1) 三田情報センターに図書選定合同委員会をおく。
(2) 図書選定合同委員会については、別に定める。
第七条
この規程の改訂は、情報センター所長の発議に基づき、情報センター協議会の議を経て塾長が行なう。

   附則

第一条
この規程は、昭和四十五年四月一日から施行する。

慶應義塾図書館(三田)規則(昭和四十五年一月二十日制定 昭和四十五年四月一日施行 規第一八〇号)

第一条(根拠)
慶應義塾に慶應義塾図書館(以下図書館という)をおき、図書館(三田)の運営に関しては、この規則の定めるところによる。
第二条(目的)
図書館(三田)は、大学の研究・教育の発展と充実を目的として図書・資料を収集し、大学の総合研究図書館および学習図書館の機能を充分に発揮しなければならない。
第三条(職員)
前条の目的を達成するため、図書館(三田)に館長一名、副館長一名をおき、必要に応じて事務職員をおくことができる。
第四条
館長および副館長は、三田情報センターの所長および副所長がそれぞれ兼ねるものとする。
第五条(職務)
館長は、図書館(三田)を代表し、図書予算の編成、執行および図書・資料の収集、選定を行なう。ただし施設の管理および総務的業務をはじめ、図書・資料の収集、整理業務および利用サービスなどについては、三田情報センターにこれを委管する。
第六条
副館長は館長を補佐し、館長事故あるときは館長の職務を代行する。
第七条(図書選定委員会)
第五条の職務のうち、図書資料の収集選定業務を遂行するため、図書館に図書選定委員会を設ける。
第八条
図書選定委員会は、館長の諮問機関とし、館長、副館長のほか、館長の委嘱した学部、大学院研究科所属の教員および館長が必要と認めた者をもって構成する。
第九条
館長は、必要に応じて随時図書選定委員会を招集することができる。
第十条
図書選定委員の任期は二年とし、重任を妨げない。

後記

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 「慶應義塾図書館史」の校正を終えて、その出来栄えにはいささか忸怩たるものがある。慶應義塾には昭和四十三年には「慶應義塾百年史」が完成され、四十五年には「稿本慶應義塾幼稚舎史」が刊行された。前者は上・中・下・別と付録を合して全六巻、後者は前・後篇合して四巻に及ぶ膨大なもので、長年月を費やして資料を探索し、周到なる準備の下に執筆されたものである。それに比してこの「図書館史」はあまりにも短日月のうちに、纒められたといわざるを得ない。序文に高鳥図書館長が述べておられるように、この企画は三田情報センターの組織の中に、図書館と研究室が一体となったのを一つの区切りとして、これまでの図書館の歴史を回顧し、書き残して置こうと思いつかれたことに初まる。そして四十五年五月頃、館員として最古参になった私に執筆を求められた。

 私は本文の中でも触れたように昭和十年慶應義塾に就職し、終始一貫して図書館に勤め、数年の分館―当時はそうはいわなかったが―生活の外は、ずーっと三田の図書館で過した。この間、私の見聞した範囲内でも非常な変化を図書館はしている。私がたまたま語る図書館の古い話に、若い人達は珍奇なことを聞くが如き眼付になる。僅かな年月の間に隔世の感を催すほど、世の中自体が変っているように思えた。私が館長のすすめられるままに、図書館史に手をつけて見ようと思ったのは、それがためである。今後もっと急速な変化を、日本の国も、慶應義塾も、その中の図書館も、なして行くであろう。そうした時に過去を振り返って、これまで辿った道程を考え、その中で働いた人々の努力を後世に残すことは、無意味とはいえない。

 高鳥館長の注文はなるべく館長の任期の間に作ること、そして原稿は二百字詰で千枚位という御希望であった。私は今まであまり長い文章を書いたことが無かったので、それがどの程度の詳細さで記述し得るのか、掴めなかったので、執筆に着手することが中々出来なかった。たまたま情報センターの機関誌「KULIC」から原稿三十枚で、その一部の連載をもとめられて、この本文の第一章の一の鉄砲洲時代を書いた。それによって大体の目安が立って、この位のものが三十三節書けることを知り、そこで前以て章節を分け、その一節には字数をなるべくあてはまるように記述した。しかしそれでも書き進むうちに予定を越えて、千百二十枚になってしまった。

 こうした記述の仕方をしたので、振りかえって見ると記事に精粗が出来たように思える。殊に年月からいって短かい筈の第六章「この十五年」は、却って事件が多くあって、短い節に纒めるのは非常に困難を感じた。また篇中に出て来る大部分の方々が健在なので、その記述の方法や精粗などに、色々御不満を持たれるだろうことは、覚悟の上とはいいながら、不安もなかなかに拭いきれない。

 凡例にも述べたように引用文の典拠は、頁数の関係を考慮して省いたところが多いので、ここで一括して参考文献の主なるものを挙げて置きたい。慶應義塾には「百年史」を初めとして、これまで校史の編纂が多い。福沢の書いた「慶應義塾紀事」、それに「五十年史」「七十五年史」がある。初期のことを知るには「福沢諭吉全集」や雑誌「三田評論」「三色旗」などに掲載された先輩諸氏の回想記が有益である。新聞「時事新報」さては学生編輯の「三田新聞」、雑誌では「慶應義塾学報」や「三田評論」など、明治から大正を通じて永く資料を提供した。大正年間になると学校で出す「慶應義塾総覧」、図書館で出す「図書館年報」等がある。戦後は、殊にこの十五年は、謄写印刷の簡便化によって、活字印刷に限らず、おびただしい出版物がある。新図書館計画や情報センター計画の資料は、それこそふんだんといえる程出た。それらに全部目を通すとしたら、到底この年月では書き得ない。以上のような学校の印刷物の外に、個人の著作では各館長のものした著述類がある。特に分量の多いのは故小泉信三氏と齢九十歳に近いがなお、健筆を揮われている高橋誠一郎氏である。「三田評論」に連載のエピメーテウスに多くの回想記を見出す。

 戦災で事務室を焼いたことから、戦前の図書館原資料は殆んど失われている。ところどころで使われた一部の資料は、突然の病気で机上の始末も出来なかった安食高吉氏の残物が、書庫の一隅に積まれてあったからである。それと東野利孝氏の御遺族から福田徳三氏らの手紙など見せていただいて参考になった程度である。戦後の資料は多い。しかし担当者によって保存にむらが出来ている。以上の資料の外は、関係者や古老の記憶を書留めた。記憶による談話は同じ時、同じ場所にいた筈の人が、随分ちがった印象を語るのが、不思議でもあり興味もあった。それらの選択には充分注意したつもりである。

 ここの図書館ばかりでなく、他の図書館との比較をもっと入れたかったが、平生の不勉強のため、資料が不足してあまり語れなかった。その点心残りである。ほかの大学図書館でも、こうしたものを印刷されて残されるならば、その積み重ねによって、より好い日本の大学図書館史が出来ると思われる。この図書館史も、その一礎石となり得れば幸いである。

 最後に、この「図書館史」は高鳥館長の発意とその鞭撻とによってなった。館長の御期待通りのものになり得たかどうか、甚だ心もとない。またこの書を作成するのに古老・先輩の談話による御援助や、同僚諸氏からの励ましも多かった。いちいちお名前を記して感謝の意を表し得ないのを残念とする。なお、挿入写真は塾史編纂所、三田評論編輯室などの御厄介になった。


本文の訂正

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 原版の第三章、三、「新図書館の運営」の94ページに、ラテン語綴りのミスがありました。原版では「Calamus gladis Fortior」と誤記されていますが、HTML版では正しく「Calamus gladio Fortior」に致しました。